守山崩れ。
1534年(天文3年)4月中旬~6月末日 山城国 内裏 ~ 美濃国 福光。
綾小路 興俊 17歳
今、内裏の紫宸殿にて公方さまがお主上さまに出師の表を上奏されています。
私は紫宸殿傍の左近桜の近くに控えていますので遠く漏れ聞こえる感じなんですけどね。
「御主上陛下の臣である私、足利義冬が申し上げます。
天下が応仁、文明の乱より乱れて六十有余年。
子が父を討ち弟が兄を討つこの乱世に諸国の衆生皆が疲れ果てています。
そんな中でも陛下の側に侍る人臣が怠慢の気持ちを起こさず、心の籠った志を抱く公卿が朝廷の職分を粛々と務めていますのは偏に御主上さまの威徳を思い慕ってその御恩に報いようと思っているからなのです。
先日、乱れたこの乱世を正し天下静謐の為に天下惣無事の大号令を発しました。
西国の全ての人士、東国の過半の人士がこの号令に従い天朝の威徳に従いました。
しかし東国の一部の賊は令に従わず世を乱しております。
現在天朝の西方は既に治まり東国を全て治める力も充分に備わっております。
今こそ大軍を統率して人心を乱す東国の賊を平定するべきであります。
我ら臣たちは皆でその鈍い才能を尽くして悪者たちを払い除いて天朝を元通りに復興し往時の威勢を戻しましょう。
私めは御主上陛下の御恩を受けて感激をこらえることができません。
今、私めは東国治罰の任を受けて御主上陛下の元を遠く離れるにあたり、私の心意を申し上げることで涙を流し何を言うべきかわからないほどです。
必ずや御主上陛下の御心を安んじるべく東国を治めて参ります。」
要は天下平定の準備が出来たので行ってきます。
と言ってるだけなんだけどね。
そしてお主上さまより東征の勅語が発せられました。
その直後から東征の三征路が発表され所属する軍や負担すべき軍役、参陣場所などが公表されます。
6月末までに北陸征路軍は越中国岩瀬に、中山征路軍は美濃国福光に、東海征路軍は尾張国熱田に集うよう命じられました。
更に集合後の兵糧は綾小路家が負担する事や島津家などの遠国の家には水軍での輸送など参陣の負担軽減も説明されます。
説明が一通り終わると挨拶もそこそこに軍勢を起こす為、諸将は国元へと帰っていきました。
私も一旦大阪に戻り領国の兵が集まってくるのを待ちます。
大坂に辿り着くと乳母の少納言が迎えてくれました。
これで戦で妙姫の側を離れても安心出来ます。
5月初めに承芳君からお手紙が届きました。
今川氏輝殿と舎弟の彦五郎殿が異母弟の玄広恵探殿に殺されたとの事。
寿桂尼殿の側近である遠江国高天神城城主の福島正成殿の娘御が今川氏親殿の側室となっていてその子息が玄広恵探殿らしいです。
福島正成殿は遠江国や甲斐国方面の外交・軍事を担っていた為三河の松平氏や甲斐の武田氏と和平を結ぶ事に強く反対したらしいです。
1521年(大永元年)に今川家と武田家で起きた飯田河原の戦いや上条河原の戦いで武田家家臣の原虎胤殿に多くの一族や家臣を殺されたそうなので仕方が無いですね。
で、反対が昂じて主君殺害に至ったそうです。
しかし話を持ち込んだ承芳君や九英承菊殿が全く災難に遭ってない当たり何か作為を感じますが、、、すかさず九英承菊殿の父方の一族である庵原城の庵原氏や母方の一族である興津横山城の興津氏が玄広恵探殿が籠る花倉館を襲撃して自刃に追い込んだそうです。
ここまでは良いのですが、この今川氏の内訌に目を付けた三河国の松平清康殿が福島正成殿が籠る遠江国の高天神城を攻撃したそうです。
この件に更に反応したのが尾張国の斯波義統殿。
元々斯波氏は尾張国、越前国と共に遠江国守護職の家です。
織田信秀殿に命じて介入しようとされたそうです。
もちろん、私は大慌てです。
東征が始まる前から内輪もめで内部分裂なんて面目丸潰れです。
石山本願寺の証如上人さまを介して三河国の土呂本宗寺の実円殿に松平清康殿の高天神城攻撃を止めさせるよう強く要請しました。
実円殿は門徒で松平家重臣の阿部定吉殿に依頼したそうですが、、、
何がどう拗れたか?
定吉殿の嫡男、阿部正豊殿が松平清康殿を殺害。
阿部正豊殿もその場で殺され三河勢は大混乱となったそうです。
遠江国一宮の森山で殺された為、守山(森山)崩れと言われるこの事件は更なる事件を呼び込みました。
松平清康殿の横死後、嫡男の竹千代殿が9歳で広忠と名乗られ跡を継がれたのですが大叔父の松平信定殿が岡崎の地を横領したそうです。
と、今ここ大坂に松平広忠殿と阿部定吉殿が参られて助勢を願っておられるのです。
阿部定吉殿は当然、守山崩れの真実を知っておられるので、ここで私に拒否権などありません。
東海征路軍の大将である細川管領に事情を説明し、陶興昌殿を大将に尾張、三河、遠江、駿河4ヶ国の治罰先遣軍2万余を派遣しました。
尾張国の斯波義統殿を私戦で天下静謐を破った騒乱の罪で隠居させ、同罪の織田信秀殿ら織田一族の所領を大きく削ります。
ただ斯波義統殿は公方さまの従兄弟でもあるので斯波家を取り潰す訳にもいきません。
承芳君の異母弟で尾張今川家に養子に行っていた今川氏豊殿を岳父の斯波義達殿(義統殿の父)の養子に入り斯波家を継いで貰いました。
名も斯波義豊と名乗って頂きます。
今川氏豊殿は一昨年に織田信秀殿に謀略で那古野城を奪われ面目を失って実家の今川家に帰れず奥さんの縁(斯波義達殿の養母は日野富子さま)を頼って京の都に住んでいました。
そんな訳で、斯波義豊殿は凄く感激してましたよ。
ただ承芳君の弟と言う事で判ると思うけど未だ13歳なんです。
このままだと又信秀さんに城を追われてしまうので、出来の良い下間一族の一人を後見に付けて尾張一向宗を後ろ盾にしておきます。
これで滅多な事では負けないでしょう。
又、生まれたばかりの織田信秀殿の嫡男を質として預かります。
次いで三河国の松平信定殿を騒乱と順逆の罪で攻め滅ぼしました。
三河国の松平家の所領を大きく削った上で松平広忠殿を当主に復帰させました。
織田信秀殿と松平信定殿は従兄弟同士の為、信秀殿を見逃す事は出来なかったのです。
決して史実を知ってるからと「今がチャンス」とばかりに力を削った訳じゃ無いですよ。
更に遠江国に入らせ遠江国の高天神城を攻撃して福島正成殿を降伏させました。
この頃には綾小路軍も大坂に集まったので美濃国へ向けて出発しました。
妙姫との別れが寂しくてイチャイチャして居たらツンツン貞子さまのハリセンが飛んできました。
あれ?何でここにいるの?
義兄上さまは?
何でも妙姫が心配だから付いていてくれるとの事。
妙姫も義姉さまが居て安心と言うからとやかくは言わないけれど良いのかな?
少し不思議な感じがしながらも出発しました。
先ずは京の都で公方さまと合流します。
遠江国から駿河国に陶興昌殿が入ったので、今川家も騒乱の罪で駿河国一国に減封します。
因みに福島正成殿の嫡男、福島親成殿を推挙したいと陶興昌殿が申されたので福島正成殿の罪を減じ隠居とし、次男の福島勝弘殿が跡を継がれる事となりました。
この強硬姿勢が良かったのでしょうか?
揉めたら確実に喧嘩両成敗で両者の責を問う方針が西国に伝わり順調に軍勢が集まっているそうです。
推挙された福島親成殿は陶興昌殿の与力として共に遠江国の代官をして貰う事にしました。
そして6月末日東征軍全軍が集合の地に揃いました。




