参考 筆者の妄想。
小説には直接関係しません。
以下に書いているのは筆者の物価に関する考え方です。
なので、興味のない方は読み飛ばし推奨。
この小説は思い付きで書き始めています。
その為一切書き溜めなく有っても翌日分を少し書いている程度なので次話投下時間もまちまちです。
そしてネタ探しや資料探しをその場その場で行っているので知恵が付くにしたがって考え方も書き始め当初と変わってきたりします。
最近では黒歴史を読む感じで最初の頃の話を読み返すのが怖いです。
その為もしこの物語を改訂する機会があるなら物語の初めになればなるほど大きく変わると思います。
なので戦国時代と言う世界観を構成する要素の一つである物価について現時点での筆者の妄想をここに述べておきます。
どちらかと言うと後で筆者が読み直すときの覚書みたいなもので投稿する必要も無いものですね。
参考程度に読んでください。
戦国時代と言うのは応仁の乱から始まりました。
下剋上が行われるまでは室町時代とかと言う歴史的な観点でなく僕が物価の観点から位置付ける勝手な思い込みなのであまり深くは追及しないでください。
応仁の乱では首都の京都で10万とか20万とか言われる大軍を地方からそれぞれの陣営が送り込み京の町を世界有数の物資消費地としました。
それが何年もの長期に渡った為、日本全国で物価暴騰と流通機構の促進、商業都市の大発展を招いたと僕は妄想しています。
そして首都での長期騒乱によって地方の統制が緩み戦争が地方へ波及していきました。
地方でも戦争が起きると更なる物価高騰が日本全国で起きたと考えます。
戦争=大量消費が間違ってなければそうなりますよね。
この物価暴騰は相対的に人件費を押し下げ玄米一升が合戦時の雑兵の日当とか、小物の平時の日当が玄米5合とか言う飯が喰えればOKみたいな無茶ぶり人件費となったんだと思います。
しかし織豊政権が生まれ強力な勢力が安定した領国経営を行う事で日本全国で見た場合戦争の絶対量が減少していきます。
戦争が減ると言う事は大量消費も減ると言う事で天下統一が進むにしたがって最初は徐々にそしてだんだんと速度を上げて物価が急降下しました。
モノ余りによるデフレですよね?
品物を運ぶには背負ったり荷駄や馬で運ぶより船で運ぶ方が早くて且つ大量に運べます。
その為諸国を横断する瀬戸内海と言う大航路を有していた西国は物価上昇の戦国時代で真っ先に繫栄し、戦国時代の終わりに真っ先に混乱しました。
デフレで米の値段がどんどん下がっていくと知行を貫高で支給する事が陳腐化してしまいます。
農民に銭で支払わせる場合はとんでもなく重税になりますし、米で税を受け取ると知行の貫目と物価に合わせた実際の収入が乖離してしまうので当たり前ですね。
その為西国から段々と現物納税現物支給の石高制が普及していったんだと思います。
太閤秀吉の太閤検地は石高制の普及と諸侯の実力(収入)を判りやすくする見える化が主目的だったと妄想します。
しかし石高制の普及は物価のデフレ現象を更に加速させたと考えます。
何故ならお米は銭より重いし結局のところ物々交換です。
そして古米、古古米と言うように備蓄すると価値がどんどん下がっていきます。
通貨としてはやはり不向きなのです。
その為なるべく早く米を現金に換えようとして市場で需要より供給量が過多となり米価を激しく下げる要因となったと妄想するからです。
そこで秀吉さんは需要喚起のために一大公共事業唐入りを敢行します。
大坂城の築城や聚楽第造営もその一環だと妄想します。
しかし公共事業と言うのは景気浮揚策としては目先の政策であって可能なのはお金が続く内と言うのは今も昔も変わりません。
金の切れ目が縁の切れ目と言うように景気浮揚策に失敗した豊臣家が滅び、下がりに下がり続けた消費者物価が底値を付けた頃合いに江戸幕府が誕生したのは家康の強運のお陰なんでしょうか?
デフレで滅んだ豊臣家を目の当たりにして、物価の猛威に恐怖した徳川家が五街道や廻船航路などを整備して可能な限り商品流通に配慮したり、米相場などの先物取引で現物を実際に移動しなくても売買出来るように米の貨幣価値を上げたり、江戸に諸侯を参勤交代させて諸侯の金で江戸に大量消費の武士を常駐させてインフレ政策を進めるなど色々工夫したんじゃないかな?と1月2日に妄想してました。
駄文で申し訳ないですがこれが今現在のこの小説の世界観です。
もし今までの話の中でこの世界観と相違するところが有りましたら、それはリセットして頂いて新たにこの世界観をダウンロードしてください。
宜しくお願いします。
今後の世界観が今までの世界観と矛盾した場合、ここで切り替わってると考えてください。
尚この妄想が間違ってると言う感想を作者は涙を流して喜びます。
よりリアルに近い空想世界構築の為感想を心よりお待ちしています。




