東征④
1534年(天文3年)9月中旬~10月初旬 摂津国 大坂城 ~ 相模国 小田原城。
綾小路 興俊 17歳
大坂城を出立して2日目。
行きと違う街道を通っているにもかかわらず前方で平伏する武士の姿。
又、千賀地保長殿でした。
供回りの者達は2度目の無礼に以前よりも殺気立っています。
しかし無礼がどうとかよりも気になる事があります。
保長殿に同じ事が出来る者がどのくらい居るか?と問うと伊賀国で千賀地、藤林、百地の3家、近江国甲賀の望月、相模国足柄の風魔、出雲国賀麻の鉢屋などが有名ですが他にも幾つかあると言います。
その言葉が示すのは保長殿の中に私への害意があれば私は今生きていないのは当然として、今回のような移動中に暗殺を可能とする集団がそれなりにいると言う事です。
雇わない選択は有りません。
しかし、何故、私なのでしょうか?
これだけの技量を持っていれば、引く手数多のような気がしますが、、、
そう保長殿に聞くと伊賀国の情勢について教えてくれました。
現在、伊賀の国は3つの勢力に別れています。
伊賀国北部を有する仁木義政殿。
南近江の六角氏の一族ですね。
今回の東征にも伊賀国守護職として参戦してます。
ところが彼は仁木氏本家を継承した訳で無くて自称なんだそうです。
そして伊賀国の中部を有するのが仁木刑部大輔晴政殿。
更に南部は伊勢国司である北畠氏の勢力圏なんだそうです。
で、北の六角、南の北畠に挟まれて風前の灯火の伊賀仁木家の勢力下に有る千賀地家としてはもっと確りした後ろ盾を欲して一族挙げて前公方さまに仕官したんだとか、、、それは前回に聞いたから結果は知ってるけど、なるほど、後ろ盾としては綾小路家はぴったりかも知れないね。
因みに伊賀の上忍三家が一家の藤林家は六角氏に、もう一家の百地家は北畠の後ろ盾を持っているんだとか。
あれ?
上忍三家って藤林と百地と服部じゃなかった?
と聞いたら、服部は千賀地家の古い名字で今は地名の千賀地を名乗っているそうです。
でも、前公方さまに仕えていた時も服部姓だったとか、、、
私に仕えるなら服部姓が良いよね。
服部半三保長。
でも今の所召し抱えるに足る勲功が無い。
実力の一端は見えたけど世間的にこれだと言うモノが無ければ中々召し抱えにくい。
服部君なら私的には大抜擢したいけど、良くも悪くもうちは実力社会なんだよね。
全くの無名で更に無礼な仕官を認めると後が面倒になる。
その為召し抱えで無くて仕奉の関係とします。
仕奉とは貢納の対の関係で、米など物で納める年貢を貢納とすると芸能や匠の技などで税を納めるのを仕奉と言うんです。
つまり家臣でなく領民としてその技能で奉仕しなさいと言う感じですね。
何か良い功績があれば取り立てる事もあるけど今のままでは無理と言う意味ですね。
保長殿はそれでも良いと言うので朱印状を発行します。
危急を告げる時は最優先で私への目通りを許すと言う内容の認可状です。
朱印状とは私が出す命令書で3番目のグレードの文書ですね。
私が出す正式な命令書は奥上署判下文です。
日付の次の行の上部に名前と花押を著判して下文を出しています。
先日の公方さまや土岐の美濃国守護殿らと私の浮気の後始末について取り決めた文書などがそれに当たります。
次いで署名が無い花押のみの文書、、、奥上判下文です。
一部の重臣(吉見隆頼殿殿や飯富虎昌殿、宍戸隆忠殿、神屋主計殿、田代三喜先生)等に出す文書ですね。
3番目が花押すら書かずに朱色の判子(朱印)で済ましている文書、、、朱印状です。
基本直臣に対して出す文書です。
4番目が墨の黒色の判子(黒印)で済ましている文書、、、黒印状です。
直臣以下の陪臣や国人に出したり領国の布告として出す文書。
つまり朱印状を発行すること自体、直臣扱いなんです。
ただしグレードそのものを広く公表はしていないので保長殿にその文書の重みは判らないでしょうけど。
なるべく早く直臣になって欲しいものです。
保長殿は押し戴くように朱印状を貰った後静かに下がっていきました。
それを確認した後騎乗の旅の続きを再開します。
そして9月下旬の中半には美濃国可児郡の明智長山城に辿り着きました。
早速公方さまに帰参のご報告をして戦況の把握を行います。
大坂に向かっている最中の仕置きは全て公方さまにお任せしていたのですが実に公方さまらしい差配をされておられました。
私が大坂に向けて出発した直後、先ず北信濃の従兄弟殿に使者を派遣され降伏を促されました。
まぁ~助命を望んでおられたのは知ってましたので予想はしてましたけどね。
その天の声に飛びついた村上義清殿は高梨政頼殿を伴って降伏されました。
高梨殿は女子供を東北に逃がした後居城で抵抗していたとの事で、村上殿の声掛けに一も二もなく降伏を了承されたとの事。
両家は領国のうち高井郡を高梨家の所領、水内郡を村上家の所領とする事として他を全て召し上げる事となりました。
小笠原貞忠殿は伊那郡の南半分と筑摩郡の北半分、高遠満継殿は伊那郡の北半分、木曾義在殿は筑摩郡の南半分、諏訪頼重殿は諏訪一郡、大井信常殿は佐久郡一郡、海野棟綱殿は小県郡一郡を所領安堵としたそうです。
そして埴科郡を公方さまの直轄地に、安曇郡と更科郡の二郡とを私の領国にとされたそうです。
差配には異存ないのですが真田君は私が欲しいので真田頼昌殿を直臣にして安曇、更科両郡の代官に置きました。
又、公方さまに小笠原貞忠殿を信濃国守護へ、海野棟綱殿を信濃国守護代へ任じて頂きました。
公方さまの直轄領の代官に幕臣の小笠原稙盛殿を置かれました。
稙盛殿は京で幕府に仕える信濃小笠原家の庶流ですが、将軍家の「弓馬師範」を務めており小笠原流と言う武家故実を家業とする家柄です。
その頃関東に攻め込んだ飯富虎昌殿率いる中山征路軍の先方衆3万や松永久秀殿率いる相武支軍1万5千、管領の細川持隆さま率いる東海征路軍6万や陶興昌殿率いる東海征路軍後詰の2万の経路と戦果がどうなのか?と言うと、、、
先ず飯富殿率いる3万は上野国へ侵入したのですが上野国とその周辺を支配していた関東管領の上杉憲政殿は1531年(享禄4年)の関東享禄の内乱で家督を奪ったばかりで家中の纏まりを欠き、内乱の折上、敵方である上杉憲寛殿に付いていた上野国箕輪城の長野業正殿が上野国侵入を手引きしました。
これに山内上杉氏の家中は酷く動揺し未だ12歳に過ぎなかった関東管領の上杉憲政殿は家中をまとめ切れず全く抵抗せず降伏しました。
松永久秀殿率いる相武支軍は、扇谷上杉氏と北条氏の係争地であった毛呂城を落として武蔵国西部を掌握すると扇谷上杉氏の北部拠点である松山城と居城の川越城の連絡線を分断しました。
ここで武田信虎殿の嫡男、勝千代殿が公方さまの元に来られ扇谷上杉氏の寛大な処分を願われたと言う話です。
勝千代殿は扇谷上杉氏の当主、上杉朝興殿の娘御を先年娶られたのですが先ごろ難産の為に妻子共に無くされたのだとか。
これに感心された公方さまが扇谷上杉氏に降伏勧告の使者を出されました。
上杉朝興殿がこれに応じられ所領の半分を安堵されたとの話です。
ここまでは順調な話なのですが、、、対北条戦は困難を極めました。
管領の細川持隆さまを始め総勢8万を超える大軍を以て北条氏と戦った訳ですが北条氏始まりの地である駿河国の興国寺城を奪ったり奪い返したりの戦に終始しています。
原因が伊豆国の韮山城、山中城、相模国の足柄城との繋がりです。
北条氏綱殿は中世になって廃れていた伝馬制度を復活させて情報や輸送の効率化を図っているのですが、この効率と言うのが馬鹿に出来ないようです。
綾小路家も他の諸大名よりは情報や輸送に気を使っていますが、豪商から大量に買い付けとか船団による大規模輸送とかスケールの大きさで勝負してる所があって細かい所は他の大名とそれほど変わりません。
しかし北条家は細かい所に手が届くようで、こちら方の隙を逃さず的確についてくるようです。
業を煮やした細川持隆さまが水軍頭の村上武吉殿に伊豆国、相模国、武蔵国等の北条氏勢力の海城や町や村へ襲撃を命じました。
順調な他の2征路軍と比べて東海征路の進み具合を気にされたのでしょう。
しかし海の上で北条氏と他の房総諸家の船の区別が付く訳もなく相模湾や房総半島全域で小さな海戦が無数に起きる事になりました。
東海征路軍の諸将のほとんどが水軍持ちと言う構成から決して負けてはいないのですが前進は出来ていません。
そんな中で相武支軍が八王子城、次いで津久井城を占領すると北条氏の形勢が悪くなり3年前に氏綱殿の継室を出している婚家の近衛家を頼って和議を申し込んできました。
近衛家と言うのは本当に面倒くさい家に娘さんを嫁がせる家ですね。
継室さんは左大臣である近衛稙家さまの姉君であり歳を30を超えての幸せですと力説されると強く出れないのは公方さまも私も同じで、、、
とは言え、無条件で助命する訳にもいけないので近衛稙家さまには精華家の久我家に足利義冬さまへ源氏長者と奨学院別当を譲渡されるよう仲介の依頼をしました。
室町幕府の成立以来、久我家と足利家が交互で源氏の長者を担ってきましたが戦国時代に入ってからは久我家が源氏の長者を務める事が多くなっていています。
その久我家は当主の権大納言の久我邦通殿が1531年(享禄4年)に嗣子無く没しました。
その為、邦通殿の父君で右大臣の久我通言さまの養子に左大臣、近衛稙家さまの実弟である久我晴通殿が入られました。
そして久我晴通殿は1533年(天文2年)叙爵して元服、侍従に任じられているのです。
今年右近衛少将に任じられたので、来年には右近衛中将を任じられるでしょう。
となると再来年には従三位権中納言として公卿に任じられ源氏の長者の宣下があります。
日本六十六国の過半を征された公方さまが源氏の長者を受けられる事は大いに意味があります。
別に北条氏綱殿の助命をせずとも久我家への源氏の長者の宣下を差し止める事は可能です。
しかし北条氏綱殿の命の代価が源氏の長者ともなれば公方さまや私が年上の女性に弱いと言う詰まらぬ噂は払拭しましょう。
と思っていたのですが、、、
北条氏が降伏した直後から続々と降伏の使者が中山征路軍の下へやってくるようになりました。
その為仕置きが終わるまで3征路軍全ての進軍を停止させる事になりました。
中山征路軍は兎も角、他の征路軍は降伏の使者が到着してるのを知らなかった振りをして攻撃する事件が相次いでいた為です。
中山征路軍に降った国人の中にも虎の威を借って停戦してる国人を不意打ちをした武将が居ましたが服部君が良い仕事をして即座に注進してくれたので襲っている痴れ者の軍勢を後ろから数倍の兵で襲い殲滅した所、そのような不届き者はピタリと居なくなりました。
先ず北条家の所領を伊豆一国のみ安堵とし相模国、武蔵国、駿河国の所領を接収しました。
そして10月初旬に公方さまと共に相模国の小田原城に入りました。
そして、征路軍以外の朝廷に服する意思のある諸侯へ今年中までに小田原参陣を命じました。
使者は鎌倉五山の僧に命じ、参陣を妨害する諸侯が居るかを服部家に監視させました。