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本願寺大戦③

1531年(享禄4年)9月初旬~年末 大和国 信貴山城 ~ 山城国大山崎。


綾小路 興俊 14歳


お主上さまの論旨や公方さまの御教書が全国に伝わると先ず山科本願寺が動揺しました。

大和国の一向一揆に関わった寺や門徒を破門して朝廷に帰順すべきと言う話が出回ったと聞きました。

しかし、9月7日には熱心な法華門徒である三好冬長殿が山城国の法華宗の寺々に檄文を飛ばしそれに応えた法華一揆衆数千が集結し東山や山科周辺を略奪したそうです。

この為自分たちの身を護る為にも門徒たちの暴走を追認せざる得なかったようです。

9月15日には清水寺周辺の東山に三好冬長殿が布陣し、翌16日から17日に掛けて東山山麓で法華一揆衆1万と一向一揆衆数千が激突し法華一揆衆が勝利したそうです。

9月19日には山科本願寺からの救援要請を受けた摂津国の一向一揆衆二千が山城国山崎に布陣し、京都の法華一揆衆も出軍して西岡周辺で激戦を繰り広げたそうですが法華一揆衆が勝利して京への玄関口を制圧したとの事でした。

9月23日には反本願寺派の近江国守護である六角定頼殿の軍勢が山科盆地の東側に到着し山科本願寺への攻撃準備を整えたそうです。

3万とも4万とも言われるは法華一揆衆は24日の早朝より山科本願寺への攻撃を開始したそうです。

戦端が開かれてから午前10時ぐらいに諸口より軍勢がが乱入し、寺町周辺を放火して回り大勢が決したそうです。

こうして山科本願寺は社坊ひとつ残さず灰になって落城したとの事。

これらの顛末を9月29日に三好冬長殿が匿ってくださった田代三喜先生よりお聞きしました。

山科本願寺が壊滅した後もう安全だと言う事で冬長殿の元を離れて私を訪ねてきてくださいました。

この時待ち望んでいた飯富兵部少輔虎昌殿とその一族の方々や栗原信友殿、そのご子息の信重殿や一族の方々も一緒でした。

京まで広橋兼秀さまと来たところで田代先生の話を聞き合流されたとか。

山城国には現在全く手を出せない状況なので助かりました。

このような激動の中、私が何をしていたかと言うと相変わらず大和国の信貴山城に留まっていたんです。

理由はお主上さまの論旨や公方さまの御教書が紀伊国に伝わり根来寺などを中心とした一向宗討伐軍が紀伊国から大和国の南部に侵入し北上を開始したからです。

お主上さまの論旨や公方さまの御教書では大和国で暴虐を働いた一向宗門徒と言っていますが女子供などの弱者まで無法を働いた訳では有りません。

又、大和国本善寺の実孝さまやその門徒のように私達に協力してくださった方々も大和国に沢山いらっしゃいます。

大和国の一向宗と単純に割り切る事も見捨てる事も出来ない為、着の身着のままの一向宗門徒をここで受け入れてその後河内国や摂津国の本願寺系寺院に振り分けているのです。

もちろん不自然な財産を持っている門徒は誅殺してますけどね。

10月3日妙姫の叔父である実従さまが証如上人さまと一緒に信貴山城へ逃れていらっしゃいました。

山科本願寺の戦いでは土壇場まで寺内に留まっていあたそうですが、最終的には証如上人さまを連れて親鸞聖人御影など寺宝を持ち出して山科本願寺を脱出されたとの事。

しかしこの不始末の張本人である蓮淳さまは山科本願寺陥落の際に証如さまを放り出し我先にとご子息の実恵さまが治める伊勢国の長島願証寺へ逃走したそうです。

私を暗殺しようとした実円さまも証如さまを放り出し持ち寺である三河国土呂本宗寺へ落ちて行かれたとの事。

呆れてモノも云えません。

取りあえず避難する意思のある門徒はすべて回収したでしょう。

と言う事で信貴山城に城代と兵1千を残し摂津国の大坂御坊に向かう事にしました。

天然の要害でもありますし、何と言っても周辺に本願寺系の寺が多く安全です。

11月になると私が大坂に証如さまを匿っている事が方々に伝わり三好冬長殿や畠山冬堯殿と険悪な関係になって行きました。

特に証如さまが11月10日に大坂御坊を石山本願寺と改めて新たな根拠地として門徒に広く布告した事や、11月20日に六角定頼殿や三好冬長殿、法華一揆連合軍が摂津国の富田道場を攻撃しようとした為、大内軍や一向宗門徒を率いて戦った事が決定的な亀裂を生みました。

この戦いでは三好冬長殿と六角定頼殿の反りが合わなかったようで六角殿が突然陣払いし近江国へ引き上げた為引き分けとなり22日には三好殿も京都へ引き上げました。

翌12月になって六角定頼殿の突然の陣払いの裏事情が聞こえて来ました。

山城国から本願寺を一掃した法華一揆衆が京の都を支配し、六角殿と関係が深い比叡山や保内商人の権益を根こそぎ奪ったそうです。

あぁ~私も手を出して都落ちしましたもん。

良く判ります。

私は1万8千の大内、本願寺連合軍を率いて大山崎を制圧し陣城を築き始めました。

近いうちに三好冬長殿と六角定頼殿が争うのは目に見えていますから大山崎で蓋をして関わらないようにします。


年末になると畿内以外の情報も入って来ました。

8月26日、加賀手取川において朝倉教景(宗滴)殿が率いる朝倉勢や富樫勢、畠山勢と賀州三ヶ寺連合軍が山科本願寺軍を破ったそうです。

しかし、9月に入りお主上さまの論旨や公方さまの御教書が北陸に伝わると朝倉勢や富樫勢と賀州三ヶ寺が手切れとなりました。

その後賀州三ヶ寺と降伏した山科本願寺軍や畠山勢が11月の加賀国北部の津幡の戦いで、朝倉、富樫連合軍を破り南の国境へ押し戻しているそうです。

美濃国は美濃三人衆が一向宗を鎮圧し尾張国と三河国では織田信秀殿が織田達勝殿や尾張の一向宗を破ったそうですがその後三河国の一向宗と激しく争っているようです。

もうすぐ年が明けますがまだまだ戦乱は続きそうです。



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