東征③戯れ歌(鬼の大内と仏の本願寺)。
1534年(天文3年)8月下旬~9月初旬 美濃国 明智長山城 ~ 摂津国 大坂城。
綾小路 興俊 17歳
美濃国を飛び出して一路東山道を上って近江路を進んでいた所、突然道を阻まれました。
供回りが殺気立っています。
平伏する相手の名を聞くと千賀地保長殿と言うそうです。
少し前まで先代の公方さま、足利義晴さまに一族上げて仕えていたそうです。
しかし天文の錯乱で義晴さまが没落した為止む得ず地元に引き上げていたそうですが、街道を疾走する私の顔に見覚えがあり仕官を願いに参ったとか。
元敵方の私の前に出でて仕官を願うくらいなので胆力は有るのでしょう。
しかし武芸の腕前はどうなのでしょうか?
うちの近習頭の小七郎君と仕合って貰いました。
結果は一閃で勝負あり。
一合持たず保長殿の獲物が宙を飛んでいきました。
小七郎君。
私より一つ下の16歳なので見た目から言うと全く強そうには見えない。
見えないだけで私達の一団の中で最も強い子なんですけどね。
愛洲小七郎宗道君は伊勢愛洲氏の一族の愛洲久忠殿が創始した陰流と言う剣術流派の2代目君です。
陰流と言われても私もピンと来ないけど足利将軍家の正式剣術が陰流と知れば如何に凄いのか判ります。
伊勢愛洲氏は元々海運、交易が家業の家でした。
そして明国や朝鮮国の鎖国主義によって海賊業を家業に追加するようになって転機が訪れます。
その転機の前にその前提のお話を、、、
伊勢愛洲のように倭寇が増えると明国は倭寇対策の為に勘合貿易を日本とするようになりました。
形式は日本が明国を慕い朝貢すると言う感じなので明国は将軍家に朝貢毎に貿易とは別に銀300両を明皇帝と明皇后からと下賜しています。
その日本からの主要な輸出品は「日本刀」。
前世で日本刀と言えば凄く評価が高い武器なので輸出品として名前が挙がっても不思議に思わなかったのですがよくよく考えれば凄く不自然です。
三国志や水滸伝で日本刀を獲物に使った武人が居たでしょうか?
なんと明国は倭寇対策の為に倭寇と同じ【日本刀】を明国の近衛部隊の御林軍に配備したのです。
勘合貿易開始から今までに正式な交易文書の中だけでも十数万振りの日本刀が明国に輸出されました。
交易レートは1453年で一振5貫文。
(当時は応仁の乱の物価暴騰前で1貫文が米5石に相当し大変好条件でした。)
明国の成化帝は禁軍(親衛隊)の静旗隊、粛旗隊に日本刀を装備させる為に幕府に「刀法指南」を要請しました。
その要請に応えて派遣されたのが小七郎君の養父の愛洲久忠殿。
1483年(文明15年)12月に堺を出港し明国へ渡り4か月余り剣術指導を行ったそうです。
そして長門国赤間関を経て堺港に1486年(文明18年)7月4日に帰国しています。
(嘉靖未、少林寺武僧程宗猷が著した「単刀法選」に掲載された「日本刀刀勢」や北京故宮博物館の成化帝の資料、茅元儀の「武備志」に「戚継光が辛西の陣上で倭寇から得た」との記録など陰流の中国流出には色々伝説や資料が散在します。)
仮にも宗主国の親衛隊に武術指導をすると言う事で愛洲久忠殿は公方さまの剣術指南役と言う扱いになりました。
そして帰国後は陰流を創始します。
陰流がバイリンガルな特徴として刀法鍛錬での習熟度を囲碁用語の「初手」「中手」と言う言葉で説明したり、最も重要な「足捌き」を「玉歩」という言葉で説明してる事ですかね?
しかし世の中は無常です。
応仁の乱以後、将軍家や管領家などが内戦で大混乱となり剣術指南をしていれば安泰と言う訳にも行かず、本業の海運業や海賊業は寧波の乱以後の明国の対日姿勢硬化や綾小路家と言う新興の海上貿易勢力の台頭で奮わない状態。
そんな所で小七郎君は現公方さまの足利義冬さまより私への仕官を薦められます。
公方さまと同じ神輿の癖に妙に腰が軽く、あちらにフラフラ、こちらにフラフラと不用心過ぎる義弟が心配で堪らないと、、、
そんな経緯なので私の供回りは公方さまと同じで皆、陰流の使い手なのです。
閑話休題。
あっさり仕合に負けて茫然としている千賀地保長殿の武芸を小七郎君が淡々と評していきます。
武芸は人並みより少し上。
ただし人を見かけで判じて油断する所は大きく減点。
つまり武将として雇うにはあまり魅力のある人では無いと言う事です。
こちらとしても時間が無いのでゆっくり吟味する気もありません。
計数に自信があるなら大坂城はいつでも人材募集中だし能力があれば松永久秀殿のように勝手に出世してくるでしょう。
良い仕合だったと見物料として1貫文与えて先を急ぎます。
そして明知長山城を出て10日で大坂に辿り着きました。
主の突然の帰城に皆大騒ぎです。
出迎えてくれた妙姫や義姉上は私の元気な姿を見てあまり心配して無いですがこれから告げる話を考えると彼女たちの笑顔が重いです。
胃がキリキリ痛みます。
とは言え告げない訳にもいきませんから側の者を遠ざけた後、平伏して御免なさいしながら那那姫と言う側室を作った事を告白します。
政治向きの事は言い訳になるので一切言いません。
ただ側室が出来てしまったと言うその事実だけです。
暫くの沈黙の後、妙姫は大事で無くて良かったと私の心配をしてくださいましたが、当たり前ですが義姉上は甘くなく妊婦に心労となるような事を告げるとはなんという人ですか!流産したらどうするのですか?と烈火の如く叱られました><
妙姫が近頃は悪阻もおさまりご典医様が少しは体を動かしても大丈夫と安定期に入ったと執り成してくれたので何とか事は収まりました。
義姉上さまよりボソッと「他の者の口から聞くよりは東征と言う大事を放り出してまでご自身から告げに来た事は評価します。」と思いっきり上から目線でお許しを頂きました。
しかし、大坂城の大騒ぎが隣の石山本願寺まで伝わり証如上人さまが様子伺いに訪れ一向宗門徒に、
「戦は些事で浮気が大事。
鬼の大内(義姉上さま)に仏の本願寺(妙姫)。
魔王は尻に敷かれてぺっしゃんこ~、ぺっしゃんこ~。」
と言う戯れ歌が流行ったとか流行らないとか。。。。
前世、昭和時代の旦那は亭主関白と言うほど家長の権威が強かったそうです。
しかし平成ともなると草食男児に肉食女子の言葉通り、亭主の地位が没落します。
一度は亭主関白なる地位に上り詰めて見たかった気もしますが今世も不可能のようです。
で、お許しを頂いてもそれでお仕舞と言う訳にはならず、、、
妙姫も本女中さまもお相手の那那姫について興味津々。
那那姫が私より年上と言う話にやはり妻は年上が一番よね~と妙姫が言えば、本女中さまが私は年下だったと暗い顔でブツブツ言っておられます。
しかし略奪婚?のような形にはお二人とも喰いつきが良くて目をキラキラさせています。
源氏物語のようなスマートなドラマじゃなくて勘違いと私の酒の勢いが成した不幸な事故なんですけどね。
妙姫が側室を持つことについて反対をしなかったのは意外ですが、やはり祖父の蓮如上人さまが五人もの奥さんを持ったことが理由なんでしょうか?
綾小路家は急速に大きくなったけどそれを支える子女が全くいません。
元々公家の為武家との繋がりが弱く母方の大内家の人材と妻、妙姫の本願寺の人材を中心に運営しています。
私が生きているうちは問題なくても、死後は後継者が居ても弱体化が避けられないです。
その為妙姫の感情の是非は別にしてお家の為になるべく有為の武家を身内に引き入れる為の側室は必要だと諭されました。
その意味では明智家は微妙です。
美濃国の名族、土岐家の非主流派の庶家なので根っこの繋がりは大きいですが家自体が大きくありません。
家が大きくないので婚家として綾小路家をどうこうは出来ないですが、逆に綾小路家を護っていく家としても力不足です。
譜代の臣を取り立てるには便利ですがそれ以上の働きは出来ないでしょう。
妙姫の本願寺家は特殊な家です。
他にも神主家や寺院を身内に取り入れている大名家は沢山ありますが、一向宗ほど法主に忠実な宗教はあまりありません。
その為あまり沢山の家臣が一向宗門徒となるとお家が乗っ取られる羽目になります。
下間家一族とか計数や武略、外交に強い使い勝手の良い人材が沢山いるんですけどね。
その為、家臣の比率が一向宗門徒に偏らないよう法華宗の寺院を石山本願寺の隣に置いたり、法華宗の商人を積極的に財務畑の人材として登用したりしています。
政治としての婚活もそろそろしないといけないのでしょうか?
お嫁さんがハーレム推奨と言うのは男の夢かも知れませんが、お仕事として側室を置いてくださいと言われると今一燃えないのは私が変なのでしょうか?
さて、側室騒動は取りあえずここで置き、折角、大坂に戻って来たと言う事で内政のお話を居残り組の神屋加計さんや大坂に来ていた寿禎さん達とします。
先ず寿禎さんの報告から。
石見銀山の銀産出量は年1万貫前後で推移してるそうです。
綾小路家の取り分は大内家が天文の錯乱以降、綾小路家からの1割の譲渡を辞退した為3割となっています。
つまり銀3,000貫。
次に生野銀山の銀産出量は年1,500貫前後で推移してるそうです。
こちらでの綾小路家の取り分は5割となっています。
つまり銀750貫。
併せて銀3,750貫となり、銭換算で93,750貫となります。
次に別子銅山なのですが産出量が凄い事になっています。
年間40万貫を超えています。
南蛮絞り又は灰吹き法と呼ばれる精錬法を導入して純銅と金銀に分離する大坂銅吹屋を開設させます。
別子の銅に限らず精錬の甘い日本産の銅は多くの金銀を含んでいるので、領国内の国人が有している貴金属を正当な値で買い取り再精錬を行わせています。
特に但馬国、美作国、備中国、備後国で産出される赤銅と呼ばれる銅は粗銅の中に金が3~4%、銀が1%を含有していてその貴金属も目当てに海外で人気がありました。
南蛮絞りで綾小路家が手にする金銀は金で50万両以上、銀で2,000貫以上と300万石と号される所領の実収入の倍を超えます。
又、現在の銅の需要がほぼ輸出に限定されている事から国内での銅の需要興起する為に近江国坂本に銅座を開設して国産貨幣(銅銭)の準備を始めます。
元々坂本は比叡山のお膝元として私鋳銭の生産拠点でもあったので生産には問題無いでしょう。
日本では食器などの生活道具は陶器や漆器などが中心ですが、朝鮮や明国、東南アジア諸国では真鍮製品が人気です。
その為に粗銅の需要は海外では高いのですが残念ながら日本の真鍮の技術が高く無いのであまりありません。
技術が全く無いと言う訳では無さそうですが仏具などの質の良い真鍮製品は外国産です。
冶金技術の向上は急務ですね。
ここまでは寿禎さんとのお話。
神屋加計さんの話は東南アジアの情勢と貿易についてでした。
マラカ攻略の任についていた神屋孫八郎殿がマラカを攻略しそれが切欠で中南米に派遣していた特攻隊長の白井膳胤殿の消息を掴んだと言う報告でした。