北陸の反乱①。
1535年(天文4年)11月下旬~12月初旬 尾張国 木ノ下城 ~ 摂津国 大坂。
綾小路 興俊 18歳
災害復旧の目途も付いたと言う事で亰へ戻る道も開けたと言う事で軍勢を西に進める。
しかし、ここで新たな知らせが私の元に届きました。
京の北に位置する諸侯が揃って謀反を起こし吉田家当主、吉田兼右殿を受け入れたそうです。
越前国の朝倉孝景殿が首謀して、若狭国の武田元光殿、但馬国の山名祐豊殿が加わったらしい。
うちの情報参謀たる千賀地保長殿に謀反の理由を聞くと私への不信感が根底にあるそうです。
私は人物の好悪で仕置きを決める傾向がある。
それは否定しない。
特に前世の記憶で良将だったり、皇室や公家に繋がっていたりすると途端に対応が甘くなる。
逆に前世の記憶で無能だったら現在の世評が良くてもかなり無関心だ。
依怙贔屓が過ぎるところを人は良く見ているらしい。
その為、脛に傷を持つ方々はいずれ私に滅ばされるのならと先んじて謀反を起こしたらしいです。
朝倉氏なんて現時点で最強の武将が身内に居るんだから背かなくても良いじゃんと思うけど、、、
日記に書く必要すら感じなかったとある仕置きに脛の傷が疼いたようです。
事の起こりは丹波国桑田郡宇津荘を治める国人領主、宇津頼重から始まります。
天下統一の総仕上げが東征であると皆が認識していたので、東国から都へと次から次へと届く東征の詳報には朝廷だけでなく周辺の国人や武士、商人から農民に至るまで関心を持っていたそうです。
そして景気良く進んでいた東征が伊達の御曹司によって頓挫し、美濃国の水害を言い訳に西へと引き上げてくる我々が彼らにどう見えたのか?
北陸征路の軍は我々とは合流して居ないので流言飛語と真実の区別が付かなかったのでしょう。
綾小路家や公方さまの時代は終わったと、乱世の時代の再開だと早合点した馬鹿の中に宇津頼重なる人物が居ました。
かの御仁は乱世の再開に対して素晴らしいスタートダッシュを切ろうとしたのでしょう。
領地に隣接する皇室御領である山国荘を横領したのです。
別に不穏な動きをしたのは彼だけでは無いのですけどね。
ただ横領したのが御領であったと言う事と見事なフライングだったので悪目立ちしちゃったのがいけなかったのでしょう。
失敗に気づき降伏の使者が大坂に来たようですよ。
一言も弁明させて貰えずにこの世から退場されたようですが、、、
フライングした他の方々の一罰百戒として大坂の門徒軍が数日で族滅したそうです。
朝廷としても私とお主上さまの仲を裂くような嫌な噂が出ていた時ですから宇津頼重を朝敵として先行する門徒軍を追いかけて治罰の綸旨を渡したそうです。
これだけなら尊皇に務める綾小路家とそれを頼りにする朝廷と言う構図を世に示す事が出来て目出度し目出度しなんですけどね。
過去に宇津頼重のような奴が居なければこれで終わった話なのです。
ここに脛の傷が繋がります。
朝倉家10代目の現当主は朝倉孝景殿。
朝倉家の7代目も朝倉孝景殿と言うのですが応仁・文明の乱で大活躍し、越前国において甲斐氏、織田氏に続く守護代三席に過ぎなかった朝倉家を越前守護家に押し上げた英傑でした。
しかし成り上がるには無理もかなり押し通し公領や公家領・寺社領の押領も多く行いました。
朝倉氏の本拠地が一乗谷である事は有名ですが、一乗谷館は越前平野の要である九頭竜川の支流である足羽川のその又支流である一乗谷川の谷間にあります。
そんな地勢的な要件から同じ足羽郡にある河合荘などの皇室御領や摂関家の一条家の足羽御厨などの公家領、少名庄などの官衙領、春日社興福寺の道守庄などの寺領など、手当たり次第に好き嫌い無く奪いました。
あまりの横暴に当時の公家から天下悪事始業の張本人(天下一の極悪人)と呼ばれています。
この悪党から寺領を護る為に当時の興福寺別当の経覚は親戚で比叡山に虐められて窮地にあった本願寺8世法主の蓮如上人さまを自領の吉崎に匿って代官の役目を負わせつつ浄土真宗の布教を許しました。
これが一向宗と朝倉家の抗争の原点なので、、、
本願寺から奥さんを貰って本願寺を取り込んでる私が信用できないのは無理もない話です。
門徒の屍の山を以て当代最強の武名を轟かすチート武将さんもデレる理由が無さそうです。
余談ですが前世で朝倉氏が滅んだ後、越前国を支配した柴田勝家が居城とした北ノ庄城。。。
この名前は足羽御厨と足羽川を挟んで北側にあった荘園である足羽荘の俗称、北荘に建設された事から来ています。
朝倉氏に呼応して反旗を翻した他の2家の脛の傷はどうなのでしょうか?
但馬国の山名祐豊殿なんて、生野銀山開発でお互いにウインウインの関係だと思ったんだけど、、、
こちらは今は無き綾小路家の荘園が絡んでいます。
綾小路家は代々楽の家柄なので、お主上さま方に雅楽をご教授して生活してました。
なので血筋が良くて公卿となる家柄であってもお金にはあまり縁がない家なのです。
そんな綾小路家にも乱世が始まるまでは小さいながらも慎ましく生きるにはそれなりの荘園が2か所ありました。
一つは河内国の丹北郡富田荘城蓮寺村。
村高が150貫ほどの小さな荘園ですが世襲親王家である伏見宮家に綾小路家が家司として勤めていた関係で本家の伏見宮家さまの富田荘を綾小路家が領家として22町4反の荘園を管理させて頂いていました。
もっとも場所が良すぎて細川家の内訌に巻き込まれて荘園の権利は跡形もなく消えました。
綾小路家の収入は17~18貫ほどだったと聞いています。
今の私にはどうでも良い金額ですね。
もう一つが但馬国出石郡に有る伊勢内宮が本家の大垣御厨の領家として管理させて頂いていた55町9反の荘園です。
こちらの村高は375貫なのでそれなりの荘園です。
綾小路家の収入は25貫と、これも今の私にとってはどうでも良い金額です。
他に貢納品として和紙を50帖得ていましたがもっとどうでも良いです。
奪ったのを気にするなら色を付けて返せば良いと私は思うのだけど、、、
土地に執着する武家の感性は私には理解できません。
それともこの土地を押領する時、下司を務めていた小野家を攻め滅ぼしてる事が原因なのでしょうか?
一所懸命が武士の本懐だとすると山名殿との戦いは必然なのでしょう。
残念ですけどね。
若狭国の武田元光殿の謀反はまぁ~アリかなと納得できました。
うちのお婆さま(大内義興さまの妹君)との婚約を破棄された腹いせに雑兵を使ってお婆さまを拐かし人質にとって政変に引き込もうとか、人としてどうかと思う行いをしたのが武田元光殿の父であるし、その事件が原因で出家を余儀なくされたお婆さまや父親が判らないと言う出生の秘密をもって生きねばならなかった母上の思いを考えれば武田元光殿は謀反を起こさなくても余裕が出来れば何れね。
もっとも綾小路家や大内家に恨まれていると言う事実を武田元光殿は知らぬようで、、、
謀反の理由は昨年奥さんを亡くした傷心の武田勝千代君が来年早々に元服するんですが、公方さまから「冬」の偏諱を賜り、「冬信」と改める事や官位は従五位下、大膳大夫に叙位、任官される事。
又、元服後に継室として権大納言、三条公頼さまの娘である三条夫人を迎える事が
内定してる事を吉田兼右殿の密告で知ったようなのです。
元々甲斐国の武田氏が本家であるし、私との関係も良好で代々、若狭国の武田氏が受けてきた大膳大夫を元服祝いに与えてしまったらそりゃ怒るよね。
怒ったからどうした?
と言うのが私の感想だけどね。
そんな訳で武田氏は兎も角、他の両家は脛の傷に怯えて私と開戦と相成りました。
近江国を抜けて急ぎ上洛します。
しかし上洛したものの雪の為に北陸には兵を動かせないと言う事で、警固の兵を京の都に置いて大坂に戻る事にしました。
大坂に着いたのは12月初旬。
もし雪が無くて戦してたら、初めて会う息子が2歳になってた可能性に思い至り冷や汗を搔きながら帰城しました。