東征⑧中断。
1535年(天文4年)4月中旬~8月初旬 相模国 小田原城。
綾小路 興俊 18歳
先ずは当主が討ち死にした国人の後継問題です。
上総の武田吉信殿の後継は嫡男の武田清信殿が継がれる事に決まりました。
又、断絶かと思っていた里見家ですが後継者が居ました。
身分が低いので里見姓を名乗って居なかったんですね。
里見俊宗殿の後継は庶兄である小倉四郎殿が里見義貞と名乗り継がせる事に決まりました。
部垂義元殿の後継は嫡男の部垂竹寿丸殿が部垂俊義と名乗り継がれる事が決まりました。
千葉昌胤殿の後継は嫡男の千葉利胤殿が継がれる事に決まりました。
問題は働き盛りの当主が討ち死にしたので新当主の皆さんの年が若い事です。
武田清信殿13歳、里見義貞殿6歳、部垂俊義殿4歳、千葉利胤殿21歳です。
里見義貞殿以外は質として私の手元に居たんですけどね。
彼らを領国に戻しても担保となる質が居ません。
気分的には質なんて要らないんですけど関東の仕置きでビシバシ領地を削っているので、下手に戻すと反乱の旗頭にされるか?家臣に乗っ取られるか?あまり良い結果にならない気がします。
その為幼少の日光東照宮君の例に習って千葉利胤殿以外はそのまま手元に留め置くことにしました。
家老が陣代となって戦働きをしてくれれば、当家で伸び伸びと養育してあげますよ。
何れ家臣集住を進めるのでその先駆けですね。
信賞必罰が必要ですので小田政治殿には切腹して頂くしか道がありません。
決して取り潰す訳ではないと公方さまにご説明し了解を得ました。
と言う訳で小田政治殿は切腹となり僅か2歳の小田小太郎殿が小田氏治と名乗られ小田家を継がれました。
ただし下総国半国(18万6千石)を減封とし元の常陸国2郡(9万6千石)のみとした上で関東管領の職は空席としました。
当然、小田氏治殿も私の手元で養育となります。
敗戦の後始末を終えたら進撃再開です。
大打撃を受けた海道路の先方衆を軍役からすべて外し、海道路は私が直接指揮を執り進軍する事にしました。
1535年(天文4年)6月中旬、能島村上の村上武吉殿を大将とする瀬戸内水軍に関東の水軍衆を合流させ約1,400隻の船団で鹿島灘より兵3万と満載の物資を載せ北上させます。
沼之内舘、天神山舘、小浜館と進んで一気に相馬氏の居城である小高城近辺の海岸に上陸させ本城を直撃させました。
伊達稙宗殿や相馬顕胤殿の連合軍は前回と同じく夜ノ森と言うか岩城領との国境に出陣していたようで小高城は全くの手薄でした。
前回が完全な勝ち戦だったが故に後背地の守備は弛み切っていたようで水軍衆の急襲を敵と認識する間も無く落城したようです。
それによって嫡男の相馬孫次郎殿(7歳)や奥方の屋形御前殿を捕らえる事が出来たそうです。
伊達稙宗殿や相馬顕胤殿は小高城の落城を知り都路街道を通って阿武隈山地を抜けて田村氏の三春城へ逃れて行きました。
私が標葉郡の小領主でこちらに帰順した標葉隆成殿の権現堂城にやっと到達した時には、水軍衆は北上を続けて中村館を落として陸奥国宇多郡中村を手にし相馬領の全域を支配下に置いていました。
水軍衆が運んだ兵のうち1万を相馬領で抵抗する諸城の攻略に当てる事とし都路街道を通って田村氏の三春城へ出て仙道路で抵抗する須賀川城の二階堂氏の退路を遮断しようと計画していた7月8日、美濃国、尾張国からの急使がやってきました。
6月下旬より降り続いた大雨により7月1日、美濃国の長良川、尾張国の木曽川が大氾濫を起こしたとの事。
東征で美濃国福光の守護所を公方さまに差し出したので、新しく建設した枝広館の守護所が洪水で流されたと言う知らせです。
そして、美濃国守護の土岐頼芸殿、大坂へ向かう途上で守護所に滞在中だった那那姫、彼女に付けた軍勢を指揮させている明智光綱殿など多くの人間が生死不明。
もちろん軍勢もかなりの死傷者を出し、最低でも1万、多ければ数万の人間が死んだ模様、、、
告げてる使者の顔が真っ青です。
更に水害の被災者が美濃国、尾張国、伊勢国併せて10万以上と見積もられ伊勢長島の一向宗門徒などが多数含まれている為、東征の為に集めてある兵糧米を水軍衆を使って被災地に運び込みそれを原資に三仕法「お炊き出し、お救い小屋、お救い米」を実行したいと伊勢長島願証寺の実恵殿より要請がありました。
被災者支援にどれだけの食料や物資が必要か読めない上に、水軍をそちらに廻して兵站が持つのかも自信がありません。
主だった諸将を集めて告げます。
「天下平定、未だ機は熟さず。」と
和睦を結ぶ時間も勿体ないです。
すぐさま越後を含むすべての軍勢に引き上げ命令を出します。
兵站の負荷を下げる為、岩城氏や結城氏の防衛の為に双方に5千程の兵は駐留させますが、後は城も所領も全て放棄して陸奥国から撤収します。
8月に入り相模国の小田原城に戻ってくると那那姫や明智光綱殿が無事だった言う吉報が入りました。
前日の6月30日に枝広館を出発していた為難を逃れたのだと言う事です。
現在は京の都の綾小路邸に居るとの事で付けていた軍勢も無傷で帰国出来たとの事。
しかし、同時に訃報も舞い込んできました。
土岐頼芸殿を始め土岐氏一門の方々が相当亡くなられたようです。
那那姫たちを一族挙げて持て成し終えた所で洪水が襲い一網打尽となったのでしょう。
又、軍勢が巻き込まれていないのに万を超える人が洪水に飲み込まれたのは事実だそうでいったいどんな洪水だったんだと使者に問い返してしまいましたよ。
そしてそれらの報告と一緒にとんでもない噂がやってきます。
綾小路家による天下統一が成る事による専横をお主上さまが危ぶんで呪詛を命じたと言うのです。
おい、ちょっと待て。
問題は呪詛と解釈された雨乞いの祈祷をするようお主上さまが6月29日に宣旨を出したのは事実だと言う事です。
いったい何が起きてるの?