上意にございます。
1532年(天文元年)11月~1533年(天文2年)1月 摂津国 石山本願寺 ~ 筑前国 博多。
綾小路 興俊 15~16歳
摂津国から周防国へ向かおうとしていた所、出雲国より尼子経久殿が和睦したいと使者を派遣してきました。
天下の趨勢が大内家に偏った事で抵抗は無理だと考えたのでしょう。
嫡孫の詮久殿を質に差し出してきました。
伯耆国と壱岐国の2か国に出雲東部を所領として大内家に服属なる事になりました。
塩冶興久殿が出雲西部と備後の北部を治めてますが、どちらかを国替えした方が良いかも知れませんね。
慣れた瀬戸内の海路を西へと進み伊予国の宇摩郡と新居郡に立ち寄りました。
ここは野州細川家の伊予国二郡でして毛利元就殿と村上尚吉殿によって征服されたんですがその時にこの地方の山から銅が出るって話を聞いたって言うんですよね。
それが気になって立ち寄ったんですけど、どうも凄く山の方らしくって土佐国との国境らしいです。
もしかして別子銅山?と思って地元の方に聞くと足谷山と言う山の別名が古い伝承から採って別子山とも言うそうでおおって感じですよね。
一緒に移動している神屋孫八郎さんに石見銀山の寿禎さんへ連絡して貰いましょう。
当たってると良いですね。
移動は順調に進み11月の末には安芸国の厳島に上陸しました。
その後陸路で周防国へ入り12月5日に大内館に到着しました。
ほぼ2年ぶりの帰国です。
出迎えてくれた妙姫ももう16歳。
美少女が楚々とした美女に変身してました。
うちで預かってる毛利元就殿の嫡男も10歳なのでもう少ししたら元服ですね。
西国は随分安定してますし正月くらいは実家で過ごしても良いでしょう。
質として預かっている皆さんを軍勢を解散する時に一緒に帰しました。
それが出来るのも一連の戦で大内勢の威勢が津々浦々に染み渡ったからですね。
私も大内館で正月までは妙姫と過ごすつもりです。
お屋形さまも凄く機嫌よく迎えてくださいました。
臣の出世を他意なく喜んでくださるのは乱世ではどうかと思いますが治世においては素晴らしい事です。
私を含めて大内家の家臣の皆々がお屋形さまの盾となり矛となって働けばいずれ天下の全てが大内の元に治まり天下静謐がなるでしょう。
聞けばお屋形さまが担当しておられる九州でも多くの国人が大内家に靡いている状態だとか。
九州の大家である大友家ですら大内と比べれば数分の一の勢力なのである意味当然ですが。
このように師走をまったりと過ごし明けて正月、お屋形さまの元へ参賀に参りました。
今まで正月の参賀でお屋形さまに家臣を代表して「あけましておめでとうございます。」と言うのは陶興房殿だったのですが今年は私がと言う事になりました。
一門衆、そして家臣の筆頭と認められた事は凄くうれしいです。
問題は目出度い正月の席なのに苦虫を嚙み砕いたような顔をしている九州に地盤を持つ方々。
今回の派兵で私に協力してくださった中国勢の方々には私からそれなりの銭を支払ってますけど九州の方々には何も出してませんしね。
他にも中国勢の方々の子弟や陪臣の子弟さんを今回増えた領地の代官やら城代やらでドシドシ抜擢してる事もあるかもしれません。
綾小路家は武家じゃないし、小さな家なので先祖代々の譜代の家臣なんて居ませんしね。
しょうがない事なんですが、、、
あちら(九州)がこちらにもポストくれよと歩み寄ってくださるなら吝かでも無いんですがあからさまに敵意剥き出しの方から人材提供受けるなんて私が認めても私に仕えてくれる方々が認めませんしね。
せめて毛利元就殿のように内心はどう思ってるにせよ笑顔を向けて欲しいものです。
そんな訳で新年会も終わったのでいよいよ博多へ行こうと思ったら妙姫に泣かれました。
2年も放置していて又行ってしまわれるのですか?と。
お言葉はご尤もなので何も言い返せません。
お屋形さまの許可を得て博多まで一緒に小旅行を楽しむ事にしました。
思えばハネムーンも海の旅でしたもんね。
妙姫も機嫌を直してくれて良かったです。
最も旅とは言っても大船頭の神屋彦八郎が率いる大仰な大船団なんですけどね。
堺などの畿内各地の湊で作った和船や唐船に立ち寄る湊で水主や兵士を増やしながら移動してますから。
幾ら水主でも聞いた事もない外国に行けと言われてハイと答える人は居ないんですけど、、、
これだけの大船団だと赤信号みんなで渡れば怖くないって心境なんですかね?
募兵の効率が凄く良いです。
まぁ~給料も他より良いですけどね。
他の船団と違って医者やお坊さんもたくさん乗ってる事も理由かもしれませんね。
特にお医者さんは田代先生の直弟子である曲直瀬正盛殿が率いている精鋭集団ですからね。
何でも私が前世の記憶からボソッと零した「医術は仁術なり」と言う言葉や赤十字みたいな国境なき医師団構想に甚く感銘を受けたんだとか、、、
未だ26歳と言う若いお医者さんなので情熱的です。
赤間関に辿り着くと貿易担当の神屋加計さんが待ち構えていました。
国内の廻船の足をもっと北に伸ばしたいと言われました。
具体的には越前国の三国湊、加賀国の本吉湊、能登国の輪島湊、越中国の岩瀬湊、越後国の今町湊、出羽国の土崎湊、陸奥国の十三湊の七つ。
いわゆる七湊に商館を置きたいらしいです。
尼子氏が服属した事によって出雲国の美保関が、さらに尼子氏に服属していた因幡国の山名氏も服属した事によって因幡国の賀露の湊まで航路が伸びて七湊が射程に入って来たんだとか。
しかしその先の若狭国の小浜津は武田家だし越前国の敦賀津は朝倉家、それも朝倉教景(宗滴)殿の領地ですよ。
無理でしょうと思っていたら先方から船をこちらまで伸ばして欲しいと言う要望があったそうです。
朝倉家も若狭武田家も沿海の領地と言う事で港から入る交易収入は莫大なものがあります。
しかし最近加賀国と戦で交易が絶え、京とも経済封鎖で絶え、更に四本商人の壊滅によって止めを刺されたそうです。
私も因幡国の賀露の湊まで四本商人が足を延ばしてたなんて知りませんでしたよ。
三方を私に塞がれた形の為嫌でも私の所の商人を受け入れないといけないと言う話でした。
商圏の拡大が可能なら私に否応は有りません。
どんどんやってくださいと加計さんにお願いしました。
赤間関をでて更に船は西に進み、響灘から玄界灘に入って1月17日に博多に到着します。
博多では町中の神屋邸に寄宿して大層な接待を受けました。
博多の商人も総出で歓待してくれたようです。
翌1月18日は大変騒がしい朝だった為早くに目を覚ましました。
私の部屋へバタバタと音を立てて神屋彦八郎殿が入って来ます。
私の隣には妙姫も居るんだからさ~ノックくらいしてよ。
と言おうと声まで出掛ったんですが血相を変えた彦八郎さんの報告で止まってしまいました。
「筑前守護代の杉興連殿が殿の上意討ちを訴えて兵を博多に差し向けました。」
上意討ちって?
お屋形さまが私を討てって言ったの?
あんまり理解できなくて、いや、理解したくなくて茫然としていると奥さんの妙がテキパキと皆さんを指図して戦う準備をしています。
それを見て我に返りましたよ。
戦いは不味いって。
確かに戦う数にもよるけど連れて来てる水軍で戦えない事はない。
だけど戦わないって。
ストップ!!スット~ップ!!
先ずは逃げてお屋形さまの真意を確かめないと。
ここで戦ったら後戻りできなくなるじゃん。
血の気の多い方々を押さえて逃げ支度を始めます。
金目は後で何とでもなりますが人材は失うとどうにもならなくなるので皆を船に詰め込みます。
そしてやっと逃げ出せると思ったら玄海島と志賀島の間で宗像水軍が行く手を塞いでるでは有りませんか?
船もこちらが大きいし人でも多いけど戦支度をさせてる訳じゃ無いので刀や槍は兎も角それ以上の武器は持ってない。
取りあえず大きい船を先頭に体当たりをするつもりで突き抜けました。
でも、間が悪い。
成功と思った瞬間に矢が飛んできました。
こう言う時って走馬灯って言うの?
飛んで来る矢がゆっくりに見えるんだよね?
あぁ~妙に当たると思った瞬間に妙姫の前に体を割り込ませ左手で矢を掴もうとしたんです。
矢がゆっくりに見えたからね^^;
でもそんな上手く行くわけがなく左手の小指と薬指を千切り飛ばしてポスッと私の肩に刺さりました。
どんどん血の気が引いていきます。
妙が何かを叫んでるけど良く判らないや。
そして意識を失いました。