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冒険譚前編。

箇条書きで物語になって無いので後日書き直す気がします。

1534年(天文3年)9月中旬 摂津国 大坂城。


綾小路 興俊 17歳


白井縫殿助膳胤しらいぬいのすけよしたね殿の冒険譚。

1532年(天文元年)10月4日に摂津国大坂の渡辺津を出航し初日は雑賀に拠って停泊。

翌日、日の岬を廻って紀伊水道を抜けたそうです。

その後紀伊半島に沿って南南東に進み2日目は田辺にて停泊。

更に紀伊半島沿いに熊野灘を東南東を進み潮岬を越えて進路を北東に取ります。

10月6日新宮にて停泊。

2日間の風待ちの後、遠洋航海を実行したそうです。

東に二日半航行して伊豆諸島に到達。

島伝いに北上して伊豆半島を確認後東に進路を戻して伊豆大島の南端を廻って北北東に進路を取って10月13日に安房の館山に停泊。

物資と船具の補給に3日間停泊した後10月16日に新大陸へ向けて出港しました。


千石唐船7隻。

乗員合計315名

うち船員175名

  兵士100名

  医師 12名

  僧侶  6名

 船大工  6名

  商人  3名

 料理人  3名

 細工師  2名

 縫製工  4名

南蛮通詞  4名


乗員315名と840トンの物資を乗せて一路南に黒潮を目指して進みます。

幸先よく初日に潮に乗り東へと進路を変更します。

ところが私が言っていたようには海流が流れて居らず数日後には南東に向かう海流に捕まったそうです。

そして航海から20日後の11月6日、ほぼ南東に続く群島を発見したそうです。

群島は南東に向かうほど大きな島となり船を停泊させる浦も大きくなっているそうです。

人々は漁労と果物などの採集で生活しているそうです。

群島は大きな6つの島と10を超える小さな島々で構成され最も大きな島に2つの国、残りの5つの島にそれぞれ1ずつの国が有るとの事。

現地人の言葉でハワイイと言うのがこの群島の一番大きな島の名前だそうです。

素晴らしいですね一番初めからハワイを当てたようです。

最南東の一番大きな島の一人の王と交渉して染め織物と交換で食料や水を補給したのですが、村人が船から物を盗もうとした為騒動となり11月16日にカパアウ王国と戦争になったとの事。

およそ1,000の兵士を従えるカパアウ王国でしたが、鉄砲や大砲の轟音に耐性が無く弓矢や槍は有っても鉄の武器を持っていなかった為100名の兵士で簡単に制圧したそうです。

ただし弓矢に毒を使用していたらしくこの戦いで7名が死亡しました。

相手側は300以上が死んだそうですが。

葬儀を終えた後、12月20日までにハワイイ島を征服しカパアウに代官1名と僧侶1名、医師1名、兵10名を置いて東に出航したそうです。

その後海流が再び東向きになった為順調に進み、10日進んだ所で海流が南へと変わったそうです。

南へ流されながら更に2日東に進んだ所で予言された新大陸を発見したとの事。

1月2日の事です。

大陸は断崖絶壁が多く優良な浦は少ないらしいです。

布哇伊と違う狩猟採集の民が住んでおり蝦夷の民によく似ているとの事。

魚や貝の他、水鳥や鹿、熊なども狩って生活して居るらしいです。

男達は動物の毛皮や羽毛で出来た羽織を着て女達は鹿皮の前掛けと藺草や木の皮で出来た貫頭衣を着ているとの事。

漁業は藺草で編んだ葦船で行っていると言う話です。

水鳥や魚を商品の朝鮮木綿と交換し水を補給をしながら一路南へ陸伝いに航行したそうです。

大陸の民は北からオローニ族、エセレン族、サリナン族と言う一族だそうです。

およそ250里(1000km)を南に20日間掛けて南下した所で大陸の先端部分に到達したそうです。

そこから東に2日進むと又陸影が見え1月24日に南北に長大な大陸を発見しました。

その為今まで大陸と思っていた陸地は凄く長い細い半島か島であるようです。

新しい大陸を発見し南に向かった翌日の1月25日、3隻の南蛮船を発見しましたが攻撃してきた為反撃し拿捕しました。

この戦いによって船員10名、兵士18名が死亡しました。

敵は2人を除いて68名死亡との事。

交渉しようとした所の奇襲だった為被害が大きくなったそうで、銃撃で反撃した所、敵に戦意が無くなり降伏を希望したそうですが不意打ちをする相手を許すはずもなく情報を得る為の2人以外根切にしたそうです。

新大陸における南蛮人の情報を得た後更に南下を続け、2月8日、港町アカプルコ・デ・フアレスを急襲し

領主のファン・ロドリゲス・デ・ビジャフエルテを討ち取ったそうです。

その後3月10日にバジェ・デ・オアハカ侯爵のエルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロがバスコ・ポルケーヨを使節として派遣し、オアハカ海岸とアカプルコの中間点を国境とする事で和平を結んだそうです。

その頃、疱瘡の治療を医師たちが開始しており奇跡の業として原住民の間で評判となり始めていたそうです。

ところが和平もつかの間、一向宗や法華宗の布教がキリスト教の宣教師を刺激し熱心なカトリック教徒であるバジェ・デ・オアハカ侯爵に戦争を決心させました。

しかし疱瘡を撒き散らす悪魔と仏教僧から名指しされていた南蛮人は、征服者でありながら急速に孤立していて戦争をする前に南蛮人に対する大反乱が起きました。

白井膳胤殿が大量に持ち込んでいた鉄砲や日本刀や火薬を反乱軍に供給した為、鎮圧できずメシコは陥落しヌエバ・エスパーニャ副王領は崩壊しました。

白井膳胤殿は反乱軍と合流し7月にはグアテマラ総督領を攻撃して旧クスカトラン王国領を開放し総督のペドロ・デ・アルバラードを討ち取ったそうです。

同月、反乱軍の別動隊が旧タラスカ王国領を開放し領主のドン・ペドロ・デ・アレリャーノや司令官のヌーニョ・デ・グスマンを殺害したそうです。

更に8月には機織り物に優れていると評判のナワ族が蜂起し領主のロドリーゴ・デ・コントレーラスが殺害されました。

同月、ユカタン半島のマヤ族に増援を送りユカタン半島の征服を進めていたフランシスコ・デ・モンテーホ・イ・アルベレスを殺害しました。

この時点でほぼ目的が達成されていると考え子息の白井房胤しらいふさたね殿を代官に命じて南の新大陸攻略を命じてほとんどの兵と全ての医師、僧侶を残してアカプルコを出航して西の海流に乗り帰国の途についたそうです。









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