兄の心妹知らず
「お前よく食うな……」
蓮に連れてきてもらった洋食屋さんは、隠れ家のように路地の入り組んでいる奥にあった。
外観は煉瓦作りの壁に、外にはウッドデッキのような可愛らしいテラスがあり、そこでも食事が出来るように木のテーブルが置いてある。店の周りには所狭しに置かれたプランターや鉢植えに、春らしくチューリップやパンジー、マーガレットなどが色取り取りに寄せ植えされていた。
結菜は一目でこのお店が気に入った。
そして、運ばれたオムライスを食べると、その美味しさのあまり、夢中になって食べていたのだった。
「らって。おいひんだもん」
「口に物を入れたまま喋るなって教わらなかったのか?」
呆れるように溜息を付く蓮を睨む結菜。
「あれ?結菜ちゃんと蓮くんって、そんなに仲良しだったっけ?」
二人のやり取りを見ながら省吾は不思議そうな顔をしている。
この洋食屋さんには3人で来ている。あれから、蓮がすぐに省吾の携帯電話へ連絡してくれ居場所が分かった。
省吾はいったい何をしていたのかというと……
どうせならスタバまで買いに行こうとまた駅の方へ向かって歩いていった。案の定、女子高生たちに捕まり、なんとか逃げたが、しつこく付きまとわれ、結菜のいた場所へ帰ろうにも帰れなかった……らしい。
それを聞いて、モテる人って大変なんだと改めて思った。
悔しいけれど、蓮のやっていたことは正しいのかもしれない。
「イケメン二人に囲まれて、よくそんなにも、まあガツガツと……」
「自分でイケメンなんて言う人はイケメンじゃないのよ」
結菜はそう言いきって、しまったと思った。でももう後へは引けない。
隣で食べている省吾は声を押し殺して笑っている。
「お前……」
「私はお前じゃないの。ゆ・い・なっていう名前があるの」
「ああ言えばこう言う」
反撃をするのを諦めたのか、溜息をひとつ付くと、蓮は黙ってオムライスを食べ始めた。
−勝った。
結菜はテーブルの下でガッツポーズを作ると、自分もまたオムライスを食べ始めた。
「ねえ。結菜ちゃんと蓮くんって付き合ってるの?」
結菜と蓮は同時にゲホッと咽せ、危うくさっき口に入れたオムライスを吐き出しそうになった。
「省吾先輩。冗談……こんな人と付き合ってるなんて」
確かさっきは付き合っている振りをしていたけれど。
「『こんな人』とは心外だ。それに、それはこっちの台詞だ。こんなお子様ランチ!こっちからお断りだ」
「お子様ランチ……?なにそれ。酷い」
「二人ともストップ。仲が良いのか悪いのか分からないな。まあいいや。付き合ってないんだね?」
結菜はコクリと頷く。
「それじゃ僕が立候補してもいいかな?結菜ちゃんの彼氏に」
「は?」
−今、なんて言った。
前に座っている蓮も驚いた顔をしている。
「え?あの……え――――!?」
省吾は「考えておいてね」と言うと、何事もなかったかのように再びオムライスを口に運んだ。
それから、何をしていたのかよく覚えていない。気がつくと省吾とも蓮とも別れ一人家に向かって歩いていた。
我に返ると、一気にどっと疲れが出た。今日はなんという一日だったのか。
はぁと自然と溜息が漏れる。
もうすぐ家に着く。石畳の坂を上ってあと少し。
ブルルルっとパンツの後ろポケットに入れていた携帯電話のバイブの振動が伝わってくる。
ポケットから携帯電話を取り出し、開くと『広海』と文字が出ていた。
「もしもし……?」
「結菜ちゃん!あなた、ヒカルちゃんに何言ったのよ!」
広海の耳を劈く声で思わず受話口を遠ざける。
「な、何って?」
「んもう、仕事にならないわよ!撮影が押して押してどうしようもないわ。今すぐヒカルちゃんに電話して!」
あ………っ
ここにもまだ一つ、解決しなければいけないことが残っていた……
***
「ヒカル。バイバイ。ゆいな、いい子で待ってるからね」
ヒカルが上条家に引き取られてから、半年が経とうとしていた。ここでの生活にも慣れ、ヒカルはやっと、結菜の父親と母親を『おとうさん』『おかあさん』と呼べるようになっていた。年が明け、一月の寒い朝、ヒカルは結菜に見送られて幼稚園へ行こうとしているところだった。
「ゆいな。ヒカルじゃないよ。お兄ちゃんでしょ?幼稚園のみんなはお兄ちゃんのことを名前で呼ばないんだよ」
「いいもん。ゆいなは、よーちえん行ってないもん。だから、ヒカルのことはヒカルって呼ぶんだもん」
結菜はほっぺを膨らませ、今にも泣きそうな顔になっていく。
−ああ。また始まった。
ヒカルはそう思いながらも結菜の頭を撫でて宥めた。
「いいよ。ヒカルって呼んでも。ゆいなは特別だから」
「『とくべつ』ってなに?」
「『とくべつ』は、大好きってことだよ」
「だいすき?ゆいなも、ヒカル、だいすきだよ」
結菜はそう言うと、笑ってヒカルに抱きついた。
本当にヒカルにとって、結菜は特別な存在だった。自分の母親に捨てられてから、行き場のない悲しみと怒りを癒してくれたのは、いつも結菜だった。ヒカルが寂しくて眠れない日は、決まって枕を持って扉の前に立っている結菜がいて、手招きをすると嬉しそうに布団に入ってきては一緒に眠っていた。
結菜が一緒にいると安心して眠れた。自分はひとりではないのだと心から思える。
−小さな……僕だけの妹。
でも、その日。ヒカルが幼稚園から帰ると、結菜の姿はどこにもなかった―――
結菜が誘拐されたのだと、大人たちの会話から分かった。その時のヒカルは幼すぎて、自分が結菜のために何も出来ないことのもどかしさと、結菜がこのままいなくなってしまうのではという恐怖で、おかしくなってしまいそうだった。
そんな自分と戦いながら、眠れない夜を三日も過ごした。
三日目の夜中に犯人が捕まったが、すぐに結菜は帰ってはこなかった。捕まった犯人は逃げ切れないと思ったのか、自首をしていた。警察に行く前に、結菜を車から降ろしたらしく、すぐにその場所へ警察が駆けつけるが、もうどこにもいなかったのだ。一月の雪がちらつくこの寒空に、幼い結菜はひとりいったいどこへ行ったのだろう。
ヒカルはずっと祈っていた。
−お願いします。ぼくはどうなってもいいから、ゆいなを助けてください。神様。お願いします。どうか、ぼくの大切な妹を……助けてください。
犯人が自首をしてから二時間後、結菜が広海のアパートにいると連絡が入り、結菜を迎えにヒカルも無理矢理ついて行った。一秒でも早く結菜の無事をこの目で確かめたかった。
三日振りに見た結菜は、前よりも少しだけ小さく見えた。元気そうに笑ってはいるが、寒さからか唇が紫色になっている。ヒカルを見ると結菜は微笑んで抱きついてきた。
そのまま結菜はヒカルから離れようとせず、家に帰るとそのまま一緒に眠った。
−もう二度とこの手を離したくない。この小さな手を……
「結菜!」
ヒカルは叫ぶと、自分の声に驚き瞼を開けた。
「ゆ、夢か……」
首筋や額に汗がにじんでいる。
久しぶりに見た嫌な夢。
『もう、私のことなんて放っておいてよ!』
分かっている。とっくに兄としての領域を超えていることくらい。
でも、不安になるんだ。いつかまた、結菜が俺の前からいなくなるんじゃないかって……
結菜の誘拐事件で、ずっと腑に落ちないことがある。それは、結菜があの上条の家の中で連れ去られているということ……あの、猫一匹入れない、セキュリティーが万全な上条家なのに……だ。自分なりに調べてはみたが、犯人は単独犯で、東北から働きに来ていた土木作業員だった。目的は「お金」で、身代金の要求もしていた。でも、いくら念入りに準備をしたからといって、素人が入れるような所ではないはずだ。それに、犯人の経歴が、調べていくうちにぷっつりと途絶えてしまう。おかしいところだらけだ。
ヒカルは、どうしても危惧せずにはいられなかった。自分でもこれだけ分かっているのに、祖父の義郎が動いていないのはなぜだろう。逆に、動いていないということは、何もないということだろうか……
だだの思い過ごしであってほしい……
もうあんな思いをさせたくはないし、したくもない。二度と結菜には手出しはさせない。
結菜……たとえ嫌われても、お前のことは、俺が絶対守ってみせるから―――