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吉田神道。

半年も放置済みません。

もう忘れられてると思うけど再開します。

時間を空けていざ始めようと読み直すとそれまでの時間に付いた知恵が書くのを邪魔するのです。

勢いで書いてしまったから歴史的な事実と辻褄が合わない事が盛り沢山で黒歴史過ぎて書けなくなったら半年が経ってました。

初めから書き直そうかなとも思いましたが元々台本みたいな感じの台詞なしの日記調なのでそんな大したものでないので思い直し再開に至りました。

半年もぼけていますので以前のようなペースは無理です。

週一を目指して行きますので、再開に気が付いてこれからも読んでくださる方宜しくお願いします。


1535年(天文4年)8月中旬~10月下旬 相模国 小田原城 ~ 尾張国 木ノ下城。


綾小路 興俊 18歳


相模国を出立し、伊豆国、駿河国、遠江国、三河国、尾張国と西進し津島の川湊より木曽川を船で北上して美濃国に入ろうとしたのですが、大洪水によって長良川右岸地域は壊滅しており福光の守護所周辺も治安が悪いとの事で、美濃国と尾張国の国境の城である尾張国丹羽郡の木ノきのした城に拠る事にしました。

木ノ下城の城主は織田信定おだのぶさだ殿。

尾張国守護代、織田信秀殿の父君です。

隠居に際し勝幡城を信秀殿に譲り、ご自身は隠居後も美濃国へ睨みを利かすために尾張国の北辺に位置する木ノ下城に居られるそうです。

信秀殿の勝幡城も信定殿の木ノ下城も戦国初期・中期の時代には珍しく平城です。

津島と言う商業地を根拠地に勢力を伸ばしてきたからかも知れませんが、信長が強力に進めた楽市楽座の素地がここに在るのかも知れませんね。

木ノ下城は北(宇留摩地域)と東(東濃地域)に向けては堀を設けていますが、勢力下の西(岩倉)と南(守山)には設けていません。

又、北に有る木曽川対岸の鵜沼うぬま城の抑えとして木曽川南岸に有る犬山の乾山、断崖絶壁の小山に砦を築いています。

この砦が前世で言う犬山城の前身ですね。

砦からは美濃国側の伊木の山や大沢氏の鵜沼城が良く見えます。

鵜沼城は堅牢な小山の平山城なのですが、小山が断崖絶壁過ぎて登り口の櫓を焼かれたら出入り不可能に近いですね。

引き籠るには良いけど打って出るには不向だと思います。

木ノ下城に到着し、先ずは天災の後始末をせねばなりません。

災害で亡くなった美濃国守護の土岐頼芸殿の後任を誰にするか?ですね。

候補としては3人居られます。


一人目は頼芸殿の甥御殿、土岐頼純ときよりずみ殿。

ただし頼純殿の父君は頼芸殿の兄君、前美濃国守護の土岐頼武ときよりたけ殿で長年守護職を兄弟で争ってきた仲であります。

頼純殿を守護職に据えた場合、越前国の朝倉家の影響を強く受ける上に国人の多くが離反するでしょう。


二人目は頼芸殿のご舎弟の土岐治頼殿。

先の関東の仕置きで武蔵国に転封し7郡22万3千石の大名となった方です。

仕置きでほとんどの諸侯が減封となる中で、頼芸殿のご舎弟と言う事で大幅な加増となり、関東の中の親綾小路的位置づけです。


三人目は寝取りの補償に東美濃国の半守護を確約した土岐光忠殿です。

私的には土岐治頼殿は関東の重しですし、頼純殿はどちらかと言うと反綾小路なので土岐光忠殿は実に都合が良いのですが彼を後継に指名すると美濃の国人も他の二方の候補も納得せず美濃国が纏まらないので諦めざる得ません。


と言う訳で転封の始末も出来ていないであろう土岐治頼殿に申し訳ないですが、武蔵国22万3千石を召し上げ美濃国54万石に再転封を命じ美濃国守護に任じます。

又、土岐光忠殿も土岐治頼殿の旧領の武蔵国の7郡22万3千石に2郡を追加して29万石は転封します。

とは言え土岐治頼殿と違い土岐光忠殿は大領を治めるべき家臣団が居ないので明智家を筆頭に東濃の国人衆を幾つか付けて送り出します。

更に畿内から紀伊半島廻りで大量の米や麦その他の物資を船で運ばせ災害で罹災した美濃国、伊勢国、尾張国の農民たちに炊き出しを行います。

炊き出しで人を集め被災地の後始末や長良川の堤防工事や田畑の復旧工事にような公共工事で食い繋がせて

田畑が復旧次第、順次帰農させましょう。

転封先が水害で大被害なんて放置したら土岐治頼殿への嫌がらせになるから金目に糸目を付けず全力で復旧作業に取り組みますよ。

天災の後始末はこれで良いとして、、、


10月に入りお主上さまの呪詛の噂の続報です。

この時代よりちょっと前、京の都から鴨川を東に渡った吉田山にある吉田神社の神職で吉田兼倶よしだかねともさんと言う方が居まして、、、

その方が先々代のお主上さまや日野富子さまに取り入って、判りやすく言うと仏さまより神さまの方が上なんだと主張する吉田神道を創始したんです。

この人、徒然草の筆者である兼好法師の子孫なんですけどね。

そのお孫さんに当たる方が吉田兼右よしだかねみぎ殿で従四位下の神祇大副じんぎたいふを務めていらっしゃいます。

で、まぁ~吉田兼倶殿の頃から時の権力者にすり寄って神祇管領長上并南座勾当(じんじかんりょうちょうじょうへいなんざこうとう)と名乗り全国の神社を支配して神位・神職の位階を授与する権限を獲得したそうなんです。

仏さまより神さまが上って言う神本仏迹説しんぽんぶつじゃくと言う考え方は、鎌倉末期の元寇においての神風などによって段々と広まってきた考え方なんだけど、兼好法師のお兄さんが仏教の大本である天台宗の僧侶になって仏さまより神さまが上だと援護射撃をしてたように一族挙げて先祖代々継続してる一大キャンペーンなんですね。

そして日本神道界を全国制覇したんですが最近、ライバルの仏教界に魔王が出現したそうなんです。

第六天魔王波旬と言う人ですね。

私はそんな人知りませんけれど有名人みたいですよ。

で、その魔王さん、正室が本願寺の女性でお主上さまにも可愛がられてて吉田神道ピ~~~ンチと思ったかどうかは知らないですけれど雨乞いの祈祷にかこつけて綾小路滅亡を祈る呪詛を敢行したそうです。

科学全盛の記憶がある私にしてみれば呪詛なんて他愛のないモノだと思うんですけど、この時代は67年前の1469年(文明元年)に山城国の醍醐寺が寺領の農民一揆を僧兵で鎮圧しようとして負けた腹いせに農民滅亡を祈る大読経を敢行して半年後に一揆関係者に疫病が流行ったと言うファンタジーな世界なのです。

呪詛が効きすぎて俺SUGEEとでも思ったのか?

普通は秘中の秘とすべき呪詛が世情に漏れてしまうなんて有り得ないんですけどね。

それが漏れてしまったものだから京の都は大騒ぎです。

で、神祇管領長上并南座勾当なんて有りもしない厨二病の官職を堂々と捏造したりする吉田家の方々は恐れ多くも呪詛はお主上さまの勅だと宣ったとか?宣って無いとか?

周防国大内氏、越前国朝倉氏、若狭国武田氏に綾小路家討伐の偽勅が飛んだそうです。

あのう~大内氏の当主、大内義隆殿は私の兄!!なんですが?

当然、義姉上経由で事情説明を求める書状が飛んできましたよ。

飛んできても着々と送られてくる物資を被災地に費やしてるので軍勢を西に戻す余裕が補給的に無理です。

だからと言って少人数で京都をすり抜けて大坂に戻ったり、京都に向かうのは暗殺が怖くて出来ないし、、、しばらく動けそうにありません。

取りあえず、吉田兼右殿やその一族を捕縛するように上使を送りましたがどうなるでしょうか?








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