西欧事情(マラカの書状から)
1535年(天文4年)11月初旬 尾張国 木ノ下城。
綾小路 興俊 18歳
日本と言う国は太古より稲作が生活の基本となっており稲作に影響を与える雨風や更にもっと広義に四季を表す言葉が色々と存在する。
同じように文永と弘安の役で神風に敗れ去った蒙古は馬が生活に密接した民であり馬の種類、状態を表す言葉が日本とは比べものにならない程あるそうです。
つまり、言葉が他と比べて多いと言う事は他に比してそれらとより密接に繋がっていると言う証左なのです。
突然このような事を述べるのは先ほどマラカの神屋彦八郎大提督より届いた書状に原因があります。
前世の知識を思い出しても日本語で奴隷を表現する言葉はそれほど多くありませんでした。
精々奴婢や生口と言う太古の言葉くらいでしょうか?
乱世である今の時代、乱取りで人攫いはどこでも見られますしそれらを売り買いする事も良くある事なのですがそれでも人は人と扱われる為身代金を払えば自由ですし売られても丁稚や下人と大して扱いは変わりません。
ところが現在敵対しているポルトガルと言う国は奴隷を意味する言葉が沢山ある民族なのです。
今は未だ接触していない英国人の英語で言う所の奴隷に該当するポルトガル語はエスクラーヴォ(女性形ならエクスラーヴァ)と言うそうです。
その他に青年から老年までの奴隷の男、若しくはかつて奴隷であった男をモッソ。
結婚適齢期、若しくは生殖可能な奴隷の女をモッサ。
しかし一般的にはモッソとモッサは若い男、若い女の奴隷を意味し、同様に未成年で大人の庇護を必要とする男の子、女の子の奴隷をそれぞれメニーノ、メニーナと言います。
戦争で生け捕りになった捕虜奴隷はカティーヴォと言います。
大抵捕虜奴隷は若い男なのでモッソ・カティーヴォとも言います。
モッソ・デ・セルヴィッソは奴隷を含めた奉公人と言う意味合いがあり、奴隷で無い場合は自由民と言う形容詞が後に続きます。
同じく奴隷を含めた奉公人と言う言葉ではジェンテ・デ・セルヴィッソと言う表現があり、奴隷商人でなく主に宣教師が使っている言葉だそうです。
ビッシャとは古いポルトガル語では動物の牝を意味し、ポルトガル北部のトラス・オス・モンテス地方では女性器を意味するそうです。
しかし奴隷を指す言葉としては中国人の年若い(10代後半~20代)の女性奴隷を意味します。
米国英語読みならビッチなのでこれが中国人女性のみにしか使われないと言う事実がどれ程中国人女性の扱いが酷いか言葉から判りますね。
ネグロは肌の濃い人と言う意味を持ちアフリカ人に限らずインド人や東南アジア人にも用いられたのだけど常に奴隷を意味し人種差別を感じさせる言葉ですね。
カフルとは赤道以南でイスラム教徒でないアフリカ人を意味し、「恩知らず」「不忠義者」「背教者」「不信心者」を意味する言葉で揶揄されるそうです。
他に奴隷の人種と言う意味合いでカスルと言う言葉もあるそうです。
日本のカスルと言えば日本人奴隷を意味します。
これほど沢山の奴隷と言う言葉が有るような民族と判り合えるのでしょうか?
前世ではネット小説で奴隷を買ったり解放したりと言うのが異世界モノの鉄板でもありましたが、所詮奴隷と言う一語しか持たない日本人の書きものです。
美人奴隷が解放されたり人並みに扱われてチョロいん宜しく主人公に盲信状態がセオリーですけど、書き物じゃないこの世界では身も蓋もありません。
この世界にも奴隷身分の解放は有ります。
それも頻繁に、、、
年老いて働けなくなった奴隷は厄介者です。
だから長年の奉公の褒美として自由民として解放するのです。
ただし金も与えられずに解放と言う名のもとに放り出された元奴隷の行きつく先は物乞いか浮浪者。
まぁ~長くは生きられないですよね。
じゃぁ~主人の下に居れば安泰か?と言えばそうでも無い。
とある女性奴隷の災難がそれを示しています。
モッサの歯が白い事を主人が誉めたら主人の留守中にその妻が他の奴隷にその白い歯を砕く事を命じたとか、それでは済まずにそのモッサを妾にしてるのではと疑った妻が熱した鉄棒をモッサの陰部に当てさせて殺してしまったと言う話も陰惨ですが、そのような事件が起きても誰も罰せられずその主人が知人にボヤいているだけと言うそちらに戦慄します。
又、ポルトガルの西アフリカにおける主要な奴隷貿易拠点の一つであるサントメ島のポルトガル商館の商務員規則には1532年(天文元年)にポルトガル国王ジョアン3世がアフリカ大陸から運ばれてくる奴隷の体に焼き鏝で烙印するよう命じた次のような記載があるそうです。
法令
現時点よりサントメ島へ送られてくる予の奴隷達に関して、他の奴隷達に混じったり間違えられたりしない為に獲得されたあらゆる奴隷の右腕下部にGuineと言う烙印を押す事。
ギネとは英語表記ならGuineaと言う地名を指しギニア産って感じの意味でしょうか?
この行為は人間を商品と変えてしまう悪魔の烙印です。
何故なら南蛮の地において焼き鏝で印を付ける方法とは古代から現代に至るまで家畜に対して取る方法だからです。
例え将来自由の身になっても烙印がある事によって永久にその者の出自を公にし続けます。
ポルトガル人にとって奴隷とは文字通り話す家畜程度の認識なのでしょう。
もっとも彼らにその非道を声高に詰っても理解しないでしょう。
件の法令を出したジョアン3世はインドのゴアに所有していた像の飼育係を務めていたインド人の奴隷の両頬に十字の烙印を押してるそうですしその弟で王位継承権第一位のドン・ルイスが所有する白人奴隷には顔に主人の名前を烙印しているそうなので文化と言うか感性が我々と違います。
この辺りは書状でなく西欧事情顧問に就任して貰ってるトメ・ピレス殿からの情報ですけどね。
そんな理解しがたい民族性の大国と既に戦の火蓋は切られています。
敗北の先に在る我々の未来を考えれば絶対に負けられない戦争に突入したと言えます。
その事実に思い至った時大変心が重くなりました。
書状には良い話も有りましたよ。
インドのコーチンに居るユダヤ人がこちらの味方になりそうです。
インド大陸の西海岸に位置するコーチンはインドで最初の植民地となった事でポルトガル領インドの首都でしたが1530年(享禄3年)に北のゴアに首都が移りました。
その港町コーチンには紀元二世紀以来黒いユダヤ人と言われるマラバル・ユダヤ人と白いユダヤ人と言われるパラデシ・ユダヤ人が定住していいるそうです。
そしてコーチンにある彼らのコミュニティーを頼ってポルトガル本国からユダヤ人が逃れてきているそうです。
何故?ポルトガル本国からユダヤ人の流出があるのか?
それを説明するにはポルトガル本国のあるイベリア半島の歴史をサラリと説明せねばなりません。
13世紀の国土回復運動以降イベリア半島北部に追われていたキリスト教諸国がイスラム勢力への攻勢を強め、1469年(応仁3年)のカスティーリャ王国のイザベルとアラゴン王国のフェルナンド2世の結婚によってレコンキスタが加速しました。
1479年(文明11年)両国を統合したイスパニア王国が成立し、1492年(延徳4年)イベリア半島最後のイスラム国家、ナスル朝の滅亡によりレコンキスタが終結しました。
カスティーリャ王国では、信仰の自由と自治権を保障されたユダヤ人の共同体があり、王国南部のセビリャ、ムルシア地方にも多数のムデハル(キリスト教国支配下のイスラム教徒)が存在して異教徒に対して緩やかな統治を行っていましたが、レコンキスタ終盤に至り外敵から内なる敵に目を向けるようになりました。
そして1478年(文明10年)教皇庁はアラゴン王国領に限って国家主導の異端審問の許可を出しました。
異端審問の設立当初の対象者は主にコンベルソ(カトリック改宗したユダヤ教徒)とモリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)でした。
女王と王の結婚を勧めた家臣もコンベルソでしたがフェルナンド2世にお金を貸してる方々が軒並みコンベルソだった事が異端審問の引き金だったようです。
その証拠にフダイサンテと呼ばれる裕福な隠れユダヤ教徒の裁判後に彼らの資産が王室に没収されました。
王室は初代異端審問所長官にコンベルソのトマス・デ・トルケマダを任命し、彼は在職18年間に約8千人を焚刑に処したそうです。
そして1492年(延徳4年)のレコンキスタ終結後、アルハンブラ令と言われるイスパニア王国からのユダヤ教徒追放を推進し10万以上と言われるユダヤ人がポルトガルに逃れて来ました。
ポルトガル王ジョアン2世は難民に8カ月の滞在しか許さずそれを超えて滞在する者は奴隷の身分に落としました。
次代のマヌエルは即位するとこれらのユダヤ人を奴隷身分から解放しました。
しかし、イスパニア王国の王女イサベルを妃として迎える条件にイスパニア王国はポルトガル王国領内でのアルハンブラ令の適用を求めました。1496年(明応5年)にマヌエル王もこれに応じ。ポルトガル王国でもキリスト教以外の宗教儀式は違法となりユダヤ人に対しては追放令が出されました。
しかしユダヤ人の経済活動や技術力がポルトガルの発展に大きく寄与していた為、1497年(明応6年)3月19日を境にポルトガル王国内の全ユダヤ教徒に本国脱出を禁じ形式的な強制改宗を命じて内心での信仰の調査は20年間猶予するとしました。
追放令なのに国外脱出を禁じる矛盾。
要は面倒事を先送りしたんですね。
この期間はさらに延長されマヌエル王の治世下では信仰の調査は行われませんでした。
しかし表面的にキリスト教徒となったユダヤ教徒たちは「新キリスト教徒」を意味する豚と呼ばれさまざまな迫害を受けました。
14歳未満の子供は親許から引き離されキリスト教徒の家庭に里子に出されました。
迫害や差別は段々と酷くなり本国外での活動を禁じられたはずの新キリスト教徒の多くが冒険者や交易商人、宣教師としてアフリカやインドなどで活動をしています。
特に近年ポルトガル王国も異端審問の設置許可を教皇庁に求めている事から国外脱出が加速しているそうです。
それらの隠れユダヤ人がインド大陸西岸のコーチンのユダヤ人コミュニティーを通じて我々に接触して来たのです。
1534年(天文3年)にローマ教会の大司教座がポルトガル領インドの首都ゴアに設置され、教会の手がインドに伸びてきた事も大きな理由でしょうか?
私はマラカの神屋彦八郎大提督にユダヤ人に対して信仰の自由や保護を命じる書状を送りました。
未だ冶金学や化学の分野で西欧に大きく遅れている我が国に核心技術を多く持っていると思われるユダヤ人が頼ってくるのはかなり良い事だと思います。
ただ彼らも又奴隷に対する考え方が西欧人のそれなので、その点では強く指導せねばいけないでしょう。
11月に入ってやっと災害復旧にも道筋が出来て物資の集積も出来て来たので、京や大坂へ戻る事が出来そうです。
吉田家の皆さまの捕縛は進んでいるようですがどのように仕置きしましょうか?
それが済まないと我が子の顔が見られないとは難儀な商売です。
さて、尾張を出でて西へと進みましょうか?