東向殿。
前話が少なかったので、少なめですが追加します。
又記述的におかしな所があった為修正しています。12/9
綾小路君を襲った仁保白井氏さん、登場人物をその方のお父さんに替え陶氏の与力から武田家家臣に替えました。
1524年(大永4年) 周防国 大内館 (旅の開始より何日目か判らず)
綾小路 有興 7歳。
目が覚めると知らない天井だった。
身体を起こそうとすると今まで感じた事が無いような痛みが全身に走った 。
傍らに華やかな装いをした身分の高そうなご婦人が心配そうに覗き込んでいる。
その横に控えていた初老のおば様が
「この方は東向殿さまです。」
と教えてくださる。
え~東向殿?
誰?
無反応な僕にムッとした様子で、
「東向殿さまは、前管領代にして七か国守護の従三位中納言大内介さまのご内室さまです。」
と教えてくださいました。
え~~~って感じです。
海賊に襲われて何故?
話が急展開過ぎて何が何だか判りません。
軽くパニックになっている僕に、お方さまが経緯を搔い摘んで話してくださいました。
そこで出てきた新事実。
僕のお父さんは綾小路権中納言で間違いが無いのですが、お母さんは大内介さまの姪に当たるんだそうです。
今から30年くらい前の明応の頃、大内介さまの妹さんが京の都で敵方の若狭国の武田治部少輔の郎党に攫われたそうです。
そして大内介さまに前将軍さまへの加担をせぬように迫ったそうで、大内介さまは脅迫に屈し明応の政変で当時の管領さまが前将軍さまを監禁するのを見捨てて摂津国の兵庫津に退いたそうです。
その後領国の大内の介さまのお父上がこの仕置を知り、勘気を蒙り大内介さまの側近は切腹、大内介さまも領国へ戻されました。
そして解放された妹さまは出家されました。
しかしその事件の後、秘密裏に娘さまをご出産されその娘さまが僕のお母さんだと言うのです。
僕のお婆さまがお母さんを出産した頃、大内介さまのお父さまが亡くなりご家督を継がれましたが、ご舎弟の大護院さまとのお家争いを讒言する事件があり、不用意にお婆さまとお母さまを領国に戻す事は出来ず一部の者しか知らない大内家の秘密となったそうです。
更にそののち本当にご舎弟さまと家督争いをされたので、内介さまは領国へ引き取る事を諦め妹さまに金銭的支援のみされていたようです。
しかしその後領国の問題を解決し京の都に戻って来られた大内介さまは妹さまと娘さまを後見されました。
そして僕のお父さんが出生の秘密もすべて了解の上でお母さんと結婚され僕が生まれたそうです。
しかし僕が生まれる少し前から不幸が続き先ずお婆さまが亡くなられ、出産直後におかあさんが亡くなり、続いてお爺さんが亡くなりました。綾小路家を暖かく見守っておられた周防介さまも、雲州の狼が領国を狙い不安定になって来たので心配しつつも周防国へ引き上げたそうです。
その後も乳母として付けた少納言より綾小路家の報告を大内介さまは受けておられたのですが、僕のお父様が亡くなり先日の寧波の乱で管領の細川家と対立が鮮明になった為、京の都へ金銭的支援を続けるのは秘密の露見に繋がり明応の事件が再び不埒者によって起きないとも限らないので、僕のお師匠さまに僕を周防へ連れてくるよう依頼したそうです。
もうね、この話聞いただけで一杯いっぱい。
でも未だこの話に続きがあるのです。
だって何故襲われたのか?
聞いてませんから。
さてこの後の旅は日記に書いてあるように順調でしたが、旅の終盤大内館を目の前にして海賊に襲われました。
お方さまが教えてくださった経緯は次の通りです。
今回の寧波の乱は正規勘合符を持った遣明船を派遣した大内氏と期限切れの勘合符で賄賂を武器に横から割り込んだ管領細川氏の争いでした。
遣明船が行う勘合符貿易は朝貢とその褒美としての取引が優遇された貿易です。
そしてこの時代もう一つの朝貢貿易が存在します。
当時の日朝貿易は通交使節による進上と回賜と言う一種の朝貢貿易で、通交使節及び使送船の船員の朝鮮滞在費も朝鮮側が賄っていました。
これらの使節・船員には朝鮮滞在中のみならず帰路日本に辿り着くまでの食糧・酒・薪・炭などが支給されていまして、永享11年(1439年)には支給米だけで年間10万石も掛ったそうです。
このように旨みのある朝貢貿易ですが、朝鮮側に負担が大きいため、遣明船と同様に回数制限を行いました。
回数制限に困ったのはこの貿易に大きく依存していた対馬国の宗氏です。
対馬国は平坦な土地が狭くそもそも島なので土地も広くありません。
その為宗氏は日朝貿易の取りまとめ役と言う立場を利用して、家臣たちに日朝貿易の権益を知行としていました。
しかし嘉吉3年(1443年)の嘉吉条約により送る船の上限を年50隻と制限され、その後も在日朝鮮人ならぬ在朝鮮日本人の強制送還を度々実施したり交易品の制限を行ったりと不平等貿易の制限をしてきました。
そしてその間に北九州での所領を全て大内氏に奪われるなど、ますます日朝貿易が対馬国の生命線になって行く中で三浦の乱が応永17年(1510年)に起きます。
これは朝鮮半島の日本人居留地と朝鮮王朝の軋轢に対馬国の宗氏が居留地側に参戦し王朝側と交戦し敗北した事件です。
僕も歴史の授業で習ったので年号と名前は覚えています。
その後宗氏と朝鮮は和解したのですが、船の上限を25隻に削られ居留地も3か所から1か所に減らされました。
この苦境に宗氏は今までこっそりやって来た偽使と言う犯罪を大々的始める事になります。
偽使とは読んで字のごとく偽物の使節です。
日本国王使(幕府の使節)や琉球国王使や王城大臣使(幕府重臣細川氏や大内氏)の使節を偽って交易を少しでも増やそうと努力しました。
幕府も牙符制と言う一種の勘合符を発行して正当な使節の証明に努力しましたが、宗氏は本物の日本国王使を襲って牙符を奪ったり、複製したり、虚構の国をでっち上げたりと様々な不正に手を染めていきます。
(因みに三浦の乱以降江戸幕府成立までに、本物の日本国王使は二度しか派遣されていません。
残りはすべて宗氏の仕立てた偽使です。)
前振りが長くなりましたがこのようなヤクザの元締めの密貿易の実態は西国においては公然の秘密です。
もちろん管領家も将軍家も知らない訳では無いですがここまでひどいとは知りません。
又、お主上は全く知りません。
もしそのヤクザの取引の現場に警察官の息子が来たらどうなるでしょう?
今は散位とは言え、元は侍従で殿上人の僕は邪魔者の何者でもないでしょう。
天王寺丸を襲ったのは仁保白井氏の白井縫殿助。
安芸国の国人で出雲国の尼子家に従属していた安芸国の武田家の家臣でした。
武田家の水軍衆を担当しており、宗刑部少輔に唆され、金に釣られて襲ったようです。
やっぱり3億ベリーの賞金が僕に掛かっていたようです。
襲われてすぐ僕は上から落下した桁を止めていた縄に当たり意識を失いました。
それに慌てたお師匠さまや天王寺の若旦那によって船は御手洗湾の室積泊に入り、身分を明かして在番の地侍に支援を求めたそうです。
その後軍船は立ち去りましたが目撃者がいるので隠せるはずもなく、その後大内勢に手ひどく本家諸共攻められているそうです。
更に大内介さまは未だ安芸国で戦をされており、こちらには戻って来られませんが来年には対馬国の宗氏を攻める決意を固められたそうで、各地の水軍衆に号令を掛けておられると話されていました。
お方(東向殿)さまは我が家と思いゆっくり養生なさいと仰ってくださいましたが、余りにも色々な情報が駆け巡ってお礼も言えずに再び眠ってしまいまいました。