天下惣無事の大号令。
何とか今日中に間に合いました。
1533年(天文2年)11月 摂津国 大坂城 ~ 山城国 綾小路邸。
綾小路 興俊 16歳
飯富兵部少輔虎昌。
綾小路家きっての猛将です。
武芸もさることながら私の狂信者です。
私の言葉をお経か何かと勘違いしていてそこに隠された真意を読み解き他の方々に伝導しようと考えてる少し危ない人です。
私への忠誠心は文句ないのですけどね。
そんな彼が山城と近江の国境の三城を増築城する時に、私の「殺し間」と言う漫画から聞きかじった何気ない言葉を捉えて十字砲火と言う考え方、効率よく人を殺すと言う戦術思想を軍学と言う高尚な代物まで昇華したのは、偏に私への盲信からでした。
それまでの兵法者は「効率よく首を取る」「効率よく勝利を掴む」とは考えても、効率よく殺すとは考えません。
日本の戦は首を取ってこその名誉、武勲でありますので殺して打ち捨てと言うのは特殊な状況で無いと将兵が納得しないのです。
そんな訳で今回の防衛戦は私の何気ない言葉を翻訳し噛み砕き吸収した彼の信仰の試練の場となりました。
彼に従うはこれまた彼に洗脳された魔王教の信者さん達。
三城の目玉は虎口と横矢。
虎口と言うのは正門である大手門を潜り抜けてもそこをぐるっと囲む城壁の事です。
虎の口のように待ってましたと言う感じで敵を袋叩きにする施設です。
横矢とは大手門などのような入り口が絞られた処で射撃施設を横に張り出し文字通り敵に横矢を受けさせる施設です。
彼らは山崎の合戦で効果が証明された3人一組で行う分担射撃法を虎口に作られた横矢で実践した訳です。
火縄銃の射程は狙って当たるのは50m、当たりさえすれば鎧を貫いて死傷する距離は100m、弾自体の最大飛距離は700mだそうです。
それを基準にお城の虎口は当時の常識外の縦横100mの非常に大規模な施設です。
畳2枚、1坪(3.3平方m)に兵一人が居る感じなら3千もの兵が収容できます。
その殺し間に前面と左右の銃眼から1面250丁の火縄銃が一斉に火を噴きます。
一人の打ち手が3人一組なので3丁の銃を有していて1面750丁、一つの城で2,250丁の火縄銃を備えた虎口に突っ込んでいった敵方の皆さんには同情を禁じえません。
もちろん相手方も火縄銃対策に大盾や竹束の盾で押し出して来ましたが全面を護る訳では無いですからね。
銃弾は面白いように敵兵に当たりバタバタと倒したと言います。
大手門が簡単に開いた事により容易く落ちると勘違いして誘い込まれた兵士達が悉く撃ち倒され、その異常が本陣に伝わった頃には戦は終わっていたそうです。
先陣を切って一番乗りを果たそうと言う武士は勇者です。
それに負けじとばかりに続く武士も勇者でしょう。
そしてそんな彼らが誰も帰って来なかったとしたら、、、
大手門を潜った人間が誰も戻らない。
攻め込んだ敵方が壊滅した後、大手門を閉じた後に死者も負傷者もすべて首を落としたそうです。
そして改めて城門を開きその首を槍に刺して上に掲げ敵の方へ行進しただけで敵方は恐怖に駆られて潰走したそうです。
その後、飯富殿たちは城を護っていたそうです。
しかし西国に向けた私の檄がこちらまで伝わり、私がこちらに向かっている情報が伝わると敵方は雪崩を打って降伏したとか。
飯富殿としては私の見せ場を残す為に敵方の降伏を認めず現状維持を狙ったようで一律当主の首を要求したそうです。
あくまで相手が飲めない条件として突きつけたと釈明しておられました。
ところが実際はこのように皆さん当主の首を持参して和議を請うている訳でして、、、
そして強圧的な要求をすんなりと飲ましてしまう綾小路家に震え上がった公方さま、両管領さま、諸大名の皆さま方が質を出して慈悲を乞うている状況だとか。
取りあえず公方さまと私は義兄弟の間柄なので不遜な事は全く考えていない旨をお伝えし両管領さまにも公方さまを良くお支えする事だけをお願しました。
その上で公方さまに1つの御判御教書をおねだりを致しました。
後の世でたぶんこう言われると思います。
「天下惣無事の大号令」と。
1つ 天朝(朝廷)さま、公方さまが命じられた戦以外は一切の戦闘を止める事。
1つ 天朝さま、公方さまに従う者は理由の如何を問わず速やかに上洛する事。
ただし治罰を命じられている場合はそれを優先す。
討伐後速やかに上洛し報告する事。
1つ 上洛後に公方さまより所領のご沙汰があるのでそれに従う事。
1つ 上洛後に公方さまより改めて守護職等の職に関してのご沙汰があるので現在の職は無効となる。
たった4ヶ条の簡単な命令書です。
これをいくつか作成して頂き、これを持って京周辺から順番に巡って貰いましょう。
相手からの返事は要りません。
従わなければ順番に潰す。
それだけです。
因みに前将軍の足利義晴さまと細川冬元さまは桑実寺で軟禁中とか。
今回は逃げる事が出来ず心が折られた敵方に捕まってしまったそうです。
しかし足利義晴さまと細川冬元さまの扱いは私で無くて公方さまのお仕事です。
と言う訳で公方さまや両管領さまにお聞きしたら、公方さまは義晴さまと兄弟なので助命を希望され、細川管領さまも細川冬元さまを阿波に匿いお育てした方なので助命を希望され、畠山さまはお二方と違い血縁は遠いので意見は無いと言われました。
その為お二人は剃髪されて石山本願寺預かりと決まりかけたんですが問題はこれで済みませんでした。
私の討ち死にの噂が京の都に出回った時上手く立ち回ろうとされた方がいらっしゃいました。
准三宮の近衛尚通さま、関白左大臣の近衛稙家さまの親子です。
討ち死にの報をいち早く足利義晴さまに流され近衛尚通さまは娘さま、御年20歳と足利義晴さまとのご婚儀の約束までされたとか。
内密だったら良かったんですが内密だったら足利義晴さまが公方に復帰しても宮中で優位に立てないと考えられたんでしょうね。
公表してしまわれた訳です。
当然、足利義晴さまが城の一つも抜けなかった為に窮地に陥った訳です。
しかしお可哀そうなのは娘さまです。
二十歳と言うのはこの時代では行き遅れギリギリです。
口が悪い奴ならハッキリ行き遅れと言うでしょう。
そんな彼女がやっと掴んだ幸せが魔王にぶち壊されました。
このままでは尼になるしか道が無いと切羽詰まったんでしょう。
近衛稙家さまより側室にとお話がありました。
はい?
無理無理。
妙姫に家に入れてもらえなくなります。
だいたい正妻より側室の方が身分が高いって、おまけにお歳も、、、
今回の責任を取って近衛尚通さまは出家されるそうです。
近衛稙家さまも関白を降りられるとか。
しかし娘(妹)には罪が無いから引き取って欲しいと。
無理です。
そんな事になるくらいなら足利義晴さまは出家されずに公方さまの分家として存続された方がマシです。
夫婦円満は国の火元より優先事項です。
と私が言い出したら、すかさず私の烏帽子親でいらっしゃる三条実香さまが来られうちの娘婿も助けてくれないかと、、、
娘婿、、、細川冬元さまですね。
私はファザコンが拗れていますので、お爺ちゃんにも逆らえません。
と言う訳で公方さま、管領さま方ともう一度話し合い、足利義晴さまは近衛家のお嬢さまと結婚される事を条件に公方さまから年5千貫の生活費で分家を立てられる事。
細川冬元さまも年3千貫で公方さまの近侍を務められる事。
良かったですね。
公方さまも細川管領さまもお人好しで。
常識人の畠山さまは納得されていないようでしたが所詮は他家の問題と異議は唱えられないようでした。
「天下惣無事の大号令」で天下を纏めようと機運が生まれつつあるので、殺伐とした今までの過酷な仕置きより緩く従いやすい仕置きの前例としましょう。
従う者には優しく従わぬ者には厳しく。
そんな事でグダグダ仕置きに終わった訳ですがその流れで当主の首を差し出した近江三家もこれ以上の責は問わぬと言う方針で今までの経済封鎖は取りやめ東国の商人も京への入国を許す事にしました。
まぁ~これから琉球の産物をどしどし私のギルドが東国へ持ち込みますからね。
それに都の物流も西国があらかた握ったようですし問題無いでしょう。
これから東国征伐の道案内もお願いしたいですし飴も無いといけないですよね。
と、何となく方針が決まった所で三条実香さまと世間話をしたのですが、、、
そこでお師匠さまの死を知りました。
私が琉球でのほほんとしていた頃に亡くなったそうです。
直ぐに墓参りをしなければいけません。
色々あったので修行も途中です。
先ずは兄弟子さまと連絡を取らなければ。
いや、先ず落ち着かなくては。
でも時間が有りません。
東国の動向が判る前にやらなければいけません。
その後は墓参りにも行けないですからね。