うまくいかない
「僕も一緒に行くよ」
そう言った紫苑をなんとか言いくるめ、上条家の門の前で車から降りると、結菜は一人で屋敷の中に入っていった。
紫苑が一緒だと、義郎に聞きたいことも聞けないし言いたいことも言えない。
昼間に通った長い廊下を歩き、扉の前で深呼吸した。
ドアを開けると扉の向こうには、昼間と変わらない義郎の姿があった。年季の入った木の机に向かっている義郎を見ると、この家で暮らしていた頃を思い出す。
いつもあの席に座り、この部屋で殆どの仕事をこなしていた義郎。あの頃は何も感じなかったけれど、今なら会社に出向いていかず、ここにいて仕事をしていた意味が分かる気がする。
忙しい両親に代わって、義郎は仕事の合間によく相手をしてくれた。それは子供の遊びに付き合ってくれるというものではなく、上条家の人間としての知識を埋め込むためと、自分を守るために武道を身につけさせたかったから。
それが嫌だったかといえば、正直、最初は苦痛でしかなかった。同じ年頃の女の子は、竹刀なんて持たなかったし、人を投げ飛ばしたり、投げ飛ばされたりなんてしなかった。
お人形を持って遊んでいる同級生の女の子が羨ましく思うことだってよくあった。
でも。あの頃は分からなかっただけ。
上条家の人間として生きていくのがどれほど大変かということを……
「どうした」
義郎は掛けていた老眼鏡を机に置くと、目頭を指先で揉んだ。自分たちが帰った後もずっとここに座り仕事をこなしていたのだろう。
「おじいさま。聞きたいことがあります」
義郎が疲れていようが、今聞かなければそれこそ後悔する。
結菜は大きく息を吸い込み、深呼吸すると真剣な瞳で義郎を直視した。
「私と雨宮蓮くんを結婚させたいのはどうして?」
「…………」
「どうしてですか!?」
結菜の問いに義郎は慌てることなく椅子から立ち上がると、部屋の中心に置かれているソファーへ座り直した。
「結菜。ここに座りなさい」
自分がここへ来た意味も義郎は全部分かっているように、ゆっくりとした口調でそう言った。
そして義郎に言われるままに結菜はソファーに座った。目の前にいる義郎は顔色一つ変えずにいる。義郎の孫である自分ですら面と向かって話しをするのには緊張する相手だった。
「蓮く……雨宮くんとの婚約が知られてから、志摩子おばさまからの嫌がらせが後を絶たないのです。そのことをお爺さまは知ってますか?私たちはともかく、友達を巻き込むなんて、許せない……」
結菜の訴えにも表情に変化はなかった。
変化がないのは志摩子が嫌がらせをしていることを知っているということだろう。
「それで。結菜は儂に何が言いたい」
「何って……私は知りたいんです!おじいさまが知っている全てのことを、私は知る権利があると思います。もちろん教えてくれますよね?」
興奮して言う結菜にも、表情を全く変えない義郎が、少し不気味に思えてきた。
「知ってどうする」
義郎の静かに発せられる言葉……
「知らないと動きようがないんです。紫苑のこともそう。紫苑はお爺さまに自分の父親を殺されたと思い込んでいるのです。お爺さまが何も言わないから誤解されてるって思いませんか?」
叫びたいのを堪え、まだなんとか怒りを抑えながら、理性を保っていた。
感情的な結菜とは対照的な義郎が静かに口を開いた。
「全てを知るということは必ずしも良いこととは限らないのだよ。真実を知るということは、同時に失わなければいけないものがあるということを覚えておきなさい。真実の向こう側は、時には残酷なものだということを……」
「残酷?それでも、私が知りたいって言ったら?事実を知ってその全てを受け止めたいって言ったら?」
「それは……無理だ」
「どうして!」
沸き上がる感情を押し殺して、必死に義郎に食らいついていった。
「……儂は。結菜には笑っていてほしい。幸せでいてほしい……ただそれだけだ」
笑っていてほしい……?
幸せでいてほしい……?
志摩子に嫌がらせを受け、蓮と別れる演技をしてみんなのことを守った。そうするしかないと思って蓮と距離を置いた。それだけでも辛かったのに、今度は紫苑の存在が自分を苦しめている。
それもみんなここにいる義郎の所為ではないのかと思えてくる。
今は、ただ辛いだけ。
ただ苦しいだけ……
それなのに、義郎は自分に笑っていてほしいから真実を言えないと言った……
「そんなの、矛盾してる。お爺さまは逃げてるのよ。この部屋に閉じこもっているのもそう。ただ逃げてるだけよ!!そんなお爺さまに私の気持ちなんて絶対分からない!お爺さまが教えてくれないんだったら、自分で調べるからっ。もういい!!」
押し殺していたものが一気に外に押し流されると、結菜はその怒りを噴出させたまま部屋から出て行った。
脇目もふらず、立派な木柱の門を潜る頃には、興奮も少し薄れてきた。
ああ啖呵を切ったものの、調べると言ったって調べようがない……
だからここへ戻ってきたのだから……
「はあ―――っ」
門の太い柱に手を伸ばすと、結菜は思い切り溜息を付いた。
自分はなんて子供なのだろう。
上手くいけばもしかすると、全ての事実を手に入れることができたかもしれないのに……
今更後悔しても、一度言ってしまったことは無かったことにはできない。それにあの様子だと、いくら聞き出そうと努力したところで、義郎は何も語ってはくれないだろう。
結局は、知りたければ自分で調べるしかないのだ。
どっちにしろ、ここでは何も得られない。
きっかけがほしいなんて、考えが甘かった……
「仕方ないよね」
そう独り言を呟くと、結菜は真っ暗な道をとぼとぼと歩き出した。
「その様子だと、あまり良い話しにはならなかったみたいだね」
静かな暗闇に紫苑の声が響いた。
「居たの?」
「今からだと電車もないし、ここからだとタクシーも拾えないでしょ?僕って案外優しいんだよ。そこのところ分かってる?ユイちゃん」
紫苑の態とらしく笑う顔が街灯の明かりに照らされて無性に腹が立った。
「いいよ。一人で帰るから!」
「ふ〜ん。まあ、仕方ないよね。僕はユイちゃんの敵だから、その敵から優しくされても嬉しくもなんともないよね」
「分かってるんだったら、もうひとりにして!」
何もかもが上手く行かないことに苛立っていた。自分が上条家の人間じゃなかったら、今頃は蓮と幸せな時を過ごしていたのかもしれない……
ここにいるのは紫苑ではなくて蓮だった筈なのに……
考えても仕方ないのに、思ってしまう。もどかしさを感じてしまう。
また爆発してしまいそうな怒りを抑え結菜は歩き出した。
「ユイちゃん。僕が知ってる上条財閥と雨宮グループの秘密を教えてあげようか?」
振り返ると縦に伸びた紫苑の影が揺れていた。
「秘密……?」
「そう。ユイちゃんや蓮くんに関わる重要な秘密だよ」