東征①
1534年(天文3年)7月~8月中旬 美濃国 福光 ~ 美濃国 明智長山城。
綾小路 興俊 17歳
飯富兵部少輔虎昌殿を大将として中山征路軍の先鋒が破竹の勢いで信濃国を征服していく。
軍勢が信濃国へ侵入を開始した時点で多くの国人が降伏しました。
飯富殿のお仕事は国人の降伏を受け付け城を開城させ降伏した国人一族や郎党を後方の本軍まで送る事です。
木曽家、小笠原家、高遠家とその傘下の郎党が降ったところで、諏訪、大井、海野の三家が甲斐国の武田家に攻め込まれ慌ててこちらに降ってきました。
ただ信濃村上家と高梨家は敵対する事に決めたようです。
信濃村上家の当主は村上義清殿は公方さまの従兄弟の当たる方で武勇の誉れも高い。
そして、なんと官位が従四位下左近衛少将!
私の官位が正五位下左近衛少将!
本来、近衛職は左右各一名なのですが売官で良く売れるのがカッコいい職と言う事でこういう事もあるのです。
そして私の方が正五位下と位が格下なので一戦もせずに降るのは武士の面目に関わるのだそうです。
一方の高梨家の当主、高梨政頼殿は越後国守護代の長尾為景殿と従兄弟であり、更に長尾為景殿に大叔母が嫁いでいると言う関係と先代の時代に凋落していた高梨家の旧領を長尾家の助力で回復したと言う経緯で長尾家が朝廷に反旗を翻している以上是非もなしと言う感じだそうです。
村上家とは犬猿の仲であり、共同して反旗を翻している訳では無いと言う事らしいです。
村上義清殿と言えば、武田信玄に土を付けた信濃攻略最大の難敵。
信玄の智勇に比すべきもない私としては、慎重に慎重を重ねて対処しなければ信玄の板垣じゃないけれど飯富殿を失ってしまうかも知れません。
断じて失う訳にはいけないので降伏した信濃国の国人諸家を先陣に使う事にしました。
信濃衆だけ村上氏を討ち破れば本領安堵。
村上義清殿を討ち取れば、討ち取った者に銭1万貫。
その者が属する国人領主にも銭1万貫。
私がたかが1国人の首に破格の恩賞を発表した事で、「綾小路殿は村上義清殿が従四位下左近衛少将である事が相当気に喰わないのだ。」と言う見当違いな噂が流れていますがまぁ~甘んじて受けましょう。
まさか信玄が~なんて未来予知をぶちまける訳にもいきませんしね。
ところで私や公方さまがその頃何処にいたかと言うと未だ美濃国福光の守護館に居たのでした。
露払いが済むまでは進軍をお待ちくださいと言う諸将の言を受け入れた訳ですが公方さまや旗本衆は相当つまらなさそうです。
折角の親征なのに何もする事が無いのは確かに詰まらないですよね。
そんな訳で本来は管領の私が差配すべき、信濃国人の仕置きを公方さまにお任せします。
先ず小笠原貞忠殿。
文亀元年(1501年)6月に先々代将軍の足利義稙さまの奉行人奉書と大内義興さまの副状で上洛を求められたのですが上洛せず、今回も上洛して無いので罪が重いとして除封とし済州島預かりにて百貫の知行で召し抱える事になりました。
ただ信濃小笠原家の祖、貞宗の弟、貞長の子孫が京都小笠原氏として軍家弓馬師範を務めているので信濃小笠原家を潰すのは惜しいと思われて信濃小笠原氏のもう一派で府中小笠原氏の当主、小笠原長棟殿は本領の2分の1を安堵としました。
まぁ~先陣の報酬を聞いて烈火の如く村上氏を攻め立ててる筆頭なのでひょっとしたら本領安堵されるかもしれませんね。
次いで木曾義在殿。
木曾義在殿は小笠原家と違って先々代将軍の足利義稙さまの奉行人奉書と大内義興さまの副状で上洛し六角氏討伐に従軍しています。
その忠勤を評価し本領の3分の2を安堵します。
今回の村上征伐に参陣すれば信濃衆だけで成敗できずとも本領安堵としました。
続いて仁科盛国殿。
1480年(文明12年)の穂高合戦で祖父の盛直殿が小笠原氏に敗北して衰勢となるも祖父直盛殿、父盛明殿と2代に渡って第9代将軍足利義尚さま、第10代将軍足利義稙さまに従って従軍している忠勤の家であります。
現在は小笠原氏と諏訪氏の双方に従属してる感じですが今までの忠勤に報いたいと言う公方さまの願いを受けて私の被官として伊予国に転封し、宇摩郡、新居郡の2郡25,670貫を与えます。
領地にして3倍増の加増なので凄い感激されましたが、更にこの土地に別子銅山がありその代官も任されると聞くと感極まって号泣されました。
うちには信用できる譜代の家臣がまだまだ少ないので忠勤が売りの方は幾らでも雇いたいのですよ。
他の諸家、諏訪本家の諏訪頼重殿、その庶流、高遠家の高遠満継殿、大井家の大井信常殿、海野家の海野棟綱殿は所領の2分の1を
安堵、今回の村上征伐に参陣すれば3分の2を、信濃衆だけで成敗できれ本領安堵となります。
もちろん信濃衆を磨り潰す気持ちはありませんので物資などでは優遇しますよ。
戦に使用する兵糧の3分の2は綾小路家が負担します。
銭も1家3万貫を上限に無利子で貸し付けます。
城や砦の一つでも落とせば5千貫、1万貫の報奨を当たり前のように与えます。
(懐は私ですが与えるのは公方さまです。)
敵方の首にも気前よく銭を与え公方さまが激賞します。
特に海野棟綱殿の娘婿の真田頼昌殿の子、真田綱吉殿、真田幸綱殿、矢沢頼綱殿の3兄弟が目覚ましい働きをし要衝の砥石城を落としたそうです。
村上氏の抵抗が思ったより弱いので、吉見隆頼殿殿を大将に綾小路家の石見、安芸、備後の国人勢約1万と信濃衆約5千を北信濃支軍として北信濃攻略を任せます。
この中に毛利元就殿が副将として参加してます。
又その嫡男で毛利冬元(隆元)殿(12歳)や飯富虎昌殿の甥である山県昌景殿(6歳)、宍戸隆家殿(17歳)らも初陣として参加しています。
北信濃への抑えがしっかり出来たのを確認して飯富虎昌殿は近江、美濃衆を併せた約3万の軍勢で上野国に侵攻を開始しました。
又、知らぬ間に綾小路家の内政方で名を上げ、私の右筆と成っていた松永久秀殿と松永長俊頼殿の兄弟を大将、副将とした1万余と武田信虎殿の4千余が相武支軍として北条領へ侵入を開始しています。
その頃他の征路軍がどうであったかと言うと、、、
先ず北陸征路軍ですが長尾為景殿の東越中国に攻め入りました。
ただ参加されてる諸侯が餓狼のような方ばかりです。
島津家は当主の島津貴久殿(21歳)とその次弟、島津忠将殿(15歳)が一族の島津さんを引き連れて参戦。
彼らの弟である4歳のお子ちゃまが最後まで参加を粘っていたと言うから凄いやる気です。
私でも初陣は8歳なんですけどね^^;
尼子家は経久殿が高齢の為、次男の尼子国久殿、三男の塩冶興久殿が参加されています。
尼子国久殿は尼子家の最精鋭である新宮党の党首を務めており、父の経久殿から、「文に疎く政道に誤りがあるかも知れぬが、軍務にかけては鬼神のごとき」と言われるほどの猛将です。
塩冶興久殿は先の天文の錯乱で大内義隆殿に付いて梯子を外されたと言う経緯から副将の義兄上殿と仲が宜しくないですが後がないと言う事郎党共々戦功に飢えています。
朝倉家は朝倉宗滴殿を主将として参加してます。
彼ももう58歳なんですけど生ける武神に衰えは見られないとの事。
彼らを取りまとめる畠山冬堯殿も、大内義隆殿も押しが弱いので歯止めが効きません。
越中や越後の国人が降伏の使者を送って来ても畠山殿の前に辿り着く前に不慮の事故で死んでしまうそうで降伏を認めず文字通り圧し潰していると右田興就殿から泣き言のような書状が来ました。
因みに歳が離れた義弟に当たる大内家の大番頭である陶興房殿も60歳にも拘わらずイケイケに同調されているとかで止められる方が誰もいないようです。
いや、同胞のあんまりな末路に同情した上条定憲殿と宇佐美定満殿が意見したのですが皆さんのひと睨みで沈黙したと書いてありました。
越中での仕置きが降伏も認めず一族郎党女子供まで全て根切の凄惨さと越後国に伝わり、長尾為景殿や高梨政頼殿など越後の国人領主は領国を捨てて佐渡や東北の諸家に逃げ出してるそうです。
それはまぁ~自業自得ですけど領民まで家や土地を捨てて逃げ出してるのは頂けません。
どうにかしなければいけませんね。
東海征路軍は尾三遠駿の4か国が安定しないと先に進めないので足踏み状態です。
ただ水軍は順調に駿河まで航路を開通させ遠江国から信濃国、駿河国から甲斐国への輸送経路を打通させました。
こんな感じで東征が着々と進んでいる為8月初旬には本陣も福光の守護所から前進させる事にしました。
とは言え本陣も2万近くの軍勢です。
信濃国に入ると兵站の負担になる為、土岐氏の一族で東濃の拠点でもある明智長山城に本陣として移動しました。
城主の明智光綱殿に公方さま共々歓待されたのですが、朝、目が覚めたら隣に女の人が居ました。
あれ?
前にもこんな事が有ったような・・・