山科言継さまの助言。
1534年(天文3年)2月 山城国 綾小路邸。
綾小路 興俊 17歳
トントン、カンカンと金槌を叩く音が洛中に響き渡っています。
昨年に諸大名へ上洛を催促してから京の都の都市開発が急ピッチで進んでいます。
当時の京の都は公家などが住む上京と庶民が住む下京に別れていましてそれぞれが堀と塀で囲まれていました。
内裏や室町第はその中間にあります。
内裏の大改修や室町第の大増築、そして上洛大名の滞在する宿舎なども新たに建築しています。
建築だけではありません。
上京の公家も潤っています。
例えば山科言継さま。
山科家は官職として衣服調進(縫製)を司る中務省内蔵寮の長官「内蔵頭」を代々務めていました。
その為装束やその着付けに通じていて、衣紋道の一流、山科流の家元でもあります。
正統派の高倉流が地味で簡素だけど動き易さを重視しいている実用的な特徴であるのに対し、山科流は派手で優美な反面動きにくく解けやすいと言う特徴があります。
つまり、山科流はシーンや着こなす人間を選ぶと言う事です。
それだけに着こなせる人間には注目が集まります。
武家は目立ってなんぼの世界です。
注目を浴びねば折角の功名も出世に結び付きません。
これは言うなれば武家の戦ならぬ上方の戦ですね。
だから当然、上洛を予定する大名や武家から山科家やその傘下の呉服所に山科流の装束の注文や衣紋道を指導する人材の派遣依頼などが舞い込みます。
内蔵頭は朝廷の財政も司っていますので注文や依頼に比例して朝廷への献金も増えます。
もちろん山科家だけではありません。
衣類だけが立派であっても所作が野暮ったければお話になりません。
その為、寺や神社で喝食となって春を鬻ぐしか生きる術がなかった下級の公家や官僚の子女にも確りした職が廻るようになったそうです。
綾小路家の周囲にいる方々は比較的上手く立回っているので大変な思いをしてる方が居ないです。
その為、この変化をあまり身近に感じていませんでした。
しかし先ほど話に出した山科言継さまが私に態々会いに来てお礼を言われてしまいました。
その理由をお聞きしたんですが、、、綾小路家の本家筋にあたる庭田家の女性が代々お主上さまのお世話をする典侍となっていると以前お話ししたと思います。
お主上さまの近くに侍るため自然とお手付きとなり皇子さまを授かっている訳ですが典侍と言うのは本来は役職です。
お主上さまのお傍に侍る女官の役所を内侍司と言います。
長官に尚侍2名。
次官を典侍4名。
判官を掌侍4名。
その下に女孺100名。
と言う感じで本来の制度は成り立っていました。
中宮、皇后と言う正室さまや女御、更衣と言う側室さまを正規の手続きで擁立してお主上さまの奥さんを迎える為のお金が無かったので、お主上さまの時代には典侍や掌侍と言う名目で参内させた女性を奥さんにしていた訳です。
奥さんの職が長官の尚侍で無いのは職に官位が伴なうのですが、その報酬すら皇室が支払えないからです。
そして山科言継さまの生みの母上は女儒だったそうです。
内侍司の一番底辺にある女儒と言う職。
それはお主上さまやその奥さん(典侍さまや掌侍さま)に仕えるお手伝いさんです。
つまり4年ほど前に亡くなられた山科言継さまの父上、山科言綱卿が正室さんとは別に職場でOLさんに手を出して産まれたのが言継さまと言う訳です。
簡単に言えば2号さんの子ですね。
しかし正室さんにお子さまが産生れなかったので山科言継さまは家督を継がれ内蔵頭となられました。
それは良いのですが生れの身分が左右する公家社会だと妾腹の子供では家格に釣り合う嫁の来てがありません。
山科言継さまの場合は名家の葉室頼継殿のご息女を妻にされました。
と、聞けば羽林家の山科家には一つ落ちるけどそこまで問題じゃ無いと思えます。
葉室家は私の義父上の大内義興さまが若い頃までは公方さまの側近を務めておられた家で綾小路家や山科家より家格を大きく上げていた家でした。
はい、過去形です。
1493年(明応2年)に起きた明応の政変と言う公方さまが家臣によって京から追放された事件によって葉室家の先々代の当主さまは処刑され没落しました。
それによって正一位大宰権帥まで上がっていた極官が先代では従三位参議止まりです。
その先代さまが言継さまのお嫁さんのお父さん。
と言う訳で、僅か3歳で家督を継がれた義弟の葉室頼房君は現在、従五位下で6歳の公達ですが職は有りません。
滅んだ公方さまの側近と言うのが家業だった為、没落後は次々荘園を横領されて収入の当てもありません。
そんな訳で山科言継さまの身分を奥さんが補完し、山科言継殿は山科家だけで無く葉室家も養うと言う感じで結婚に至った訳です。
本業の縫製だけでなく薬屋や医師、和歌や蹴鞠の指導まで何でもやって家族を喰わせようと言う行動力は宮中でも評判です。
そんな苦労をされている山科言継さまだからこそ、世の中の風向きが変わりつつある事が判るのでしょうね。
そんな山科言継さまから献金の要請を受けました。
え?って感じです。
以前にも述べたんですが山科言継さまが献金を求める相手は公家ではありません。
別に嫌では無いのですが不思議に思って何の献金かお聞きした所、お主上さまに中宮さまをプレゼントしたいのだと仰られました。
即ち、お主上さまが奥さんをあるべき身分、待遇でお迎えする事が出来るように皇室と朝廷の財政が成り立つよう大規模な財源の寄進を求められたのでした。
先帝さまの母上さまが庭田家の方であり、先帝さまも庭田家の典侍さまを娶られていました。
そして先帝さまと庭田家の典侍さまから第3皇子さまが生まれておられます。
今のお主上さまは勧修寺家の典侍さまから生まれた第2皇子さまです。
その為、庭田家や中川家からこの話を持ち出すと政治的に微妙な問題が起きます。
特にお主上さまの第1皇子さま、第2皇子さまの母上さまは万里小路家の方です。
つんつん貞子さまのお父上、万里小路惟房さまは皇子さま方の従兄弟にあたられます。
お主上さまが践祚(即位)される前に亡くなられているので皇后さまの地位は追贈となりますけど、次代の中宮さまをどなたから迎えられるのか?大揉めに揉めますよね?
身分で言えば摂家ですけど、どこの家も皇室が貧乏なので100年以上お嫁さん差し出して無いんですよね。
なので単に財源を寄進しても、先ず、どこの家から中宮を出すかで揉めますよね。
綾小路家の威勢が強いので私に娘が出来たらその子が摂家の猶子となって入内と言う可能性は、、、絶対ありません。
第一皇子の方仁親王さまって私の一つ上の18歳なんですよね。
いつまで待たせるの?と言う話です。
となると、私に近しい家から摂家の猶子となって入内なんでしょうかね?
山科言継さまからすれば純粋な勤皇からの要請なんですけど、それでも宮中で根回しせずに私に直接話を持ってきた理由は色々な問題が私に降りかかってくるからでしょう。
要請と言うよりどのように皇室や宮中と関わっていくのか?
そのグローバルビジョンを今のうちに用意してくださいと言う助言なんでしょうね。
この件は内々にはお主上さまにも相談しなければいけないけれど、庭田家や中川家、三条西家など私を支えて下さった家であればある程頼っていけない問題です。
山科言継さまはその仲介をしてくださると言う事なのでしょう。
武家の戦だけでなく正しく上方の戦が私を待っているようです。