改名。
1524年(大永4年)暮れ 周防国 大内館
綾小路 有興 7歳。
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綾小路 興俊 7歳。
僕が目を覚まし東向殿に初めてお会いした時大内介さまが安芸国の桜尾城を攻めているのは先に述べました。
桜尾城は前世で世界文化遺産となった厳島神社のある宮島の対岸にあるお城です。
その為この城の主は代々厳島神主家と呼ばれ、厳島神社に深くかかわってきました。
大内介さまが京に上洛された時厳島神社より海路で兵庫津まで進まれ、時の桜尾城主で神主の藤原興親殿もお供されています。
しかし京の都で大病を患いそのまま病没、京に共に行かれた親族衆の友田興藤殿と小方加賀守殿が後継争いを始めました。
両者は大内介さまに後継争いの裁定を願ったのですが、興親殿に実子が居ない事を理由に介さまは領地をすべて没収しました。
それに怒った友田殿が、昨年安芸国の佐東銀山城城主の武田刑部少輔殿の支援を得て、桜尾城などを奪取し厳島神主家を自称しました。
それだけでなく大内氏の宿敵の尼子氏を安芸国に引き入れ、形勢不利を見たあの毛利元就殿が大内氏から尼子方に寝返りました。
さらに大内氏の安芸国の東西条代官、、、つまり領国経営の中心、、、を置いていた鏡城が落とされました。
今年に入り大内介さまは反撃に転じ、配下の陶中務少輔殿が大野河内城を攻撃しました。
友田興藤殿は武田刑部少輔殿とともに後詰のために大野女瀧の地に出陣しましたが、肝心の城主の大野弾正少弼殿が寝返ったため敗北し、追撃を受けて七、八十人が討死したそうです。
その後、勢いに乗る大内方はご当主の大内介さま、ご子息の周防介さまも出陣し豊前、筑前、周防、長門、安芸、石見の全領国から動員された2万5千の軍勢を二手に分け本隊の大内介さま率いる1万の軍勢が内桜尾城を包囲しました。
7月24日には第二廓まで陶氏の軍勢が侵入して合戦となるなど激しい戦闘が繰り広げられたそうです。
しかし城方の士気は高く、大内方は攻めあぐねたそうで、安芸国攻略を優先する大内介さまは石見国の有力な国人領主の吉見式部少輔殿に和睦の仲介を依頼されました。
それによって友田興藤殿の神主引退を条件に桜尾城は開城したそうです。
因みにこの友田沖藤殿、僕が生まれた年に京の都でお師匠さまやお師匠さまの兄弟子さまと連歌会を開いておられます。
なので、僕の兄弟子さん方も彼と顔見知りの方なんです。
一方初陣であるご子息の周防介さま率いる1万5千の別動隊は、猛将である陶中務少輔殿が補佐して武田刑部少輔殿が籠る佐東銀山城を攻めました。
雲州の尼子民部少輔殿は、この時伯耆国へ兵を進めていましたが毛利元就殿の注進を受け直ぐに兵を返し後詰の軍勢5千を送ったそうです。
そして後詰の尼子方が安芸国の国人衆を糾合し佐東銀山城周辺で大内方と激突したそうです。
しかし大内介さまのご子息さまの初陣と言う事で必勝の決意で臨んだ大内方に尼子方は押されました。
しかし夜になり毛利元就殿が中心となった尼子方の夜襲により少なからず被害を受けた大内方は、ご子息の初陣に土を付けたくないと言う理由で翌日佐東銀山城より退きました。
この話に出てくる武田刑部少輔殿と言う人物も、僕と少し関係があります。
僕のお婆さんを攫った若狭国の武田治部少輔。
この人、若狭国、丹後国、安芸国の三か国の太守だったんです。
しかしお婆さんを攫うような外道を許して置く筈無く、当たり前ですが周防国の隣国である安芸国は大内氏に攻められます。
この時、安芸国の代官だったのが外道の分家筋である武田刑部少輔殿のお父さん。
しかし七か国を治める大内氏に飛び地の一国が敵うはずもありません。
武田刑部少輔殿のお父さんは止む得ず大内氏に下りました。
そして大内介さまの上洛にも参加するのですが、その後彼に厳島神主家の跡目争いを治めさせるべく安芸国に戻します。
この時、大内介さまは彼が離反しないよう公家で蹴鞠の大家、飛鳥井権大納言さまの娘を嫁に世話したのですが、あろう事か安芸国に戻った途端嫁と離縁してしまうのです。
まるで成田離婚ですね。
そして雲州の尼子民部少輔殿の姪御さんと結婚したとかもう無茶苦茶です。
当然酷いやり方で尼子方に寝返った彼のお父さんを大内介さまは目の敵の如く攻めます。
その抗争中に大内方の毛利元就殿のお兄さんが亡くなり、元就殿の甥っ子が幼少で跡を継ぐとチャンスとばかりに毛利に彼のお父さんは襲い掛かりました。
しかしその時が初陣だった毛利元就殿、さすが謀神とか言われるだけあります。
クリティカルヒットで数倍差もあった武田の軍勢を破り、彼のお父さんを討ち取ってしまいました。
その後跡を継いだのが武田刑部少輔殿と言う訳です。
つまり僕の敵討ちの相手ですね。
しかし思いますね。
未だ小さな国人領主ですけど、毛利元就殿強すぎます。
まるっきりチートですよね。
もう物語の主人公と言うしかないほど名前出てきます。
謀神なだけに怖くて部下にも上司にも出来ないし、出来れば関わりたくない相手です。
こうして大内介さまは2つの大戦を終えられて、11月頃には居館のある大内館に戻ってこられました。
この頃すっかり体調も回復した僕も当然大内介さまの軍勢をお出迎えします。
そして戻って来られた大内介さまを見てビックリしました。
なんと立派な輿に乗って居られたのです。
大内介さまは如何にも武家の棟梁と言った風情の美丈夫です。
和歌や連歌、茶道にも秀でておられる文化人ですが、何よりも前将軍を奉じて天下に号令を掛けた事がある管領代でいらっしゃいます。
文化人としてよりも武者ぶりが噂されている方です。
なのに輿?
輿に乗った武将なんて、桶狭間の今川義元しか知りませんよ?
とその時はびっくりしたのですが、後日その謎が解けました。
全ては武家の格式なのだそうです。
国の守護を任された守護大名の事は前世の授業で習いました。
将軍から任ぜられたこの守護や守護代と言う職に与えられた特権に傘袋、毛氈鞍覆、塗輿、朱の采配の免許などがあります。
傘袋とは長柄の妻折笠を入れる袋の事です。
因みに守護は白傘袋守護代となると唐傘袋にランクダウンするのだそうです。
毛氈鞍覆は舶来(唐物)の毛織物を用いた馬の鞍橋を覆う馬具の事らしいです。
塗輿はそのまま立派な輿の事です。
今川義元が桶狭間の戦において休憩の為この輿を乗り捨ててあった所を織田勢に見つかって本陣の位置を知られたと言うモノがあります。
権威の象徴なので余程目立ったんでしょうね。
大内介さまも基本は騎乗で移動されます。
しかし、権威付けの意味合いもあってこのような凱旋的なパレードでは輿に乗ると言う事らしいです。
ちょっと前に京の都で殺された三好筑前守殿。
噂では凄い肥満体で逃げ出そうとしたが10歩も歩けなかったとか?
この噂自体は筑前守を嫌う都人が流したデマなのですが、そこには輿にも乗れない身分を嘲る意味もあるのです。
輿に乗れば馬に乗れずとも、又歩かずとも逃げ出せますからね。
三好筑前守殿の筑前守は、自称であって国司でも守護でも何でもないのです。
不要に輿に乗ったが故に命を落とした今川義元。
輿に乗れなかったが故に命を落としたと言われた三好筑前守。
諸行無常を感じます。
最後に朱の采配。
軍勢に合図を出すときに使う軍配の一つです。
良く大河ドラマなどで「掛かれ~」とか号令出すときの紐が幾つも付いてる奴です。
道具の色一つにも格式を持たせる。
それをありがたがって頂けるから公家なんて商売が成り立つんですが、凄く面倒くさい決まりですね。
格式と言えば大名と言う呼び名。
この時代の大名とは、守護職より上位の存在で屋形号を将軍家又は鎌倉公方家から免許された武家を指す言葉です。
この屋形号を許された武家の主を御屋形様とお呼びするそうで、時代劇で良くお聞きしましたね。
今この場所大内館と言う名も、御屋形様の御在所と言う意味なのだそうです。
又、御屋形様のご正室を皆さんはお裏方さま、御たいほうさまと呼んでいますね。
僕の前世の感性が裏方はあんまりだと叫ぶので、お方さま又は東向殿さまとお呼びしますけど、これは外向きの言葉で家中で使う言葉ではないそうです。
そして御屋形様と一緒に戻って来られたご嫡男の周防介さまの事は上様とお呼びするのだとか?
上様には暴れん坊な将軍さまのイメージがあるのですが、騎乗して戻って来られた上様は荒々しさなんて全くなく腐の女の人が描くイケメンに見えます。
屋形号を許された武家の特権として、その家臣たちに侍烏帽子と直垂の着用が許されます。
僕は公家なので直垂を普段着と言うかスーツ感覚で着用しますが、武家においては本社社長から許された重要な子会社社長の家臣のみに許されたユニフォームって感じですね。
因みに宮中晩さん会でスーツ姿だったら蹴りだされるのと同様に、宮中でも直垂着用はラフ過ぎてルール違反です。
大臣以上の方だけが例外として許されますが行儀が良いとはみなされません。
騎乗の周防介さま、初陣で大勝利と言う事で凄い笑顔でいらっしゃいます。
そして、すぐ後ろに控えるヤクザも裸足で逃げそうな強面の方が陶中務少輔殿だとか。
初陣で万を超える軍勢を指揮するなんて今の日本では大内家だけでしょうね。
パレードが終わり論功行賞も終わり、全てが一段落すると僕は大内介さまに呼ばれました。
案内役に連れられて向かう先は大広間。
てっきり大内さまと僅かなお身内との内々の話だと思っていたら、大内介さま、東向殿さま、周防介さまを始め大内家の家臣団が勢ぞろいしてます。
内心、ビクビクしながら案内されるままに大内介さまのご前まで進みます。
それからの事は緊張のあまり細かく覚えていません。
先ず僕が挨拶をし、大内介さまが僕は大内家縁の公家である事。
身寄りなく京の都では危険である為大内家が綾小路家を後見すると言う事。
その為に呼び寄せたが対馬の宗氏が大内家の身内を襲ったと言う事。
その報復として来年、周防、長門、豊前、筑前の4か国の水軍衆と共に宗氏を攻めると言う事。
その旗頭を綾小路有興が務めるが身内と言う事をハッキリする為、僕が大内介さまの猶子となる言う事。
猶子と言うのは養子より格下?と言うか家督相続を目的にしない養子ですね。
猶子になるにあたり有興のように大内介さまの偏諱、つまり興の字が下に来るのは失礼なので、綾小路家の通字の有を同じく通字の俊に替え、興の字を大内介さまの諱、義興から偏諱の興の字を頂いたと言う事にして、本日より綾小路興俊と名乗る事になりました。
もっとも、烏帽子親の公卿さまより頂いた有興と言う名も本当は大内介さまに関係してるけどね。
大内家より綾小路家の方が格が上と言う公家の意地みたいな?
綾小路家を興すと諭され感動した僕としては、そんな話は聞きたくなかったんだけどね。
いい話が残念話になっちゃったよ。
でも、烏帽子親の偏諱を貰わなかった謎が解けました。
烏帽子親の三条左大臣さまが偏諱の香をくださらなかったから気にしてたんだよね。
まぁ~男なのに香なんて字を貰ったら、それはそれで凄く悩むけど。
香俊と香有、、、、途轍もなく変でしょ?
それが理由だと今まで思ってました。
又別称として、大内三郎興俊とも呼ばれることになります。
もし、武家として身を立てるならこちらの名前の方が通りが良いのでしょうね?
こんな沢山の強面の皆さまに囲まれた状態で嫌ですと大親分の大内介さま、あぁ~今日からはお屋形さまと呼ばなきゃいかないよね。
お屋形さまに嫌とは言えません。
言われるままにありがとうございますと答えたのでした。
そう言えば公家が如何に貧乏であるかのエピソードに九条家の左大臣さまのお話があります。
烏帽子親の三条さまより何代か前の左大臣さまに九条さまと言う方がいらっしゃいました。
九条家は左大臣を出せるんですから姉小路家より凄く立派な家です。
しかし、その頃の九条さまの家は凄くお金に困っていて家臣にまでお金を借りなきゃイケない有様。
その家臣もお寺に借金をしていて借金の方に九条さまから担保として頂いた荘園を渡そうとしたから問題が発生!!
お話のもつれからこの家臣をお父さんと一緒に切り殺してしまいます。
ところがこの家臣さんも九条家の家令を務めるだけあって立派な殿上人、実は僕より官位の高い正四位下で、職も大学頭文章博士大内記と言う如何にも出来る男は幾つもお仕事持ってますみたいなお人でした。
結果、宮中でも大問題に成り九条家は親子ともども宮中の出入りを禁止されそれが許された後苦労して左大臣になったと言う話です。
この九条家の左大臣さまのお子さまが細川京兆家の養子に入り、今の管領さまや阿波の亡くなられた前管領さまも同じく養子だった事から激しい跡目争いが起きて三好筑前守殿の最後まで続くんですよね。
この事件で九条摂関家が他の摂関家より少し下に見られていているのは残念な事ですね。
でも当代の九条左近衛大将さまは、大変和歌や連歌に優れているとお聞きしますから機会があったらお会いしたいですね。
その後、対馬討伐で僕を補佐してくださると言う武将を紹介していた。
その方の名は内藤弾正忠殿。
東向殿さまの従兄弟で、義弟と言う間柄の大内家の重鎮です。
上様の守役を務める杉伯耆守殿や先の戦で抜群の軍功を上げられた陶中務少輔殿と並ぶ大内家の屋台骨を支える方だと伺いました。
本来なら元服もしてない少年の代りを務める真の総大将ですね。
頼もしい限りです。
「全部お任せしますので、宜しくお願いします。」
とぺこりと挨拶したら、お屋形さまの前なのにゲラゲラと笑い出してその後盛大に咽ていたけど大丈夫かな?
このような感じで長かった7歳が過ぎました。