冒険譚後編。
1534年(天文3年)9月中旬 摂津国 大坂城。
綾小路 興俊 17歳
帰国の為西に向けて白井膳胤殿がアカプルコ港を出港したのが1533年(天文2年)8月10日だったそうです。
日本から新大陸までの距離を35日程度と見積もっていたそうです。
その為西へ向かって琉球王国や真南蛮(東アジア)に到達する距離を40~50日程度と考えて出港したとの事。
しかし海流の速さが行きと違い体感で最初が3分の1程で西に行くに従い早くなり後半は3分の2くらいだろうとの事でした。
その為中々陸地が見えません。
アカプルコを出でて39日目の9月19日待望の陸地を発見したそうです。
しかしその陸地は南北4町(436m)東西に7町(763m)程の小さな珊瑚礁でした。
高い所でも海面から6尺6寸(2m)程しかありません。
緯度の算出を行ったところアカプルコとの緯度の差は南へ3里11町(約13km)との見積りだそうです。
1,000km以上西進して13kmと言うのはほぼ西に位置する島と言う事ですね。
今後も大きな標識となる島でしょう。
水の補給は出来ませんでしたがサンゴ礁の環に海鳥の糞が積もっていた所が硝石となっていたそうです。
今後サンゴ礁の環などを発見した場合は必ず調べさせるべきですね。
調査を終え翌9月20日抜錨し更に西へ向かったそうです。
そして28日後の10月8日、断崖絶壁で囲まれた上陸困難な島を発見したそうです。
身軽で木登りが得意な水主を選抜し島に上陸させました。
それによって南北に連なる列島である事が判明したそうです。
又、緯度の算出を行ったところ先のサンゴ礁の環との緯度の差は南へ1里14町(約5.5km)とのみつもりだそうです。
この島もアカプルコからほぼ西に位置する為大きな標識となるでしょう。
大体の大きさが東西に23町(2.5km)南北に18町(2.0km)との事です。
南に見える島の方が近いと言う事で調査を終えた10月14日南へ船を進めたそうです。
約1刻強で到達した島は東西に3里、南北に1里と非常に大きい島で真南蛮人に似た風俗の人々が沢山住んで居たそうです。
言葉は通詞が扱えるマレー語と共通点が多くジェスチャーを交えてであれば意思疎通も可能であるとの事でした。
そしてここが呂宋島の東に当たり船で25日程の距離である事が判ったそうです。
現在位置が判ったので呂宋島から琉球王国へ移動し日本へ戻ろうと言う事になり食料と水(沢山のヤシの実)を布や刀剣と交換して補給し10月20日に出航したそうです。
しかし10月23日、大嵐に遭遇し7隻の千石唐船のうち2隻が沈み1隻が行方不明となり2隻が帆柱が折れ、そのうちの1隻は舵も壊れたそうです。
この為舵が壊れた船の積み荷と人員を他の船に移して破棄して2隻で帆柱の折れた1隻を曳航して呂宋島を目指したそうです。
しかし呂宋島の陸影が見えた時、呂宋島の南にあるミンダナオ島のマギンダナオ王国の軍勢に捕まり生き残っていた全ての乗員がシャリーフ・ムハンマド・カブンスワン王の奴隷とされたそうです。
シャリーフ・ムハンマド・カブンスワン王はマラカ王国の元王族でマギンダナオ族の王女と結婚して王位についたそうですが、マレー語が堪能な通詞が状況を説明しても取り合って貰えなかったそうです。
そして乗員たちは奴隷生活を送って居た訳ですが、そのうちの一人が呂宋島とボルネオ島の間に有る長細い島、パラワン島に売られた事で転機が訪れます。
私が琉球王国の今帰仁さんに呂宋島の金の話を聞いた事が発端となって呂宋島の金と石見国の銀を交易するよう命じていたのですが正確には呂宋島のイロコ族が採取して精錬した金をパラワン島で取引していたらしいのです。
そこで白井膳胤殿の派遣船団の元船員が交易に来ていた神屋彦八郎大提督と遭遇し助けを求めました。
話を聞いて激怒した神屋大提督。
南海に有る綾小路家の全商館に初の海上戦争を宣言したそうです。
対象はマギンダナオ族に関わる全て。
そもそもポルトガルが占領しているマラカ奪還の為に生粋の倭寇さんを5千名と現地人の傭兵を3万名ほど集めつつあったのです。
その方々に言った一言。
「お前ら好きにして良いよ。」
もうね、おっしゃー。
って感じじゃ無いですか?
超大国の明国であっても手を焼く倭寇ですよ。
昔の倭寇はチンピラだったかも知れないですけど、綾小路家の倭寇は一味違うんです。
金が無いから襲う海賊じゃなくて、商館がしっかり資金を融資し、技量に応じた船と水主を紹介し、集めた情報から無理のない獲物を紹介するプロフェッショナルのサポーターが付いた倭寇なのです。
そして綾小路家は相手が倭寇の一掃を図ろうとして兵を集めれば赤備え並みの精鋭集団をぶつけて倭寇が健やかに成長できる環境づくりも熱心なのです。
マギンダナオ王国の穀倉地帯コタバト平野には今、串刺しになった案山子以外人っ子一人居ないそうです。
そしてポルトガルが占領していたマラカにも今は案山子しか居ないそうです。
奪回したマラカはジョホール王国にお返しするよう命じていたんですが強く辞退されたそうで、、、
でもシンガポールは快く私にくださったそうですよ。
と言う訳で、過酷な生活を生き延びた方々は転売された方も含めて一人残らず日本に帰って来られらそうです。
マギンダナオ王国のスルタンさん以外は優しいスルタンさんなんですね。
そう言う訳で白井膳胤殿、日本に戻って来られたんですが過酷な生活だったので領地の安芸国仁保嶋城で療養中なんだそうです。
まぁ~結構お歳だし無理も無いですね。
それにしっかり報告はしてくれたんだし問題無いです。
褒美として従五位下縫殿頭を申請しておきましょう。
しかしそうすると後継の特攻隊長が必要です。
どんどん万石唐船でも千石唐船でも火薬や弾薬、刀剣に鉄砲とそれに人だよね?
ヘタレたインディアンでも西洋人に勝てるようにするにはどうすれば良いんだろう?
使える浪人だったら手元に置きたいし、、、
こういう時の下間家だよね。
内政も戦もどちらも出来て忠誠心もMAX。
証如殿に頼んでアカプルコ御坊と布哇御坊でも作って貰おう。
で、話が逸れたけど、特攻隊長、、、
水軍って言えば小早川隆景だけどまだ2歳だしな~
しょうがないから養父君に頑張って貰おう。
未だ養子じゃ無いけど、、、
小早川興景殿も16歳と若いけど既に航路は出来てるし、お荷物と人を運ぶ簡単な仕事だから何とかなるでしょ?
たまに、いや頻回に台風が直撃するけど、、、たぶん。
さて、懸案も終わった事だし公方さまの所に戻ろう。