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東征⑦大敗。

更新遅くてすみません。

私的な事情により暫く遅いです。

1535年(天文4年)2月下旬~4月初旬 相模国 小田原城。


綾小路 興俊 18歳


綾小路家嫡男誕生の報に城内はお祭り騒ぎです。

特に飯富虎昌殿や管領の細川さまなどは我が事のように喜んでくださいます。

東北を早く治め我が子に早く会いたいものです。

名前は坂東太郎ばんどうたろうと名付ける事にしました。

伊達領に至る間に伊達稙宗殿の縁戚や同盟者が立ちはだかっています。

伊達家討伐の経路は3点あり、東から海道(浜通り)、仙道(中通り)、会津と呼ばれています。

このうち海道で立ち塞がるのが小高城の相馬顕胤そうまあきたね殿です。

相馬顕胤殿は伊達稙宗殿の長女(屋形御前)殿を娶っている伊達連合の筆頭格です。

背が6尺(180㎝)も有ると言うこの時代ではかなりの大男。

文武両道で人情にも篤く武器は鉄扇と言うからどこかのアクションゲームのキャラですよ。

宇多うだ行方なめかた標葉しねはの三郡約10万石を治めていています。

岩城重隆殿の大館城より出発する軍勢がぶつかるでしょう。

海沿いの為水軍による物資輸送が可能な為主力5万を当てる予定です。

次に仙道は須賀川城の二階堂晴行にかいどうはるゆき殿が立ち塞がっています。

嫡男の二階堂照行にかいどうてるゆき殿に伊達稙宗殿の娘御が嫁いだばかりで新婚ほやほやだとか。

随分戦意が高いようですが後ろに控える三春城の田村氏は伊達派と綾小路派で割れています。

三年前に伊達稙宗殿の娘御を娶って当主となった田村隆顕たむらたかあき殿は伊達派ですが、当主の座を退いた父君の田村義顕たむらよしあき殿は岩城重隆殿の叔父に当たるので我らに組すべきと主張しているらしいです。

結城義綱殿の小峰城より3万の軍勢を進めるつもりです。

二階堂氏自体はそれほど強力な国人で無いので苦も無く攻略できるでしょう。

最後の会津では黒川城の蘆名盛舜あしなもりきよ殿が立ち塞がります。

花嫁を略奪した事件で伊達氏や相馬氏に協力して仙道地方に領域を伸ばし一番得してる国人なので岩城殿や結城殿の憎悪を一番受けている人物です。

会津は越後より3万程侵入させるように命令していますが管領の畠山殿にお任せしているので詳細は不明です。

蘆名盛舜殿の嫡男の蘆名盛氏あしなもりうじ殿にも近く伊達稙宗殿の次女殿が嫁ぐとの話です。

伊達氏の本拠である桑折西山城への道のりはこのような感じなのですが伊達氏の背後に位置する国人はどうなのでしょうか?

北に位置する山形城の最上義守もがみよしもり殿。

先代の最上義定もがみよしさだ殿は伊達稙宗殿と争って敗れ、伊達稙宗殿の妹を娶り和睦しました。

その後、最上義定殿が世継ぎを残さぬまま死去すると義兄となった伊達稙宗殿が後継問題に介入し紆余曲折の後、最上氏の庶流である中野氏から迎えた当時2歳の最上義守殿が本家を継がれました。

氏家定直うじいえさだなお殿らの忠臣が現在15歳の最上義守殿を盛り立てているとか。

ただし伊達稙宗殿の介入に反対し最上氏から距離を取り始めた最上八楯もがみやつだてと言われる最上庶家連合や伊達稙宗殿と実際争った寒河江さがえ氏等の有力国人を押さえる事が出来ていないようです。

最上家は斯波氏の庶流で代々羽州探題を命ぜられる名家なのですがね。

基本的に伊達稙宗殿への反発が強く出羽国南部の諸侯は伊達方から離脱しているようです。

次に東に位置する名生城みょうじょう大崎義直おおさきよしなお殿。

大崎氏も斯波氏の庶流で代々奥州管領や奥州探題を命ぜられる名家です。

大崎氏の分家が最上家に当たりますね。

昨年、家老の氏家直康うじいえなおやす殿を筆頭に古川持煕ふるかわもちひと殿、新井田頼遠あらいだよりとお殿、高泉直堅たかいずみなおかた殿らが反乱を起こし未だ治められていない様子です。

私に降伏するとほとんどの国人が所領を削られて居るので一戦も交えずに降る判断をした大崎義直殿に家臣が強く反発したとの事。

因みに家臣を焚きつけたのは伊達稙宗殿です。

当主の大崎義直殿からは恭順を願う使者と共に亡き兄の一人娘である梅香うめか姫10歳さんが送り付けられてきました。

彼女をどうしろと?

更に大崎氏の北に位置する石巻城の葛西晴胤かさいはるたね殿も養子として送り込まれた伊達稙宗殿の庶子、葛西晴清かさいはるきよ殿と家中を二分して争っています。

伊達氏の周辺はこんな感じで伊達本家を降せばその背後にある国人は雪崩を打って恭順する感じです。

1535年(天文4年)4月、海道路は関東管領小田政治殿を大将として岩城重隆殿が先導し征路軍から3万5千余を付けて本隊、他に常陸国、下総国、上総国、安房国の諸侯と伊豆国の北条氏綱殿、扇谷上杉の上杉朝定殿ら1万5千余を先方衆として大館城より出発させました。

仙道路は関東公方の足利冬氏殿を大将として結城義綱殿が先導し征路軍から2万弱を付けて本隊、他に下野国、上野国、武蔵国の諸侯を1万余を先方衆として小峰城より出発させました。

会津方面は管領の畠山殿にお任せしてあるので詳しくは判りませんが越後国の揚北衆あがきたしゅうが蘆名氏や伊達氏に扇動されて蜂起し、陸奥国に侵入すら出来てないと言う噂もあります。

仙道路が早く片付くなら伊達氏の前に仙道路軍を会津に侵入させるべきでしょうか?

こうして意気揚々と前進したはずの東征軍なのですが、海道路の進軍は初日で頓挫しました。

南が楢葉郡、北が標葉郡の郡境が岩城氏と相馬氏の境でもあります。

この境に夜ノよのもりと言う森林地帯があります。

ここを先方衆が通過中に奇襲を受け大敗を喫したそうです。

奇襲を掛けたのは伊達、相馬連合軍8千だったそうですがこの奇襲で部垂義元殿、千葉昌胤殿、武田吉信殿が討ち死に、鹿島治幹殿、北条氏綱殿が必死にしんがりを務められて何とか全滅を免れたとか。

行方不明と討ち死に2千以上、負傷者8千以上と言う話に開いた口が塞がりません。

鹿島殿や北条殿の一族郎党もしんがりでかなりやられたとの事。

そして武田吉信殿は後見していた5歳の里見俊宗殿を連れて行っていたとか。。。

当然、彼も殺されて里見家は断絶です。

原因は大将の小田政治殿と道案内を任せていた岩城重隆殿が不仲であった事でしょうか?

大将から疎まれていた故に岩城重隆殿を軽んじる雰囲気が先方衆に有ったようです。

まぁ~それだけでなく、天下も目前と勝ち組に乗った安堵感から敵を舐めていたのでしょうね。

小田政治殿に家臣の真壁宗幹まかべむねもと殿が諫言したそうですが聞き入れられず疎まれた為出奔したとか。

敵方として活躍した武将に佐藤好信さとうよしのぶ殿と言う者が居り、彼は元々岩城重隆殿の家臣だったんだと言う事です。

伊達冬宗殿率いる花嫁略奪軍に岩城氏や結城氏がフルボッコされて多くの所領を失った時に隣国の相馬顕胤殿に仕えたそうです。

そして地の利を良く知る彼が伊達氏の連合軍を上手く伏兵させ会心の奇襲を成功させたそうです。

源義経の家臣として武勇名高い佐藤忠信の末裔を称するだけはありますね。

しかし、この事実を以て小田政治殿は岩城重隆殿に敵方への内通疑惑を掛けて敗北の責任を回避しようと図っていますが明らかに責任逃れでしょう。

公方さまの叔父上なのですからあまり見苦しい事はしないで貰いたいです。

飯富虎昌殿が、


「私にお任せください!」

「直ぐに蹴散らして収拾してきます。」


とアピールしてるけど取りあえず後片付けが先だよ。

背後で騒乱が起きると誰も生きて帰れなくなるから。

先ずは妙姫に帰りが少し遅れますと言う書状を送りました。

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