ありがとう
広場では何を話す訳でもなく、二人は夜空を眺めた。
今、口を開けば弱気な言葉が次から次に出てきそうで、何も話せない。弱気な言葉もそうだけれど、やっと引っ込んだ涙まで道連れに出て来てしまいそうで、結菜はずっと黙っていた。
ここにこうやって蓮と空を眺めているのもまた思い出になるのだろう。今度ここへ来るときは一人……その時にこうやって手を繋いでこの場所に立っていたことを思い出すのだろう。
蓮との思い出を、ひとつまたひとつと一生を掛けて少しずつ思い出していこう。そうすれば寂しくなんかない。
蓮の部屋に帰ると蓮に抱きしめられたまま眠った。
結局、あれからお互い何も話さなかった。
明け方になると、結菜はそっとベッドから抜け出し、眠っている蓮を暫くの間眺めた。
蓮と出会ったのは入学式の日。蓮はいつ見ても不機嫌な顔をしていた。その理由も分からなくて、最初は話しかけるのも躊躇う雰囲気を漂わせていたから、苦手な人だなと思っていた。でも、少しずつ蓮の事が分かっていくうちに、いつの間にか好きになって、そして自分の中で大切な人に変わっていった。離れたくない。ずっと一緒にいたいって、そう思った……
とてもじゃないけど「さよなら」なんて言えない。
笑顔で別れる自信なんてなかった。
うっすらと明るくなってきた部屋の中を見回す。ここであった出来事もこれからの自分にとって、とても大切な宝物になるだろう。
結菜はベッドで眠っている蓮の頬にそっと唇を落とした。
「蓮くん。ありがとう」
――――ありがとう。
いつも私のことを想ってくれてありがとう。いつも助けてくれてありがとう。いつも励ましてくれて…………いつも優しくしてくれて……
いつも私を愛してくれて……
ありがとう……
結菜は蓮に気づかれないように部屋の扉を閉めた。
全部最後。こうやってこの廊下を歩くのも、こうやってこの階段を下りるのも、これで最後。
この場所に来ることはもうない。
結菜が玄関のドアを開けようとしたとき、後ろから進藤に呼び止められた。
まだ夜が明けきらない早朝。進藤は結菜を待っていたようにタイミング良く現れた。
「お時間は取らせません。少しだけよろしいですか?」
本当は誰とも話しなどしたくなかった。たった今、蓮と離れたばかりできっと進藤の話しなど耳に入らない。
―――「進藤に会った?」
夕べ、蓮が言った言葉を思い出す。
蓮はそれ以上何も言わなかったけれど、何だったのかと疑問が沸いてしまった。
それが知りたくて結菜は進藤に後に付いてリビングルームに入った。
進藤にソファーに座るよう言われると素直にそれに従う。
正面に座った進藤を見た。普段は綺麗なスキンヘッドの進藤の頭全体に、少しだけ髪が生えていた。見慣れない進藤の髪についつい目が行ってしまう。
「ヒカルさんは……残念でした」
結菜は進藤の言ったことを聞き流すように、進藤から目を逸らした。
「それで。話しってなんですか?」
こうやってこの人と話しをする時は、いつも何故かあまりいい話ではない。だからだろうか。座ったばかりだというのに、ここに来てしまったことを後悔していた。
「あなたも分かっているとは思いますが、あの時はたまたまヒカルさんがあのようなことになってしまったのです。一歩間違えていたら蓮さんがヒカルさんのように……」
「やめて!」
耳を塞ぎたくなる。
それ以上、何も聞きたくない。
それでも進藤は話しを続けた。
「蓮さん……社長にもしものことがあれば、どれほどの損害があったか。ただでさえ今の雨宮グループは危うい状態なのです。報道ではなんとか社長の名前は公にさせなかった。あの事件に雨宮グループの社長である蓮さんが関わっていると表沙汰になれば、またそこにつけ込んでくる輩がでてくるでしょう。そうなれば会社縮小でのリストラだけではすまされなくなる」
淡々と話しをする進藤に怒りが込み上げてきた。
自分が蓮の前から居なくなっても、この人は蓮の傍にずっと居る。
それなのに……
「蓮くんの心配はしないのですね。会社、会社って……進藤さんは会社のことしか頭にないのですか!」
「あなたも上条財閥をお継ぎになるのでしたらよく理解しておいたほうがよろしいかと。会社があっての蓮さんなのです。雨宮グループが崩壊すれば、蓮さんには何もなくなってしまう。地位も名誉も、お金も、住む場所ですらなくなってしまうのです。会長が蓮さんに託したものを守るのが私の役目なのです。そのためなら私はどんなことでもします」
どんなことでも……
「…………」
ゾクッと背中に寒気が走った。
でも進藤は確かに言った。蓮の父親が亡くなった時「応援する」と。
「今回のことで確信しました。あなたは雨宮グループにとって邪魔な存在でしかありません。あなたと雨宮グループを天秤にかけると、蓮さんは間違いなくあなたをとるでしょう。トップに立っている社長がそれではいけないのです」
「だって……あの時、賛成してくれたじゃない」
「あの時はあの時です。結菜さん、時間は動いているのです。お分かりいただけますか」
進藤の目には感情が何も感じられない。人の温かみとか人としての優しさだとか、怒りや憎しみとか、そんな感情も何もない。
「だから、蓮くんと別れろと?」
「そうです。会うのは今日限りにしてもらいたい。それが出来ないのでしたら」
「出来ないと言ったら?」
「その時の対処法は結菜さんの方がよくご存じでしょう」
「…………」
もういい。
よく分かった。
蓮がどうしてこんなにあっさりと身を引いたのか。
――もう誰も傷つけない。
――ああ。
よく分かった。
結菜はソファーから立ち上がると涙を溜めた瞳で進藤を睨み付けた。
「安心してください。もう。蓮くんと会うことはありませんから」
結菜は溢れてくる涙を拭いながら門を出た。
寒空に飛び出してから怒りの矛先をケイに変えた。慌てて連れてこられたから部屋着のままだし、なにせ上着も羽織ってないから寒くてしょうがない。
流れてくる涙もすぐに冷たくなって顔が凍りそうになる。少しでも寒さを誤魔化そうと両腕をさすった。
進藤には最後の最後にとどめを刺されてしまった。
蓮にも同じように話しをしたのだろう。
これでよかったんだ。こうするしかなかった。他の選択肢なんてない。
頭の中では呪文のように同じ言葉がぐるぐると回っている。
夜が明け、すっかり明るくなった冬の空を見上げた。
空気が澄んでいて、深呼吸をすると肺の隅々まで新鮮な空気が行き渡るように気持ちいい。
この空のどこかにヒカルがいて見守ってくれているのだろうか。
だとしたら、きっと今頃、怒ってる。
―――笑え。空を見て笑え。
ヒカルの苦しそうな顔が浮かぶ。
「ヒカル……今はまだ笑えないよ」
ゴメンね。と小さく呟いた。
家に帰ると広海が玄関先で待ち受けていて、驚く結菜は抱きしめられた。
「もう!心配させないでよ!こんな薄着で。風邪でもひいたらどうするの!」
怒り口調なのに広海の腕の中も温かい。
「ごめんなさい。広海さん」
素直にそう言うと「まあ。いいのよ」と照れたように広海は家の中に入っていった。
「蓮くんのとこに行ってたんでしょ?怒ったりしないから連絡ぐらい欲しかったわ。それに鍵も開けっ放しで」
さっきは、いいのよ、と言った広海は、まだ怒りが収まらないようでブツブツ小言のように呟いている。
「もうこんなことしないよ。大丈夫だから」
「そう……でもね。こういうことが続くと、蓮くんだって信用を無くすと思うのよ。だからね」
「もう心配いらないってば!」
怒られているのは自分なのに、つい苛ついてしまう。
「あら。親子喧嘩?」
フフフっと笑いながらリビングに入ってきたのは、ヒカルの母親である安西菜穂だった。