誰かの為に
重い足取りでエントレスを抜け、緩いカーブの螺旋階段を上がる。
こんなに蓮に会うことが怖いと思ったのは喧嘩をした以来。
喧嘩をした時もこのドアをノックするのが躊躇われた。結菜は軽く手を握りドアを叩く寸前で動きを止めた。
池沢に折られた右手の人さし指も既に完治していた。銃弾がかすった頬にはまだ少し蹟が残っている。生きていればこうして傷は癒えるのに、心の傷はどんどん深くなる。
結菜は落ち着こうと指輪を触るために首の下に手をやった。
-あ……
紫苑に教室から連れ去られた後。チェーンに繋いでいた指輪は行方が分からなくなっていた。きっとあの倉庫に落としてしまったのだろうと諦めていたのに、癖になっていたその行為は不意に出てきてしまう。
ぼうっとそんなことを考えているとノックをしようとしていたドアが突然開いた。
「入れば?」
一向に来ない結菜を迎えに来たのか、蓮はドアノブを掴んだまま結菜を部屋の中に招き入れた。
内心ビクついている結菜だったけれど、平然を装うと、蓮の前を通り部屋へと入った。
「会社はどう?」
いつものようにソファーに座る。
「まあまあ」
「何よ。まあまあって」
ガラステーブルの上や机の上には会社の書類らしき紙が何枚も重ねて置かれていた。
蓮はソファーの前のガラスのテーブルに散らばっている書類をかき集めると、勉強机の上に持って行く。
「忙しいのになんか……ごめんね」
蓮に違和感なく話せているだろうか。
「何言ってんだ。ケイに無理矢理連れてこられたんだろ?」
「…………」
結菜は否定も肯定も出来ず曖昧に笑った。
少しの沈黙もどうすればいいのか分からなくなる。蓮のちょっとした仕草も顔の表情も気になって仕方ない。
「進藤に会ったか?」
「ううん。会ってないけど……」
蓮は「それならいいんだ」と言葉を濁した。
蓮は会社を建て直すために進藤と行動を共にしている。今日ももしかするとこの家に居るのかもしれない。
進藤とはマユのことなど、色々あった。でもあの時進藤は言った。蓮とのことを応援すると……
そうやって少しずつ周りにも認めてもらえだしたというのに。
きっと同じだろう。
今、二人が考えていることは……
後はどちらが先に切り出すのか。
結菜は瞳に焼き付けるように蓮をじっとみていた。きっとこれで最後かもしれない。いや。最後にしないといけない。そう心に決意し口を開いた。
「蓮く……」
「あのさ。これ」
結菜の言葉を遮るように蓮は何かを差し出した。
「何?」
不思議そうに握っている蓮の手を見ると、広げた蓮の手の中には指輪が乗っていた。
「この指輪。上条にピッタリだと思って」
蓮に左手を取られると、薬指にすっと嵌められる。
「わあ……」
その指輪は三つの可愛いハートのダイヤが連なっている。真ん中のダイヤだけピンクがかっていて、そのハートのダイヤ以外にもリングの部分に幾つものダイヤモンドが嵌め込まれていて光っていた。
「気に入った?」
「う……ん。かわいい」
結菜は手をかざして蓮から貰った指輪を眺めた。蓮も結菜の様子を嬉しそうに見ている。
でも……
心からは素直に喜べない。
結菜は上にあげていた手を下ろすと、薬指から指輪を抜き、ガラステーブルの上に置いた。
「ゴメン。やっぱり貰えない」
もう最後にすると決めた。もう……
「そう言うと思った」
「…………」
蓮は結菜が置いた指輪を掴んだ。
「でも、これは持ってて欲しい。お互い嫌いでこうなるんじゃない。その証拠に……な?」
どこまでも優しい蓮に思わず涙が出そうになる。
「ごめん……」
「謝るなよ。頼むから謝るな」
蓮はまた結菜の薬指に指輪を嵌めた。そしてその手が後ろ頭に伸びると、ぐっとそのまま引き寄せられ、蓮の首元に頬が触れる。
蓮の触れている手や身体が小刻みに震えている。もう片方の腕が背中に回ると今度はぎゅっと抱きしめられた。蓮の温かい腕の中……
出てきそうな涙を堪えるのに全神経を集中させる。ここで泣けば余計離れられなくなる気がしたから。
絶対に泣かない。
この部屋を出るときは笑顔でいたいから……
「上条っ」
蓮の絞り出すような声に、あれほど我慢していた涙が洪水のように流れてきた。
あの時……倉庫で泣いたあの時。涙はもう枯れ果てたのかと思っていた。
蓮に抱きしめられながら、結菜は必死で泣くのを止めようとしたが、意志とは逆に嗚咽が漏れる。
「ごめんね……ごめ」
謝るなと言われてももう自分には謝ることしか出来ない。
ふたりはどうして一緒にはいられないのだろう……
どうして離れなければいけないのだろう……
どうしてこんなに悲しいのだろう……
どうして……どうして……
頭の中ではそんな疑問ばかりが生まれては消えていく。
「最後に一つだけ我が儘聞いてくれるか?」
蓮の震えた声が胸を伝わって聞こえてくる。
「私も……私もある」
最後という言葉は嫌いだ。でも今日は蓮の言った「最後」という言葉が、心で中では何度も呟やかれていた。
「何?」
抱きしめられていた腕が外れると、蓮に泣き顔を覗き込まれる。結菜は泣き顔を見られたくなくて視線をそらした。でも勇気を出してこう言った。
「朝まで蓮くんと一緒にいたい―――」
これが最後だから。これで最後にするから。だから、今だけは蓮くんの傍にいたい。
蓮はいつもするように結菜の頭の上に手を乗せるとフッと息を吐いた。
「上条に先に言われるとは思わなかった」
「え?」
「俺も同じ事考えてたから」
蓮と目が合うと、再び胸の中に引き寄せられた。
きっと二人は同じ気持ちなのだろう。同じ想いで相手を想って、そして同じことを感じている。
教室で初めて蓮と出会った時から、こうなることは分かっていたのだろうか。
結局運命には敵わなかった。志摩子から警告されたとき、あの時に言われた通りに蓮と別れていればみんなが傷つくようなことはなかったのだろうか。悔しいけれどあの時志摩子が言ったことが的中した。みんなを傷つけ、そして……ヒカルを死なせてしまった。
蓮と一緒にいなければ、蓮も傷つくことはなかったのに……
「もう誰も傷つけない」
「ああ。」
二人だけが幸せになんてなれない――――
肌に触れた蓮の手が、背中から腰に滑るように下りてくる。重なった唇が離れると、見つめ合いまた唇を合わせる。一生分のキスをするように、お互いの温もりを確かめ合うように、二人は何度も抱き合った。
それは終わりだけど終わりじゃない。
これは二人がこれから歩いていく為の始まり。
私はずっとこれからも蓮くんを忘れないだろう。こんなに愛した人は、忘れられないだろう。
自分に触れるこの手の温かさも、私の反応を窺うような優しいキスの仕方も、全てを包み込んでくれる大きな心も。
きっときっと忘れられないだろう……
大丈夫。この思い出だけで、一生生きていける。
私はこれからの人生を歩んでいける。
いや。歩いて行かなくてはいけない。
今まで傷つけた人達や、蓮くんのために、自分自身のために……そして、ヒカルのためにも――――
蓮の腕枕で結菜は天井を見ていた。
「ねえ。あの広場に行ってみない?」
もう何度身体を重ねたのか分からなくなった夜中。不意にあの場所に行きたくなった。
7月7日の蓮の誕生日にあの広場で会う約束をしていた。尤もあれはみんなを欺き、別れるフリをした時に交わした約束だったけれど。
蓮の大きな上着を羽織って外へ出た。吐く息は白く、顔に当たる空気は冷たい。
最近家の中に居ることが多いから気がつかなかったけれど、いつのまにか秋は過ぎ、冬という季節に入っていた。
隣に並んだ蓮に手を握られ、ポケットの中に自分の手と一緒に入れられる。黙ったまま目的地まで二人は歩いた。
長い坂を上り広場に着くと辺りは真っ暗で、見下ろした街もシンと静まり返っていた。