今日から……
「よ!」
笑顔を見せ、片手を上げた蓮の顔は少し痩せたように感じた。
「蓮くん……」
それでも蓮の元気そうな顔を見るとホッとして目頭に涙が溢れてきた。
「上条?どうした。まさか紫苑に何かされたのか?」
ううん。と俯いた結菜は頭を振った。
涙の訳は自分でもよく分からないけれど、この涙はきっと蓮に会えた嬉しさから流れているのだろう。
父親が亡くなって急に忙しくなった蓮を気遣い、邪魔になったらいけないと会いにも行けず、電話も出来なかった。蓮は今戦っているのだから自分は我慢しなきゃいけないと会いたい気持ちを必死で抑えていた。その押さえていたものが蓮の顔をみた瞬間に溢れだしたのだと思う。
「ううううっ。蓮くん……逢いたかったよ」
結菜は俯いたまま涙を拭った。
「上条……俺も」
頭の上に蓮の大きな手が乗っかると、結菜はクシャクシャの顔を上げ、蓮に抱きつこうと両手を広げた。
「玄関先で何やってんだよ」
ったく。と、まだパジャマ姿のヒカルが、寝癖のついたままの髪をガシガシと掻きながら階段から下りて結菜達のいる玄関を通過し、リビングに入っていった。
「後で進藤も来るから」
ヒカルがリビングに入っていくのを確認した後で、蓮はそう言いながら結菜の頭をポンポンと叩くと、ヒカルの後を追うようにリビングに入っていった。
感動の再会は――――?
残念そうに抱きつき損ねた両手を引っ込めると、一人取り残された結菜も仕方なくリビングに入っていった。
「これからのことを話し合うために、今日はみんなに集まってもらったのよ」
進藤はまだのようだが、広海は気にすることなく話しを始めた。
「一番に考えなくちゃいけないのが、紫苑くんのことよね。ここ最近は何もないのよね?」
みんなの分のコーヒーを淹れていた結菜に広海が話しを振った。
「うん……何もない」
そう。
紫苑から何もないどころか、義郎の家の前で別れてから会ってもいない。
それは嵐の前のような不気味な静けさだった。
夏休みになってからも用心して、外出は控えていた。学園の登校日と、どうしても出掛けなければ行けない用事以外の時間はほとんど家の中で過ごした。
「そのことなんだけど、結菜ちゃん。あなたあの人に会いに行ったのね?」
広海の言う『あの人』とは祖父の義郎のこと。広海の父親……
広海は自分の父親とは反りが合わず、義郎もまた広海のことを勘当同然のように接してしていた。
「勝手に会いに行ってごめんなさい」
「そうじゃないのよ。あの人から連絡が来たわ。結菜ちゃんに危害が及ばないように努力するってね。こんなに何も無いのも、案外あの人が何か手を打ってくれたのかもってね。まあ。油断はできないけど」
「へえ。あの爺さんがね」
大あくびをしながらヒカルはパジャマの下に手を入れてお腹を掻いていた。
義郎に会いに行ったときには上手くあしらわれただけだと思っていたのに……
自分では何も変えられないとそう諦めていた。でも、それは違ったのかもしれない。義郎が何かをしてくれているとしたら、多少なりとも自分の想いが伝わってくれたのだろうか……
「蓮くんのところはどう?進藤さんから話しは聞いてると思うけど」
「それが……親父が死んだのがきっかけになったみたいで、今じゃ制圧も何も……手が出せない状態で」
「それはマズイわね」
広海と蓮が何のことを話しているのか理解出来ず、結菜はコーヒーを配り終えると自分も席に着いた。
「進藤も親父が生きている間にかなり動いてくれてたようだけど、それでも間に合わなかった。この際、危険を冒してでも組織を解散するようにし向けると進藤が根回しをしてるみたいで」
「それは危険だわね」
二人は深刻そうに顔をしかめた。
「ねえ。何の話しをしてるのか全然読めないんだけど。分かるように説明して」
結菜の問いに蓮と広海は顔を見合わせ、ハアとお互いに小さく溜息を付いた。
その時。蓮の携帯電話に進藤からの着信があると広海が代わり、リビングを出て進藤と話し始めた。
「ねえ。深刻な話し?組織って……」
「その話しだったら、広海さんが進藤と話し終わってから説明すると思うから」
蓮にそう言われてしまうともうこれ以上追求できない。広海が電話を終えるのを待つしかなかった。
「あー。俺ちょっと顔洗ってくる」
緊張感ゼロのヒカルが怠そうにソファーから立ち上がった。
自分には関係ない話しだろ?という態度が少々気に入らない。
「分かったわ。それを蓮くんに伝えるから」
廊下で話していた広海が戻ると、電話を切り、蓮に携帯電話を渡す広海の顔は益々深刻な表情に変わっていた。
「それで。進藤はなんて?」
「ええ……明日、警察が一斉捜査で組織に踏み込むって。そうなったら、進藤さんも無傷じゃいられないから、蓮くんを頼むって言われたわ」
「……そっか」
「大丈夫よ。進藤さんは直接関係してる訳じゃないから、任意での事情聴取よ。警察に行ったとしてもきっと早く帰ってくるわ」
広海は落ち込んだ蓮を慰めるように明るくそう言った。
警察に行くとか捜査とか……尋常ではない話しだけれど、自分の存在が無視されたように、そこには二人の世界が広がっている。
蓮が落ち込んでる時に不謹慎かもしれないけど……
さっきのヒカルの態度といい、この二人だけが分かるの訳の分からない会話といい……
-なんかムカツク!!
「あの……もうそろそろ、分かるように説明してもらえないかな?」
結菜はついつい険のある顔でそう言っていた。
「あら。結菜ちゃん私と蓮くんの仲が良くって妬いてるのかしら?」
「そ、そんなことない」
「いいのよ。私はこれから仕事だから、蓮くんから説明してもらいなさい。あなたにだって関係することだから。まあね。これからいくらでも時間があるんだから、焦らない焦らない」
茶化すように広海はそう言い、自分はさっさと仕事に出掛けてしまった。
「なんなのよ。あれ……」
結局、紫苑のことは話さず終い。これでいいのか?
いつにも増して自分勝手な広海に呆れながら、蓮を見た。
「少し痩せた?」
「そうか?上条は太ったか?」
「…………(怒)」
そりゃ~仕方ない。紫苑の攻撃を避けるためにずっとこの家に閉じこもっていたから。
家の中じゃすることなんて限られている。色んな所を掃除したり、料理を作ったり。夏休みの課題なんて随分前に済ましてしまっている。
とにかく暇!なのだ。
ムスッといじけていると、蓮が顔を覗き込んできた。
「そうだよな。じっと家に居たんじゃ飽きるよな?俺も今日からこの家にお世話になることだし、明日どこか行くか?」
「……え?」
今日からこの家にって……
「取り敢えずだな。家から荷物を運んでくるから、上条も手伝ってくれる?」
今日から一緒に居られる?この家で暮らせるの?
「て、手伝う!!」
結菜は嬉しくて笑顔でそう答えた。
蓮は笑顔の結菜を見ると何故か驚いた顔をして、そしてクスリと笑った。
「上条……」
笑っていた蓮の顔が優しい微笑みに変わると、その整った顔が近づいてきた。
こんな甘い雰囲気は久しぶり。
明日からは。いや。今日からは毎日こんな生活が続く……
結菜はドキドキする鼓動を感じながら瞳を閉じた。
「ったく。やってられねぇな」
もう少しで蓮の唇に触れそうになったとき、顔を洗い終え着替えを済ましたヒカルが怒りに満ちた顔でこちらを睨んでいた。
そうだった……
またヒカルの存在を忘れていた―――