変わりゆく時間
水を打ったように静かな部屋と、隣に広海が澄ました顔で座っていることが窮屈で、ヒカルは席を立つと部屋の奥にある障子を開けた。障子窓を開けると、夜風の冷たさが待っていたかのように競って部屋の中に滑り込んでくる。
窓から見える日本園庭は暗闇の中にひっそりと佇んでいて、所々にある間接照明で、幻想的な表情に見せていて、組石の間を縫うように流れ落ちている滝水の音が、掻き乱れている心を穏やかにしてくれるようだった。
ここは、まるで森の中のように木々に囲まれている高級料亭。その高級料亭の中でも、一棟しかない離れの部屋に居る。
「わざわざ、こんなとこじゃなくてもいいのに」
ヒカルは不満そうに呟いた。
「ここだと誰と密会してたって分からないからいいのよ」
「別に、家でも良かったんじゃねえか?せっかく、結菜がメシを作ってくれるって言ってたんだし」
「…………いろいろあるのよ」
広海は意味ありげにそう言うと、遅いわねえ。と、腕時計を見た。
安西菜穂が母親だと知ってから、いろんな想いが沸き起こった。
どうして、結菜の両親に自分を預けたのか……
どうして、今まで会いに来なかったのか……
どうして、今になって会いに来たのか……
心の中はこんなに綺麗に整理なんかされてはいないけど、自分を捨てたように去っていった菜穂を恨む気持ちと、上条の家に置いていってくれた感謝に似た気持ちとが入り交じり、そして、その正反対の感情はいつまで経っても共鳴することはなかった。
「お連れ様がお見えです」
襖が開くと、一瞬で花が咲いたように、煌びやかなオーラを漂わせた菜穂が部屋へと入ってきた。
「お待たせしてしまったわね。お腹すいたでしょ?」
「い、いいえ……別に」
開けていた窓を閉めると、どことなく緊張で強ばった顔を貼り付けながら、ヒカルは席に着いた。
「いや〜ねぇ。ヒカルちゃんてば、仕事場でもそんな顔なんて見せないのに」
「うるせえ」
ケタケタと笑っている広海を睨むと、向かいに座っている菜穂が手を口に当ててクスッと笑った。
料亭の料理は豪華で、どれを食べても高級食材が使われているんだなと感じる。並んでいるもの全てが厳選された、超一流の食材。でも、自分にとっての『世界一美味しい料理』とは、結菜が自分のために作ってくれる手料理だ。
別段、特別なものを使っているわけでも、手の込んだ珍しい料理でもない。けれど、たまに失敗しながらも、真剣な眼をしながら、一生懸命作ってくれた結菜の手料理には愛情がこもっていて、やっぱり他の誰かのものでは出せない美味しさがあった。
目の前にいる菜穂の箸を持つ綺麗な手は、家事や料理なんて今まで縁がなかったように思えた。
「この間は、突然で驚かせてしまったわね」
「そうよ。私だって驚いたわ」
菜穂のヒカルに対する言葉に、間髪入れずに広海が答えた。
「ヒロは相変わらずね。でも。ヒロがヒカルを引き取っていたなんて……本当に驚いたわ。ここまで育ててくれたことに感謝してる。ヒロ。ありがとう」
「なに言ってんのよ。私はただ引き取っただけで、育ててなんかないわよ。勝手に大きくなったんじゃない」
広海は照れたように横を向いた。
自分のことを話しているのに、この二人が付き合っていたときも、こんな感じだったのかな?と、二人のやり取りを見ながら、そんなことを思っていると、笑っていた菜穂と目が合い、どうしたらいいのか分からず、緊張度が増した。
「私はね。ヒカル……ヒロのお父様にヒカルを預けたことを後悔してない。後悔するんだったら初めからヒカルを手放したりはしないわ。でもね。私はあなたのことを忘れた事なんてなかった。どんな時だって、私の心の中にはヒカルがいた。もう一度、あなたに会うために、こうして今まで頑張ってきたんだもの」
「…………」
「菜穂も私も、ヒカルちゃんに聞いておきたいことがあるのよ……」
「な、何だよ。広海。改まって」
今度は真剣な顔の二人に戸惑っていた。
「あのね。ヒカルちゃん……」
「だから、なんだよ」
「菜穂とヒカルちゃんが親子だって公表してもいい?」
この発言で、どうして家ではなく、ここに連れてこられたかという意味が分かった。
菜穂が家に出入りしていると、何れ親子だとバレるときが来るかもしれない。こそこそせず堂々と会うためには、バレる前に世間に公表した方がいいと考えたのだろう。
公表するかしないかは、オレが決めろって……?
「広海はどう思うんだよ」
「私?……そうね。事務所の社長の立場からだと。公表すれば注目されて一気にヒカルちゃんの仕事が増えるから良い面もあるわね。でも……」
「露出が急速に増えると、飽きられる可能性もある。だろ?それに、オレはそんなんで仕事をもらったって嬉しくない」
「そう言うと思ったわ。でもね。公表しないってことは、意地でも隠し通すってことよ。あなたも菜穂も、お互い会いたいときに会えない」
「だから?だから、オレから公表した方がいいって言えって?冗談だろ!!今まで会いにもこなかったんだから、これからも会わなくったって別に……」
構わないだろ―――
そう言いかけて、菜穂の今にも泣きそうな顔が視界の端に映った。
画面で観る安西菜穂はいつも堂々としていて、隙がない。花で例えるとすれば、綺麗な薔薇の花というイメージだろう。一輪でも凛としていて存在感がある。でも、うかつに近づくと全身にある棘にやられてしまう。
一流の女優という名の、孤独な一人の女性。誰も寄せ付けないのではなくて、誰も菜穂に近づくことができない。
ずっとこうして一人で戦ってきたのだろうか。
広海との会話も、菜穂のことを知っている業界人が聞いたら驚くだろう。こんなに気さくに、そして何も飾る必要のない素の安西菜穂を、もしかすると広海と自分以外、知らないのかもしれない。
笑いたいときに笑い。
怒りたいときに怒り。
泣きたいときに泣く……
人として当たり前にすることを当たり前に出来ない。
そして―――
会いたいときに会えない。
どうしてだろう。この人を見ていると、離れていた何年間もの菜穂の記憶が、自分の中にとけ込んでくるように、分かってしまう。
小さい頃から大人の中にいたから本質的に分かるのか、それとも、菜穂が母親だからか……
「言いたいことは分かった。けど。ちょっと考えさせてくれ」
考えたって自分の中の答えが変わるわけじゃない。
でも。
少しだけ……
もう少しだけ、時間がほしかったんだ。