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長連歌と砂糖。

1524年(大永4年)摂津国 高槻の富田道場 ~ 摂津国 難波大社。(3~9日目)


綾小路 有興 7歳。


朝の勤行に同席させて頂き、その後、朝食を頂いた後、過分な見送りを頂きながら、富田道場を後にしました。

この時代、淀川も河口近くのこの辺りは、輪中地帯となっており、淀川と一口で言っても、幾筋も流れています。

尾張国と伊勢国の国境、木曽川の長島をイメージして頂ければ、判ると思います。

その為、淀川でも、富田道場に近い、北寄りの淀川は、本来の河川交通の淀川とは外れており、一旦、神崎川と交わる神崎と言う村で、西から南へと下り、和泉灘、即ち、大阪湾に出なければなりません。

しかし、本来の川筋は、枚方宿、守口宿と、淀川の南側の川筋を、山陽道沿いに下って、淀川河口の大阪、渡辺津に入るのが普通だと、船頭さんに教えてもらいました。

渡辺津は、古来からある浪華三大橋(難波橋、天神橋、天満橋)の天神橋と天満橋の間にある北船場の事で、入り江になっていて、堺や兵庫、尼崎と並ぶ、大湊だとの事です。

因みに、この浪華三大橋、全て、同じ中州に繋がっていて、その橋の北に位置する中州に、守口宿があります。

守口宿は、前世での守口大根の由来となった場所ですが、大根自体は、守口宿も含む、天満橋の由来となった天満宮付近の特産で、今世では、宮前大根と呼ばれています。

頑張れ!!守口!!

(筆者は、現在の守口大根の産地である岐阜出身なので、守口大根を応援します。)


閑話休題。

かつて、難波の宮と言う水の都が栄えた地方なだけあって、淀川を行きかう船も凄く増えてきました。

渡辺津で、おかに上がり、熊野街道を南へ歩きます。

熊野街道とは、渡辺津を起点に四天王寺、住吉大社を経て、和泉国で並行して走る紀州街道よりも山沿いを通る街道の事です。

古代から、熊野三山詣は、公家社会の中で盛んで、京からは渡辺津までは淀川を舟で下だり、熊野街道から歩きとなる。

僕たちが辿って来た道を、昔の人も、てくてく歩いたんですね。

因みに、ここで出てくる紀州街道とは、大昔、和泉灘がもっと、内陸にあって、河内海の名残で、大坂の東が、今のような湿地帯じゃなくて、巨大な湖があった頃、和泉灘の海辺沿いの道が、発達してできた街道の事です。

その頃は、住吉大社は、海辺の神社だったらしいです。

風光明媚な事を、住吉模様と言うのは、その名残とか。

熊野街道の住吉さんを起点に、大湊の堺を経由して、和歌山まで続くのが、紀州街道です。

街道に恵まれ、互いが流通の拠点なので、織豊時代を待たず、堺も大坂も強く結びついてますね。

人々の往来は、京の都と変わりません。

さて、今日の目的地は、生玉社、又は、難波大社とも言われる大きな神社です。

この神社、大坂御坊の隣にあるんですよね。

熊野街道を大坂御坊を通り過ぎた所で、分岐する道を、左手に御坊を廻り込む感じで進むと生玉社があるんです。

ここで、明日から大坂の旦那さんを集めて、連歌会するんだそうです。

あ~正確に言うと連歌会の準備ですね。

生活に余裕があると、やはり、自分は立派なんだと、高尚な趣味を持ちたくなるじゃないですか?

今世で言えば、茶の湯、連歌、蹴鞠、歌会等など、、、

連歌は、和歌が出来て当たり前、前の句の風情を取り込みつつ、更なる展開、変化を詠み上げるのが面白さで、それを付合と言うんですが、前の句との整合性を保ちつつ、次の句が繋げやすいように、前の句と完結してはいけないとか、前々句と被ってはいけないとか、歌のセンスを競いつつ、参加者の連帯感を高める遊びなのです。

でも、連歌会に参加できるからって、皆が皆、歌の才能がある訳じゃありません。

下手の横好きでも、皆さんが横並びなら、別に良いんですけど、皆さん、当たり前ですが、プライドと言うものをお持ちです。

そこで、お師匠さまのような連歌師。

プロの出番なのです。

先ずは、本番まで数日間は、練習会ですね。

一番最初の発句は、会の性質で、大体決まります。

お題と言う奴ですね。

会の発起人が、旦那衆を誘う時に、新年の事始めとか?春の喜びとか?秋の豊作を願ってとか?

そういった名目を持って集まれば、それをネタに始めなければ嘘ですからね。

で、連歌に自信のない方は、事前に、連歌師を招いて、勉強会ですね。

勉強会と言っても、個別授業でなくて、小規模に集まって、ミニ連歌会です。

その方と、お師匠さま、お弟子さんとかでもいいんですけど、句をいくつか繋げれば、それは立派な連歌なので、数をこなせば、要領は見えてくるものです。

キチンとした連歌会は百韻と言って、発句と併せて、100の句になります。

考える時間もありますし、それなりに長丁場なのです。

まぁ~公達が宮中で連歌会をするのなら、見栄もありますから、朗々と句を披露し終える時には、次の句がスタンバっていますけどね。

年季が違いますし、それで飯を食べてるので、気合いも違います。

まぁ~どうしても、才能が無くて、この方の場合、連歌会をぶち壊す?

みたいな方も居ます。

その場合、その方の前後に、お弟子さん(サクラ)を入れて、サンドイッチで、帳尻を合わせるとか、それ以前に、こっそり、模範解答をお流しするとか、、、裏技も無きにしもあらずかな?

残念ながら、僕は、お師匠さまや兄弟子さまと違って、連歌を上手くまとめたり、指導したり、ヨイショしつつ導いたり出来ないので、参加もお手伝いも出来ません。

替わりに、お主上も褒めてくださった、曲舞、つまり児舞を披露するんですけどね。

そう言えば、お師匠さまも名高い連歌師なのですが、旅の初日に宿泊した山崎宿にも、高名な連歌師がいらっしゃいました。

後世、山崎宗鑑さまと呼ばれる連歌師です。

実はこの方、僕と同じ宇多源氏の佐々木氏の流れを汲んでいる方なのですが、芸風が凄く俗なんです。

僕的に表現すると、宗鑑さまは、お笑いあり、下ネタありで、師匠さまが、高尚な文学なら、宗鑑さまは、ずばり、吉本芸人。

お師匠さまを庭田頭中将さまに勧められた時、宗鑑さまの名前を出したら、大反対されたのです。

曰く、古式ゆかしき綾小路家が手に染めるべき習いでは無い!!と。

その頃、宗鑑さまは、山城国の山崎宿を拠点に活動されていたんですけど、昨年、對月庵を畳んで、旅に出られたとの事、お会いできなくて凄く残念です。

何でも、お師匠さまのお師匠さまも、お師匠さまの兄弟子さまも、そして、この宗鑑さまも、一休さん(一休禅師)の知り合いだったらしいんです。

で、一休さんの破天荒さ加減が、お師匠様曰く、山崎宗鑑さまにもあるって言うんですよ。

気になるじゃありませんか!!

ミーと、ハーがくっ付く様に、いつかお会いして、サイン頂きたいですね。

と、お馬鹿な事を考えているうちに、音合わせの為に楽師さん達に呼ばれました。

曲舞を舞う時、数えで、7歳になって良い思う事は、動作と言うか、所作に、張りが生まれた事ですね。

今までの、てくてくとか、どたどたとか、表現するのが悲しくなる所作が、僕の厨二病に見合うレベルに達してきた事です。

練習の時、キメの所作で、自分の口で、ピシッとか、ダンッとか発声しても、哀しくなくなりましたもん。

決して、持病が悪化した訳じゃ無く、身長が伸びて、幼児体型から、少年の体つきになって、動きが滑らかになったんですよ。

もう少ししたら、キメの時に、かわいい女の子に向けて、(^_-)☆ウインクとか( ̄ー+ ̄)フッが出来るようになって、どきゅうーんとか、きゅぴーんと女の子のハートを撃ち抜くスキルを身に付けられる予定です。

もう一度言います。

持病は悪化していません!!


1524年(大永4年)摂津国 難波大社。(10日目)


綾小路 有興 7歳。


初めての連歌会。

何もできないと言っても、手持無沙汰は、もの凄く苦痛です。

なので、お師匠さまにお願いして、お役目を貰いました。

次々詠まれる連歌を僕が披露する事。

うわ~大変だ~。


お師匠さまが最初の発句を詠み、参加者が身分順、次々と百韻、つまり100句詠んでいく。

僕がそれを、皆様に、朗々と詠み上げ、披露させて頂く。

兄弟子さま達は、付合と言う、連歌のルールに少し外れている句を、さり気無く直すよう参加者にお勧めしたり、披露した句を次々と巻物に書き留めていく。

その間、主催者さんの家人達が、台所で、打ち揚げ会のご馳走を準備している。

百韻が揃ったところで、お師匠さまの講評です。

基本、ヨイショなので、ここが素晴らしいとか、風情に溢れているとか、耳に心地よい言葉が続きます。

そして、巻物に書き留めた連歌100韻を奉納し、余興で、学芸会から、アマチュアの劇団並みに昇進した、僕の曲舞を披露です。

そして、酒宴、即ち、打ち揚げ会となります。

日本酒と山海のご馳走で、気分が良くなったところで、僕みたいな幼い公達から、目をキラキラさせて、、、


「この句は素晴らしかったです。」


「僕も今、勉強中なんだけど、人生に深みのある方の言葉には勝てません。」


「日記に残したいのですけど、お名前と句を頂いても良いですか?」


等と、お酒を注ぎまわりながら、お話しすると、大変、モテます。

そりゃ~もう、お師匠さまの目が、お前は彼らをどうしたいんだ?

と、語るくらいにはモテました。

上目遣いで、うるうるとお願いしたら、六本木のキャバクラでナンバー1になれるかもしれません。

もっとも、今世だと、六本の松の木すら無くて、女の子の代わりに狸が居るかもしれませんが。

お酒って、この時代だと、僧坊酒と京の都の酒屋がまだまだ主流ですが、北摂津の鴻池、池田、伊丹、小浜と言ったような他所酒(京の都以外のお酒)も名を売り始めた頃で、今、皆さんに勧めてるお酒も、そういった地酒ですね。

僕がこの世から消える頃には、灘の酒と言うブランドが出来るかもしれません。

皆さんと楽しくお話ししていると、4年前亡くなられた三好筑前守さんの話題が出た。

4年前には判らなかったけど、筑前守さん、知恩寺で殺されたらしい。

都では、殺された時、拍手喝采だったけど、ここでは、そんな事無いらしいです。

確か、三好氏って、四国から出て、堺とか北摂津とかを拠点に、京で尾張のお漬物殿と抗争したんだよね?

もう、今からその下地が出来てるのかな?

で、その最後の地となった知恩寺と、知恩院が香衣(こうえ)綸旨(りんじ)をめぐって、昨年から争ってるらしい。

香衣ってのは、勅を賜って着る事が出来る僧衣の事。

綸旨は判る。

お主上さまのお言葉を汲んで、庭田頭中将さまが、制作している奉書だよね?

香衣の綸旨なんてのは、噂では聞いてないけど、お主上さまの秘書官が、ホイホイとそのお言葉を漏らしたりはしないから仕方が無い。

日本史で習った、江戸時代の紫衣事件の紫衣と似たような奴かな?

このお話をしてくださったのは、堺にお住いの武野新五郎殿。

中々面白そうな方だったので、堺に行った時には、是非又、お話を聞きたいものです。

そして、宴もたけなわ、ご馳走の〆は、硯蓋と呼ばれる、前世いう所のデザート。

出てきたのは、砂糖羊羹!!

えっ、羊羹に砂糖って当たり前じゃ無いかって?

この頃、砂糖は日本で作れず、全量、輸入品の凄い高級品なんです。

どのくらい高級品かって?

ご馳走とこのちんまい羊羹が等価ってくらい。

普通の羊羹は、平安時代の物語に出てくるような甘葛。

木の皮を剥いで、まるでゴムの木みたいに樹液を集める、それが甘葛。

砂糖とは甘さが違うのです。

そして、今世初めての砂糖の甘味。

正直、前世で、砂糖を馬鹿にしてました。

ごめんなさい。

大変結構なモノをありがとうございます。

お師匠さま達が、僕がう~~んと言いながら、良く味わって食べてるのを、ニマニマと眺めていた。

その癖、皆さま方、ご自分の分を、僕に譲ってくださると言う男気は見せて下らなかった!!

何か、間違ってない?

ちょっと、違う気がする。

たぶん、連歌会参加者の旦那衆の皆さんなら、上目遣いで、うるうるとお願いしたら、我も我もと献上してくださるのは、間違い無しだけれども、そんな事はしませんよ。

これでも、僕は、おのこですから。

でも、そこを以心伝心って、、、

はぁ~、伝わってるからニマニマなのに、、、

大人になって、天下人になったら、黄金の茶室ならぬ、砂糖で出来た大坂城を建設します。

と、明日になったら、黒歴史として、記憶の底に封印する妄想を浮かべてるのでした。








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