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身内の宴。

1534年(天文3年)3月 山城国 綾小路邸。


綾小路 興俊 17歳


気の早い大名は続々と上洛してきています。

3月初めには義兄上の大内義隆さまも本女中さまと一緒に参られました。

土佐の一条房冬殿、豊後の大友義鑑殿、石見の吉見隆頼殿も揃われたので、公方さま主催で内々の宴を開きました。


長兄 吉見隆頼殿 35歳。

従五位下 三河守。

大内家に服属し石見国守護代でしたが、私が石見国の守護職を義兄(義隆)さまから譲り受けたのを機にそのまま綾小路家に所属替えしています。

先代の大内義興さまの長女さまを正室に迎えられており、大内一門の長兄に当たります。

領国は1万8千石程。

と言うと凄く貧乏な大名に見えますが、、、先代から受け継いだ石見銀山3割の利権(領地で30万石相当の収入)や朝鮮との貿易権を持っています。


次兄 大内義隆殿 28歳。

従四位上 大宰大弐、左兵衛権佐。

大内家当主。

今更語らなくても有名人ですね。

領国は78万5千石程。


3兄 大友義鑑殿 33歳。

従四位上 修理大夫。

長らく大内家と対立してきた九州最大の大名です。

天文の錯乱で大内方となり公方さまの執り成しで関係が良好になりました。

領国は85万5千石程。


4兄 細川持隆さま 38歳。

従四位下 右京大夫、阿波守。

戦国きっての苦労人。

細川管領さまとして公方さまをお支えしています。

領国は37万2千石程。


5兄 一条房冬さま 37歳。

土佐一条家の権大納言一条房家さまのご嫡男です。

一条房家さまは一条本家、故関白一条教房さまのご次男さまです。

一条教房さまの死後、教房さまの嫡男さまが既に応仁の乱で死亡されていた為一条本家は土佐に下向されていたご次男の房家さまでなく教房さまのご実弟の冬良さまが継がれています。

綾小路家より遥かに家格の高い公家大名家なので、大内家の一門で唯一故義興さまの娘さまが正室では無く側室に入られています。

でもご正室さまが余りに高貴すぎて誰も文句を言えません。

ご正室の玉姫さまは伏見宮貞敦親王さまの妹さまなのです。

出雲の斎姫様ではありませんよ。(不味かったら削除します)

伏見宮家。

数ある宮家の中で最も特別な宮家です。

前世の記憶から探すなら徳川将軍家の御三家に相当するでしょうか?

もっとも1家しかありませんけどね。

伏見宮家は数ある宮家の中で唯一、永世伏見殿御所(伏見殿)と称することを勅許された家なのです。

どういう事かと言うと世襲で宮家を称する事が出来る家は幾つかありますが、世襲で親王家を称する事が出来る家は伏見宮家のみなのです。

つまり徳川の御三家のように、本家(皇室)が絶えてしまった場合、血の濃さに関係なく皇位を継げる唯一の家なのです。

そんな宮家の中でも特別な家柄なので威勢が良い大内家としても遠慮があるのです。

領国は9万8千石程。


6兄 足利義冬さま 26歳。

従三位 権大納言、右近衛大将。

武家の棟梁、将軍さまです。

現在、足利家としても幕府としても領国や荘園を持っておられません。

内訌が長く続き、特に前将軍の足利義晴さまが京から落ちられた時に幕府の要人や官僚も一緒に付いて行かれた為将軍位に着かれた時、前管領さまの細川冬元さまや三好冬元さま、そして私の援助で公方家や幕府の費えを賄っておられました。

しかし、その後前管領さまは前将軍の足利義晴さまに付かれ、三好元冬さまは横死された為援助は綾小路家が主体で次点が畠山管領家と細川管領家となりました。

現在、綾小路家から贈られる毎年2万5千貫が主な収入(領地で10万石相当の収入)となっています。


末弟 綾小路興俊 17歳。

正五位下 左近衛少将 鎮守府将軍。

領国は号して300万石と言われます。


見て判る通り私が飛び外れて歳が下なのです。

皆さまから見て完全な弟分なのです。

お師さまの遺言を守ろうとすると義兄上方やその奥方さま方の玩具となるしかないのです。

身分で言うなら長兄が一番下ですが、私が一番上と言う訳でもないのです。

私が上なのは精々所領くらいなのです。

そんな訳で、兄上さま方には私が酌をさせて頂き、姉上さま方には琉球王国の砂糖菓子や南蛮国の焼き菓子などを献上させて頂きました。

因みにお酌は最初だけで、その後は私もお菓子の方に群がっていたのは秘密です。

この7兄弟が力を併せれば西国に敵は居ません。

4月に諸侯が上洛し帝の御前に侍るその時、公方さまが上洛せぬ無法者への治罰出師の表を奏上すればすぐに戦準備となりましょう。

宴が終わった後、兄上さま方と担当すべき征路を相談しました。


北陸征路は管領の畠山冬堯殿を大将として以下の諸将が参加予定。


大宰大弐の大内義隆殿

薩摩大隅の島津貴久殿

出雲伯耆の尼子経久殿

但馬の山名祐豊やまなすけとよ殿

因幡の山名誠通やまなのぶみち殿

丹後の一色義幸いっしきよしゆき殿

若狭の武田元光たけだもとみつ殿

越前の朝倉孝景あさくらたかかげ殿

加賀飛騨の右田興就みぎたおきつく殿

水軍衆として北九州水軍を纏める壱岐と北西肥前の松浦興信まつうらおきのぶ殿


東海征路は管領の細川持隆さまを大将として以下の諸将が参加予定。


土佐の一条房冬さま

豊後の大友義鑑殿

日向の伊東祐吉いとうすけよし殿

阿蘇大宮司の阿蘇惟豊あそこれとよ殿

南肥後の相良義滋さがらよししげ殿

南西肥前の松浦親まつうらちかし殿

大宰少弐の少弐資元しょうにすけもと殿

東伊予の河野通直こうのみちなお殿

南伊予の西園寺実充さいおんじさねみつ殿

西伊予の宇都宮清綱うつのみやきよつな殿

志摩南伊勢の北畠晴具きたばたけはるとも

中伊勢の長野稙藤ながのたねふじ殿

伊勢長島願証寺の実恵じつえ殿(蓮淳上人さまの次男)

尾張の斯波義統しばよしむね殿、その陣代の織田信秀殿

三河土呂本宗寺の実円じつえん殿、三河の松平清康殿

水軍衆として瀬戸内水軍を纏める能島村上の村上武吉むらかみたけよし殿


中山征路は公方の足利義冬さまを大将として以下の諸将が参加予定。


鎮守府将軍の綾小路興俊わたし

北丹波の波多野稙通はたのたねみち殿

南丹波の内藤国貞ないとうくにさだ殿

北西近江の朽木晴綱くつきはるつな殿

(天文の錯乱で首を差し出したのは父の朽木稙綱)

北東近江の浅井亮政あざいすけまさ殿

(天文の錯乱で首を差し出したのは岳父の浅井直政)

南近江の六角義賢ろっかくよしかた殿、その陣代の進藤貞治しんどうさだはる殿

(天文の錯乱で六角義実殿が首を差し出した為、綾小路家預かりとなっていた六角義賢殿が六角家を継承)

伊賀の仁木義政にっきよしまさ殿

(六角義実殿の舎弟であるが天文の錯乱に参加せず)

美濃の土岐頼芸ときよりあき殿、その陣代の稲葉良通いなばよしみち殿

甲斐の武田信虎殿


諸大名に科す軍役は所領1万貫に付き400名。

北陸征路軍が57,280名。

東海征路軍が60,510名。

中山征路軍が公方さまの旗本衆1,000名を併せて97,760名。

全軍で215,550名と言う応仁の乱以来、最大の動員を予定します。

東征の規模がハッキリするにつれ、公方さまは感動で震えておられました。

水軍衆を総動員して北は能登輪島湊に、南は伊勢大湊に物資を集積させましょう。

あとは都に諸侯を迎えるばかりです。






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