進むべき道
仕事が終わり、母親の安西菜穂が暮らすマンションの前までやって来た。
部屋の番号を押すとすぐに、明るい声の菜穂の声が聞こえた。
「いらっしゃい」
「……ああ」
別に機嫌が悪い訳じゃないけど、菜穂を前にするとどうも本来の自分じゃ無くなる気がする。
「母さんね。今日は頑張ってお料理してみたのよ。結菜ちゃんみたいに上手じゃないけど、案外いけるわよ」
上機嫌に笑う菜穂に案内され、ヒカルは広い広いリビングに通された。
高層マンションの最上階。
いつだったか、蓮とケイに連れ去られたときに行ったホテルを思い出す……
カーテンが開け放たれた、開放感のある大きな窓の外には街の綺麗な夜景が広がっていた。
あのホテルに行ったのが、もう随分前の様に感じられる。
埃ひとつ、指紋ひとつ無いガラスのテーブルに菜穂の手作り料理が並ぶと、ヒカルを待っていたかのように美味しそうな臭いが立ちこめた。
遠慮せずに食べてね。と言う菜穂の言葉を聞き、朝ご飯を食べたきりの自分のお腹が待ちきれずに自然と手が伸びた。
初めにスプーンでスープをすくった。
「それはね。ビシソワーズっていうじゃが芋のスープよ。どう?おいしい?」
「……うん。おいしい」
「そ。良かったわ」
自分でも驚くほど素直な感想に、嬉しそうに菜穂が笑った。
菜穂が作った手作りスープは、何も入っていない胃の中に染み渡るように、それでいて優しい味がした。
「ヒカル。ヒロから聞いてると思うけど。私ね、ヒカルと一緒に暮らしたいって思ってるの。すぐにとは言わないわ。だから、考えてみてほしいの」
「…………」
こんな話しが出るのは予想できた。
自分を捨てた母親が目の前にいて微笑みながら一緒に食事をしている。それも、母親の手料理で……
少し前まではこんなことは考えも出来ないことだった。でも、現実に母親は今ここにいる……
不思議な感覚―――
「結菜ちゃんやヒロのことを気にしているのなら、母さんの方から話したっていい……私はね。ヒカルとの時間を取り戻したい。例えそれが無理なことでも、これからは少しでも良いからヒカルと同じ時を過ごしたいって思っているのよ」
「…………」
菜穂の言いたいことは分かるつもりだ。でも、あの家を出てここで暮らすことなど本当に出来るのだろうか。
「もし、ヒカルが母さんのところに来てくれるなら……母さんね……女優の仕事を辞めたっていいと思ってるのよ」
「え……」
「人の気持ちって複雑よね。あんなに頑張ってがむしゃらに前に進んできたのに……ヒカルを犠牲にしてまで自分の夢を叶えたかったのに……それなのに、今はヒカルとの時間が一番大切だなんて……どうしてあの時に気づかなかったのかな。後悔してないなんて、強がったりして……
ごめんね……ヒカル」
菜穂の瞳から、ひと雫の涙が頬を伝って落ちていった。
気づくのが遅すぎる……
でも。
人はそうやって失敗を繰り返しながら生きていくもの……
それは結菜に教わった気がする。
何度失敗しても人を信じることを止めない結菜。自分のことより、相手のことばかり考える結菜。どんなことにも立ち向かっていく勇気のある結菜……
だからこそ、結菜の笑顔を守ってやりたかった。
でも……
その役目は蓮に引き継いでしまったのだ。
結菜はもう自分がいなくても大丈夫……
きっと大丈夫……
「いいよ。母さんは仕事辞めなくても」
「ヒカル。それって……やっぱり駄目なのね」
「違うよ。俺、一緒に住んでもいいけど……」
「え?」
「けど。当分は母さんと一緒には住めない」
ヒカルの一言一言に落胆したり笑顔になったり……そんな母親を、ヒカルは愛しいと感じ始めていた。
ずっと考えていた……
自分を捨てた母親が、安西菜穂だと分かってから、心の中にあった想い。
「ヒカル?」
「俺も母さんと同じ……いや。母さん以上のハリウッドスターになってやる。だから、今はまだ一緒には住めないけど……」
席を立った菜穂の腕に後ろから抱きしめられると、ヒカルは瞳を閉じた。
「待ってる。母さん。いつまでもヒカルのこと待ってるから」
幼い頃。暑い夏の日に感じた母の温もり……
「ああ。すぐに母さんを追い越してやるよ」
「そんなに簡単には追い越せないわよ?」
「そんなこと……分かってる」
あの頃にはもう戻れないけど、これから生きていくための時をどう過ごすのか―――
憎しみだけでは何も生まれやしない。人を信じ。そして人を愛する……
自分もそう出来るだろうか……
上条ヒカル……18歳。
4歳の夏。上条亮、メイ夫妻の養子になる―――
母親に捨てられたと自暴自棄になっていたヒカルの気持ちを和らげたのは妹の結菜だった。
初めて繋いだ紅葉のような小さな手を一生離さないと誓った。自分がその小さな手をした結菜を守るんだと心に誓った。でも、結菜はもう自分の側を離れ、蓮の元に旅立てしまった。兄としての役目はもう終わり……出会った頃と何も変わらない結菜の笑顔は、自分だけではなく、これからもいろんな人々を幸せにしていくだろう。
そして、俺は……
俺の道を行く―――
嘗て、母親が息子を手放してまで掴んだものはどんなものなのか、自分自身で確かめるために……そして、自分がどこまで出来るのか試してみたい。
結菜……
俺はハリウッドに行く―――
***
「ヒカルちゃん。気は確かなの?そんなこと簡単に許可できるわけないじゃない。考えてもみてよ。スケジュールは今年いっぱい、休みもないぐらい詰まってるのよ。それを……はあ。もう、呆れ果てて言葉も出てきやしない。とにかく、仕事はちゃんとこなしてもらいますからね!!」
ヒカルは広海に相談すると、予想通り頭ごなしに反対された。
「自分を試したいんだよ。自分にどれだけのことが出来るのか挑戦したいんだよ!!」
「ヒカルちゃん。それ、本気なの?」
「あ。ああ。本気だ!!」
広海は大きく溜息を付いた。
「それじゃ。まずは英語の勉強から始めなくちゃね」
「広海……それって?」
「別に賛成したわけじゃないわ!勉強嫌いのヒカルちゃんがどこまで頑張れるのか、見させてもらうわよ!」
「広海~~っ」
「ヒ、ヒカルちゃん!ぐるしいから~やめなさいってば!!」
やっと自分の中にあった暗闇から解放されたのかもしれない。
結菜……
俺は俺の道を行くよ……