最低女
月曜日―――
今日の結菜は一人で登校していた。朝早くに綾から電話があり、今日は綾ママの職場に寄っていく用事があるとかで、そのままそこから学校へ行くらしい。昨日の出来事を聞いてほしかったけれど、仕方がない。学校でも会えるのだからその時に聞いてもらおう。そう思い、下駄箱の扉を開けた。
「結菜ちゃん。おはよう」
振り向くと、朝早くから爽やかな省吾の笑顔がそこにあった。朝の太陽に照らされて、茶色く見える柔らかそうな髪。子犬のように黒く潤んだ瞳は年上なのに可愛いとさえ思ってしまう。
−『僕が立候補してもいいかな?結菜ちゃんの彼氏に』
省吾の顔を見た瞬間、昨日の省吾が言った言葉を思い出し、顔が熱くなる。
それって、そういう意味だよね……でも、なぜ省吾先輩が私を?分からない。
だって、まだ知り合って間もないから、先輩のことだってよく分からないし……
いや。分かっていることがある。この人はとてつもなく女の子に人気があるということ。その省吾先輩がなぜ……?
もしかすると、からかわれているのかも……
「あの……」
あれは冗談だよね。
「おはよう。結菜ちゃん」
結菜の言葉を遮るように、そこには人懐っこそうな笑顔を浮かべた純平が立っていた。後ろには蓮の姿まである。
「お、おはよ……」
挨拶を交わすものの、気まずい空気が漂う。昨日あの場には蓮もいたのだ。
「昨日、兄貴と偶然会ったんだって?」
「え?聞いたの?」
「聞いたって……あんな兄貴見たのは初めてだよ」
「純平!」
省吾が制するが、純平は構わず話しを続けた。
「宣言されたよ。結菜ちゃんは誰にも譲れない……って。兄貴は本気みたいだから。結菜ちゃん兄貴のことよろしくね」
純平は少しだけ寂しそうな顔をすると、そう言い残し、後ろ手を振りながら教室へと歩いていった。
−よ、よろしくって……
確か、前には省吾から純平をよろしくと言われたことがあったはず。さすがは兄弟。
「純平の言ったことは気にしないで。ゆっくりと時間を掛けて僕のことを分かってくれればそれでいいから。返事は急がないよ」
−先輩……
こんな人が、本当に自分なんかでいいのだろうか。
「どうしよう……」
まさか、自分がこんな場面を迎えることになるなんて。
「どうしようって。省吾を振る奴なんかいないと思うけど?」
省吾も立ち去り、なぜか蓮と一緒に教室までの廊下を歩いていた。
「蓮くんは人を好きになったことある?」
「なんだよ。唐突に。まあ。ないわけじゃないな」
「そうだよね。蓮くんは年上キラーだもんね……」
「お前。わざと俺を怒らせようとしてないか?」
違う。そんなことを言いたいんじゃない。
「私……まだ男の人を好きになったことがないんだ。だから、どうだったら自分が相手のことを好きかなんて、分からない」
ドキドキしたり、胸がキュンとなったりするって聞いたことがある。
ドキドキは、なんとなく分かる。でも、「キュン」ってなに?
「そんなの、簡単だよ。してみて、嫌じゃないかどうかだろ?」
「何をするの?」
「……察しろよ。ま、おこちゃまには、まだ分からないかもな。なんか想像もできないけど」
蓮はそう言うとクスッと笑って、すぐにまたいつもの恐い顔を作った。
おこちゃまか。そう……だよね。きっとそうだ。まだ恋愛をしたことがないなんて。反論なんか出来やしない。
ここは、省吾が言ったように、ゆっくりと時間を掛けて自分の気持ちに向き合うのも良いのかもしれない。急ぐ必要なんかない。まだ、これからだ。なにもかも、始まったばかりなのだから。
お昼休みになり、いつものように四人の机を合わせてお弁当を広げる。いつもなら、恒例になったこの行為に、クラスの誰もが当たり前のように何も言わない。
しかし、今日は違っていた。時々突き刺さる視線が痛い。廊下には違うクラスからの見学者が何人も教室を覗いている。
そんなことには慣れてしまっているのか、省吾は平然と結菜の隣でお弁当を食べていた。
「なんで省吾さんがここでお弁当を食べてんの?」
一人だけ意味の分からない綾が不思議そうに目をぱちくりしている。
「え?一緒に食べたらいけなかった?」
「いや。そういう意味じゃなくって」
「綾。兄貴は少しでも結菜ちゃんの傍にいたいんだよ。分かってやって」
純平は冗談を言うような口調でうんうんと頷きながら言っている。
「えっえ―――っ!?いつの間に??結菜。本当か?」
「ちょ。綾ちゃん声が大きい」
ただでさえ目立っているのだ。いつもはおいしく食べるタキ特製の甘い玉子焼きも、こんなに人に見られていたのでは、喉を通らない。
「省吾はこのおこちゃまのどこがいいんだ?」
「ちょっと……おこちゃまって」
どこがいいのかなんて、そんなこと。少し知りたい気もするけど……いやいや。こんな状況で普通は聞かないものだ。みんなに注目されているところでなんて恥ずかしすぎる。本当に蓮はデリカシーの欠片もない。
「どこがいいって……」
そう言いながら、省吾は結菜の方を向いた。途端に顔から火が噴き出すのではないかと思うほど一気に血液が集中する。
だめだ。居心地が悪い……悪すぎる。
「結菜ちゃんと一緒にいると、自分が自分でいられるってとこかな」
「へー。それってなんかいいな」
綾は結菜に向かって、笑顔で「羨ましいよ」と付け足した。
-『自分が自分でいられる』
結菜は、まっすぐな省吾の言葉に少しずつ鼓動が早くなるのを感じていた。
***
それは火曜日の放課後のことだった。
HRが終わり、結菜はいつものように綾と二人で学校を出たところだった。
「あっ……」
校門より少し離れた歩道の端に見たことのある人物が二人、結菜たちとは違う高校の制服姿で立っていた。
二人もこちらに気づいて歩み寄ってくる。
「ユイ。会えてよかった」
アッキーと、マユ……
HIKARUの妹だと分かり、二人が呆然としているところを自分は逃げてしまったのだ。
「結菜。知り合い?」
「うん……」
「先に行ってるから」
綾は二人の横を通り過ぎると、塀の角を曲がりすぐにその姿が見えなくなってしまった。
「こんなとこまで押しかけて、ごめんね」
謝るアッキーに結菜は首を振った。謝らなければいけないのは私の方だ。
「ごめんなさい……私」
「ユイは悪くないよ。きっと何度も言いかけたんだよね。あたしたちが勝手にHIKARUのファンだって勘違いしてただけだから」
「そうだよ。私も反省したんだ。誘拐のことユイは知らなかったでしょ?余計なこと言ったなって」
「アッキー……マユ……」
もう二度と会えないって思っていた。でも、もし偶然でも会うことがあったなら、絶対に謝ろうと。あの時、いろいろと話しをしたのに、アッキーとマユがどこの高校に通っているかなんて結菜は何も知らずにいた。会いたくても、もう会えない。それに、妹だと言わなかった自分をてっきり、二人は怒っていると思っていた。
−会いに来てくれて本当に嬉しいよ。
結菜の瞳に溢れていた暖かいものが一気に流れ出た。
「やっと名前を呼んでくれたね」
顔は笑っているのにアッキーの頬には涙が伝わっている。
「ホントだ」
マユも指で涙を拭いていた。
「あっいた。結菜ちゃん一緒に帰ろう」
こんな場面がつい最近あったばかりのような気が……
「やっぱり……塚原省吾!」
「君たちはこの間、結菜ちゃんと一緒にいた人達だよね」
振り返るといつものように爽やかで、甘いマスクを貼り付けた省吾がそこに立っていた。
「結菜ちゃん。どうしたの?なぜ泣いてるの?」
「省吾先輩。心配しないでよ。これは嬉し涙だから」
そう言って微笑むと、省吾は安心したように息を吐いた。
「ねえ。ユイと塚原省吾って付き合っているとか……」
「そうなったらいいなと僕は思っているけどね」
「ちょっと先輩!」
この人はどこまで本気でどこまでが冗談なのか。何を言われても崩さないその笑顔の裏を探ることはできない。
−いくら考えても、私と省吾先輩って、釣り合うわけがない。
四人の横を通り過ぎるコウナンの生徒たちみんながそう思っているはず。
アッキーとマユは示し合わせたように顔を見合わせた。
「ユイ。ちょっといい?」
そう言い、二人は結菜を省吾から遠ざけると、マユがスカートのポケットから携帯電話を取り出した。
「実は、今日ここに来た理由がもう一つあって……これ見てほしいんだけど。これって、ユイだよね……」
差し出された携帯電話には、省吾と手を繋いで走っている写真が写っていた。実際には省吾の手首を掴んでだが……
「これって、あの時の」
「そう、私達が会ったあの時の。それと、これ……」
画面が変わるとそこには男女が抱き合っている写真が出てきた。男の方は顔がしっかりと分かる。―――蓮だ。女の方は顔を蓮の胸にくっつけているから角度的には、はっきりと分からない。でも、一つめの写真から結菜だと分かってしまう。それは、着ている服が全く同じだから……それに、蓮を突き飛ばす直前に撮られていて、結菜の振り上げた手の位置がちょうど蓮の腰のところにあって……それはまさしく、抱き合っているように見える―――
「…………なっ、なんで!?」
「これ、いろんなところに一斉送信されてる。メルアドは登録されていないやつだから、どこからは特定するのはまず無理。それに、私たちがいた駅前にはたくさん人がいたから誰が撮ってたって不思議はないよ」
−こんな写真が一斉送信!?
いったい、どれだけの人に送られているのか……
「問題はここから……」
今まで黙って聞いていたアッキーが口を開いた。
「問題って?」
「マユがこの写真を送られているってことは、この学校にも送られている人がたくさんいるってことでしょ?現に、今日うちのクラスではこの話しで持ち切りだったよ。こっちは大丈夫だった?」
「別に、特に変わったことはなかったと思うけど……」
変わったことと言えば、省吾がちょっと暴走していたことぐらいだ。
「灯台もと暗しってことかな?」
「本人がいるところでは噂もしづらいってことなんじゃない?」
「兎に角、ユイ!明日から。いや。これから、気をつけてよ。女の嫉妬ほど恐ろしいものはないから」
「アッキー、脅かさないでよ」
−そんな。恐ろしいなんて。
「脅しじゃないよ。みんながユイのことなんて言ってるか知らないでしょ?『二股かけてる最低女』だよ。もっと今の状況を把握した方がいいよ。なんてったって、噂になってる人が人だけに……ね」
「…………」
−さ、最低女……ですか
二股なんて、一股もかけた覚えはないんですけど。
「あの、さっきのモデルみたいな友達に、このことを言ってた方がいいよ。そんで、助けてもらいなよ。あたし達は学校内では、何が起きようと助けられないから。それと、あそこにいる塚原省吾にも……」
まさか、そんなことは起きないだろうと、この時はまだ過信していた。
省吾が待っている場所に、後から来た純平と蓮が合流し、何か話しをしているのが見えた。
結菜たちが見ているのに気づき、純平が手を振ってきた。
「ちょっと。塚原弟と雨宮蓮までいるよ」
「なにあのスリーショットは……」
「私、鼻血出そう……」
結菜は、三人が待っている場所に向かって歩く。学校用に、顰め面を作って、だるそうに鞄を肩に担いでいる蓮。満点のとびっきり笑顔がまぶしいほどの省吾と純平。
一歩、また一歩。
思えばこの時にはもう、どす黒い影が結菜たちの頭上に近づいていたのかもしれない。