Call 6―あたし、先輩と付き合うことになったの
『大ちゃん、元気しとるー?』
最後に電話してから三ヶ月後。
例の如く、酔っ払った様子で千佳が電話を掛けてきた。
「おお、元気やで。いつも通りや」
『そうやな、いつも通りそうやね。うわあ、今日もめっちゃ飲んだわぁ』
「お前は相変わらずやな」
『へへへ』
電話の向こう側の彼女は、以前と変わらぬ様子でへらへらしている。相変わらずのお調子者ぶりに、俺はため息混じりに呆れた雰囲気を醸し出す。
しかし、自分の中に確かな変化が起きていた。
電話に表示された名前を見た瞬間は一抹の緊張感を覚えたのに、いつもどおり話し掛けてくる千佳に心底ほっとしている自分がいる。
それが何の兆候なのか、分からないわけではない。
だがすんなり認めるには、釈然としない気持ちとある種の戸惑いが、俺の中に大きく占めていた。
そんな俺の内心の葛藤に、千佳は早くも水を差した。
『そうそう、聞いてや大ちゃん。あたし、先輩と付き合うことになってんよ!』
千佳は嬉しそうに声を張り上げた。
瞬間、急速に喉が貼り付いていく。
それと同時にこの電話の目的を俺は理解した。
『ちょっと前にね、二人で飲みに行ったんよ。んで、その時に気持ち伝えたら、実は前から千佳ちゃんのこと良いと思ってたんやって言われてさあ!』
聞いてもいないのに、千佳は夢中で話し出す。
惚気たくて仕方がないという様子だ。
『でもね、向こうに彼女おったやん? やからしばらく待った掛けられてたんやけど、とうとう先月先輩が彼女とお別れして、晴れて付き合うことになりました! へへへ』
「そう、か。良かったやん、遂に叶って」
『うん、ほんまに良かった! 今めーっちゃ幸せやわ』
弾むように話す千佳。
声の雰囲気から、千佳が今どんな幸せそうな笑顔を浮かべているのか、容易に想像が付く。
良いわけがあるか。
そう叫ぶ声が確かにあるのに、意気揚々として先輩との経緯やその人の人柄を話されて、俺は「良かったやん」としか返せない。
心臓に鉛玉が溜まっていくような感覚がした。
『大ちゃんは彼女とどうなん? 上手くいっとんの?』
一通り惚気た後、千佳は尋ねてきた。
そのとき俺は話し半分になっていたため一瞬何のことか分からなかったが、そう言えばそうだった。
俺に彼女が出来たという話が、三ヶ月前に最後に千佳と話した内容だった。
「んー別れた」
『えっそうなん!? 何でなん?』
「何でって、まぁ合わんかったからなんやけど」
大げさに驚いた様子で食いつく千佳に、俺は言葉を濁す。
そもそも二人の話題に出ている“彼女”なんて存在しないのだから。
元々千佳を欺くために吐いた嘘だ。
俺は千佳に言われるまでその存在すら忘れていたが、千佳はまんまと今日まで信じていたらしい。
しかし前回の嘘は、俺にちゃんと教訓を与えていた。
だからここは素直になかったことにするしかない。
ただ、たったそれだけを伝えることが、俺にはとてつもなく大きな何かに感じた。
まるで大きな一歩を電話の向こう側に踏み出したような感覚。
踏み出した先にあるものを、既に知っていたというのに――。
『そうなんやね……えー、なんか切ないなぁ。大ちゃん寂しいやん』
「……そうでもないけど? よくある話やろ」
『そうやけどね。でもこのまま行くと、あたし多分結婚しちゃうから、大ちゃんひとりになっちゃうで』
確定なのか、それは。
確かにこの話は、30歳になっても二人に結婚を見据えた恋人がいなかったら結婚するという、互いの救済措置のための契約が発端だ。
だから千佳が今付き合っている彼氏と結婚し、30歳になる前に千佳が離婚しない限り、以前二人で取り決めた契約はそのまま破棄ということになる。
以前はそれで構わなかった。
千佳とは大学からの腐れ縁で変な気を遣うことなく気軽に話せる間柄だが、恋愛対象では無かった。千佳と付き合うなど俺の中では絶対にありえない話で、結婚なんてもってのほかだった。
だが、今はどうだ。
こんな風に電話の向こうからストレートに言われて、無性に苛立ちが募っていく。
同時に焦燥感と虚無感が、脇の下を通り過ぎる。
分かっている、これが何故なのか。
分かっているだろう、既に大きな後悔をしているのだから。
しかし脳天気な千佳の発言が、俺を天の邪鬼にさせていく。
『まぁでも大ちゃん割と器用やしな。それに男は30からとか言うから、あたしに比べたら全然焦る必要ないわな』
「そう、やな。俺もその気になったら早いからな、すぐやすぐ」
違う。
焦らなくていいとか言わないでくれ。
『てか大ちゃん、普通にイイヤツやからな。大ちゃんが知らへんだけで、実は結構モテとるんやと思うよ。大学時代もあたしの周りで密かに大ちゃん好きな子結構おったし』
「へえ、そうなん? じゃあ昔俺のこと好きやった子にまだ気があるかリサーチしといてや」
違う。
俺が知りたいのは連絡も取っていない昔の同級生のことじゃない。
『しゃーないな。大ちゃんのために一肌脱いだるわ。それで上手く行ったら、あたし大ちゃんの結婚式でスピーチしたるわ!』
「おお、頼みたいけど、変なこと言われそうで嫌やな」
違う。
そもそも何でお前はそんなにも平気そうなんだ。
何故当たり前のようにそんなことを――。
『あ、ごめん! 彼氏からライン来たから切るわ。ほなねー』
途端に千佳は電話を切った。
俺はむしゃくしゃしてスマホをベッドに放り投げる。
これが電話で良かったのかもしれない。
本人を目の前にしていたら、俺は千佳を押し倒していただろう。
いや、それならむしろ面と向かって話していた方が良かったのか?
感情任せに全てをぶちまけられて良かったのかもしれない。
とにかく悔しくて仕方がなかった。
千佳にも、自分自身にも。
別に30歳の救済措置なんか真に受けるつもりは一切無かった。
あんなものは千佳が一方的に切り出してきたことだ。
しかし結局俺ばかり揺さぶられて、それを自覚するごとに千佳との気持ちのギャップを思い知らされる。
あぁ分かっているとも、俺が千佳をどう思っているかなど。
じゃあこんな自問自答する前にどういう行動に出るべきなのか、答えが一つしかないことも分かっているさ。
今ならまだ引き返せる。
まだ間に合うんだ。
俺は投げたスマホを握りしめ、決意を固めた。