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聖地巡礼。

1524年(大永4年)摂津国 難波大社 ~ 摂津国 兵庫津。(11日目)


綾小路 有興 7歳。


今、大坂の渡辺津に居ます。

これから海を行くので、小さな川船で無く、大きな廻船、、、二形船ふたなりぶねに乗りました。


二形船とは、当時の商船の一つで、船首先端の水を切る一本水押いっぽんみおしを備えた下部がボート状、上部の構造物が箱状の上下が二つの形と言う意味の船です。

利点としては、船首が鋭角なので水抵抗が少なく高速が出せます。

高波の多い外海でも安全性が高いです。

欠点は、平底で無い事。

同時期の商船である伊勢船と比べ、積み荷の積載量が劣ります。

因みに、伊勢船は、船首が箱状の平底船。

荷の積載量は、非常に優れているけど、鈍足、方向転換も鈍い、海流などに逆らえないなど、二形船と真逆の船ですね。

戦国期の小早、関船、安宅船、そして遣明船も、二形船や伊勢船で、用途や大きさによって、細部仕様が変わり名前も変わります。



等など、和船のトリビアを楽しそうに話してくださるのは、堺の豪商、天王寺屋のご子息さん。

ご当主のお父さんは、堺、会合衆のお一人で、茶道を珠光庵じゅこうあん先生に、連歌をお師匠さまの兄弟子さまに習ったと言う、堺当代一の文化人。

この旅の原因となった寧波にんぽーの乱に際しても、管領の細川さまの遣明使節に、堺商人として、船を出していたと言う事で、若き惣領あととりさんのこの方が、浦仕舞うらじまいと呼ばれる海難事故調査の一環として、周防国の大内館と、筑前の博多まで赴くとの事。

二十歳を過ぎたばかりの文字通り、若旦那って感じの方だけど、そんな大仕事に代表として行くなんて遣り手なんですね。

天王寺屋さんも豪商なので、周防の大内氏にも、九州の博多商人にも、伝手は幾らでもあるはずだけど、非公式とは言え、


『朝廷の意を汲んでの下向する一行』


即ち、僕達と一緒に行けば、敵地での軋轢も少なかろうと。

お互いウイン・ウインの関係と言う流れで、お師匠さまや僕らを、快速船の天王寺丸に便乗させてくださる事に。

連歌会に時間を掛けていたのでなく、ホントは、この調整に時間を掛けていたのかもね。

連歌師と言うと、僕の家の家業と同じく、雅な文化の伝道師、悪く言えば家庭教師だと思ってたけど、、、

こう言うお師匠さまの人脈の広さ、繋がりを間近で見ると、外交官が本業なのかな?

と思いました。


天王寺丸。

船足は本当に速いです。

川を下った時の5割増しくらいで進んでいるのではないでしょうか?

天王寺屋の若旦那さんに聞くと、他の船より早いので、今日の目的地は、10里先の兵庫湊だと言われました。

海図を見せて頂いたんですが、玩具のような絵地図に、津やお城、町や、目印になる山と川と岬や島が書いてあるだけの凄く簡易な地図でした。

大坂、尼崎、西宮、花隈、兵庫、明石と津の名前が続いています。

鈍行電車ならぬ伊勢船だと、隣の駅か次の駅が一日の限界ですが、この船だと、特急なので、4つ先の港まで行けてしまうのでしょう。

そういえば、船旅と言うと、船酔いイベントが定番なのですが、何故か誰も船酔いになりませんでした。

お師匠さま方の視線を見ると、僕にその役割を期待していたような気もしますが、、、

前世で、客船に乗って優雅なクルージングの筈が、台風に直撃突進し、2万トンに届くような巨大な船が、夜中じゅう、波の上をダイブして、船が腹打ちする悪夢の経験を思えば、こんなので酔う訳が有りません。

今生の旅行計画と言うモノは、お天気に合わせて延長できるので、長閑のどかなものです。


兵庫津、、、

古くは大輪田泊おおわだのとまりと呼ばれ、この山の手に平家物語で有名な福原京が築かれ、日宋貿易の中心地となった。

前世、神戸に遊びに行った時に、前世の兵庫津、即ち神戸港も見学したんですが、阪神淡路大震災の記録として、震災当時の被害のまま、一部を公園として残してたんですよね。

天災の凄さにびっくりしました。

もちろん、神戸港自体、凄かったですよ。

その世界有数の国際貿易港の今世の姿も、随分、賑やかな明るい感じです。

現在、この地は、細川右馬頭ほそかわうまのかみさまが治めておられます。

右馬頭さまは、管領の細川さまの従兄弟に当たり、大変、仲が良いらしいです。

えっと、違うわ。

この方の右馬頭の中国名を典厩てんきゅうと言い、この方の家を典厩家と呼んでいるので、僕もこの方を細川典厩さまとお呼びします。

この方が何故?

管領の細川さまと仲が良いかと言うと、元々、典厩家の当主さんは、管領の細川さまの政敵だったのですが、僕が生まれる少し前、管領さまと戦をして殺されてしまったのです。

当主不在となった典厩家を乗っ取る形で、養子に来たのが、今の典厩さまで、この方は元々、野州細川家と言う備中と伊予に小さな所領を持つ、細川家でも海賊系の家の分家さんなのです。

大河ドラマの毛利元就で言う所の、小早川家みたいな感じですね。

で、、、野州細川家自体、管領さまの京兆細川家の分家なので、、、


『買収して席の空いたライバル会社の社長のイスに、本社の社長が、孫請け会社の子息を強引に据えた。』


そんな感じです。

社長の管領さま的には、


『従兄弟なんだから、孫請けなんかやらず、もっと俺の役に立て!!』


って感じなのでしょうね?

海に強い孫請け会社の出なだけに、畿内有数の良港を任せる理由は、血縁でなく、適材適所の考えかも知れませんけどね。

この典厩さんの弟さんも、和泉下守護家と言う、和泉国の南半分を支配する細川家に、同じような理由で養子に行ってましたが、昨年、大病を患って、もう長くないそうです。

細川九郎さまと言う遠縁の方が、和泉下守護家に入ったと、昨日の打ち揚げ会で、どなたかが仰ってました。

やはり、堺が、大坂のある摂津国と、南の和泉国、東の河内国の境って意味だし、和泉国なんて言うと、目と鼻の先なので、凄く気になるのでしょうね。


兵庫の名物は、玉筋魚いかなごと呼ばれる魚。

宿に入ると、女将が力説してくださいました。

一番美味しいのは、今頃の小さな、網から上げたばかりの活き踊っているのを、塩茹でにして二杯酢で食べるのだとか?

二番目が、塩茹でのモノを胡瓜揉きうりもみと和へて二杯酢で食べるそうで、ご飯のおかずとしてなら茹でたモノか生きたモノを焼きながら、醬油を付けて食べるんだとか?

つまり、、、一番、二番は、お酒の肴って事だよね。

情熱は感じたけど、男前すぎます。

でも、醤油ってあるんだ?

内政チートだと醤油とか味噌とか定番だけど、歴史ものでも醤油ってチートに有ったような?

よく聞くと、畿内では、高価だけど出回り始めているらしい。

魚醤の方が、安いので人気だとか。

玉筋魚でも、魚醤を作ってるらしいけど、摂津や播磨が醤油に力入れているらしいので、欲しければ四国に行きなさいと言われました。


1524年(大永4年)摂津国 兵庫津 ~ 播磨国 高砂泊。(12日目)


綾小路 有興 7歳。


朝、出発の為に、波止場に向かう。

海中に経が島と言う、波止なみどめの人工島が見える。

平安末期、平清盛が、港湾整備の一環として始め、平家滅亡後に完成したと言う。

船から見えるのは、木製のクレーン。

おぉ~荷物がするすると引き上げられている。

水主かこさんに、あれの名前を聞いてみる。


「凄いね~。

便利だね~。

あれ、何て言う名前なの?」


轆轤ろくろ


「WHAT!!」


「何?」


「あぁ~、ご免。

もう一度、何って?」


「だから、ろ・く・ろ!!

桁に滑車を付けて荷揚げしてるだろ?

滑車の事を轆轤って言うの。

だからこれもろくろって名前!!」


あとでお師匠さんに聞いたら、井戸で滑車を付けて水を汲み上げる機械もろくろと言うらしい。

全然知らなかったよ。

残念ながら、井戸水を汲んだ経験ないので。。。

轆轤って言えば、壺とか花瓶を粘土で作るときの旋盤の事かと思ってた。

一つ勉強になりました。


その後、船は出発して、西へ向かう。

暫く進むと、南から島影が段々と大きくなる。

そして遂には、僕らの行く手を塞ぐ勢いで島影が膨らむ。

船頭さんが、大声で、明石!!と怒鳴っている。

何でも、ここ明石海峡は、潮の流れが凄く早く、気を抜くと、他の船とぶつかってしまうんだとか。。。

凄い大きなむしろが、風をいっぱいに受けて、ぶわっと膨らんでいる。

帆柱がギイギイとすごい音を立てている。

それを見ていて、折れるんじゃないかと凄く心配です。

梶取かじとりが、舵塚かじづかをゆっくり切る。

前を見ても判らないけど、後ろを見ると、ゆっくり西北西に、岬を回っているのが判る。

昔やっていた、大航海時代を思い出します。

課金しすぎて、嫁さんに叱られ、大後悔時代となりましたが。

前世で、あっさり死んでしまったけど、嫁さん、うまくやってるかな。。。

なんか、海の波を見ていたらセンチメンタルになってしまいました。

気分転換に、お師匠さまと、お話しする。


「お師さま、天王寺屋の若旦那のお父さんの師匠さまと言う、お師さまの兄弟子さまはどんな方なのですか?」


柴屋軒しばやけん兄かぁ~。

あの方は、一休禅師が亡くなった後、亡くなられた酬恩庵しゅうおんあんで、暫く、過ごされていたよ。

あの人、一休さまに凄く傾倒してたからな~。

でも、一休さまの最後の言葉が、『死にとうない。』だろ~。

一休さま、臨済の人のくせに、若い頃から、男色、飲酒、肉食、女犯、何でもしてたし、友人の本願寺門主、蓮如さまの留守中に居室に上がり込んで、蓮如さまの阿弥陀如来像を枕に昼寝したってご仁だからな~。

それでも悟りがひらけた功徳の高いお坊さんだから、最後の言葉にも深い意味があるはずだって、兄いは、連歌そっちのけで、修行してたよ。

それで私が、こんな鄙びた庵に籠る事に意味があるのか?って聞いたら、、、


『 武士もののふの 矢橋やばせの舟は 早くとも 急がば廻れ 瀬田の長橋 』


って歌われてな~。

つまり、人生、回り道と思っても、実はそれが一番の近道なんだ!!

って諭されたのさ。

一昨年、伊勢神宮で連歌会をされたけどね。

あの人、今川の外交僧だから、たぶん、今は駿河国に居るとおもうなぁ~。」


・・・・・・

お師匠さまの兄弟子さまは、兎も角、一休さんのイメージが、アニメと乖離してるんだが、、、

ひょっとして、ここ、並行宇宙か?


僕のぷちパニックも関係なしに、船は湊に向かって、直走ひたはしる。

夕暮れも近くなり、松ばやしの多い湊町に到着しました。

高砂泊たかさごとまり

古くから、高砂の名は、松や待つの枕詞として親しまれてきました。

室町時代に入り、能が生まれて、相生あいおいの松の伝説を歌った高砂は、前世でも結婚式の披露宴で、伯父さんとかが良く歌うよね。


「おまえ百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで~。」


って、

でも、お師匠さまや、兄弟子さん達(僕も含む)には、高砂泊は少し違う。

ここは、和歌の聖地なんです。

そして、和歌の子供が連歌なので、連歌にとっても聖地なんです。

前世では、和歌と言えば、、、

万葉集>古今集=その他の歌集。

って感じなんだけど。

今世では、、、

古今集>>>>>>>>>>>>>その他の勅撰歌集>>>>>>>>>>万葉集。

って言うくらい格式が違うんだよね。

古今集は、初めての勅撰集なので、以後の勅撰集は、これを基準にしているって事と、和歌を学ぶとき、古今集をお手本に、皆さん学ぶんだよ。

なので、連歌を学ぶ人も、古今集をまず学ぶ訳。

で、なんで、ここが古今集の聖地かって言うと、古今集の序文に出てくるからなんだ。


そういえば、聖地と言えば、前世でも、映画『your name.』の聖地、飛騨古川の図書館の人が、


『飛騨地方には映画館が無いんです。』


と呟いて、

それに応えて


『聖地に上映会を!!』


って呟きが全国に拡散して、上映会が開かれたのは良い思い出だった。

そんな感じで、今世の人にも、聖地の思い入れが深いんだよね。

うん、でも大丈夫。

僕が、お師匠さん達を、スマホで、パシャッパシャしないか見張ってるから!!


「って、こら、お師さま。

松を切っちゃいけません!!」


夕餉の時間となり、、、

ここ、高砂の名産は塩。

天王寺屋の若旦那は、先ほどまで、結構な量を船に積み込んでいたみたいだけど。

お師匠さま方も、塩を肴に、お酒が旨いと言ってますけど。

でも、僕には。。。

うん、良いです。

次に期待しましょう!!





















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