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本願寺大戦②

1531年(享禄4年)7月~9月初旬 摂津国 大坂御坊 ~ 大和国 信貴山城。


綾小路 興俊 14歳


7月に入って加賀国の三ヶ寺の中で最も南に有る蓮綱さまの松岡寺を加賀国小松の本覚寺門徒が襲いました。

本覚寺は元々越前国の有力寺院で先代の蓮光殿の時に延暦寺から追われた本願寺第八世法主蓮如上人さまを保護した事も有りました。

しかし子の蓮恵殿の代になり永正年間に加賀一向宗の朝倉討伐で敗北した時に娘婿であった下間照賢殿が戦死され同じく越前国の超勝寺と共に加賀国へ亡命し和田本覚寺を失いました。

この時加賀門徒の暴走を望まない本山の山科本願寺は他国への遠征を禁止する布告を出しました。

これによって娘婿の仇討ちだけでなく、越前国への復帰の道すら閉ざされた蓮恵殿は朝倉攻めの責任者であった本泉寺の蓮悟さまに抗議をしたのですが逆に破門されてしまいました。

都の六波羅蜜寺を通して破門を解除されましたが、当然不満を募らせました。

その為今回の本願寺の内訌で本泉寺の蓮悟さまが所属する加賀国の三ヶ寺を敵としたのも自然な成り行きのようです。

しかし松岡寺は在地領主の宇津呂丹波殿が加賀一向一揆時代に富樫守護家から寺を護る為に寺に隣接して波佐谷城を併設しました。

その為松岡寺とは実質、城の廓の一つとなっていました。

松岡寺を護る為に宇津呂丹波殿を始め周辺の門徒は必死に抵抗し、それらを指導したのは攻めている本覚寺の蓮恵殿の亡き娘婿の子供や甥っ子達でした。

7月13日に蓮恵殿の娘婿下間照賢殿の遺児である下間頼宣殿、頼康殿兄弟や従兄弟の下間頼継殿が戦死するに至って宇津呂丹波殿は蓮綱さまの一族を北に落としました。

そして翌14日に城は落城し宇津呂丹波殿は討ち死にされました

そして北の白山街道で蓮綱さま一行は内ヶ島雅氏殿を打ち破って加賀国に入った姉小路勢の右田興就殿に7月17日に保護されました。

更に7月19日に加賀国守護の富樫稙泰殿、泰俊殿の父子が参戦し右田殿の姉小路勢と合流しました。

加賀北部からは畠山家俊殿率いる畠山勢が侵入し甥である実悟さまと7月29日に合流しました。

又、一向宗の内訌を大歓迎している越前国の朝倉家が加賀国三ヶ寺救援を名目に朝倉教景(宗滴)殿率いる朝倉勢を7月下旬から加賀国南部へ侵攻させてきました。

更に越中国では超勝寺住持の実顕殿が横領した荘園を回復すると言う名目で越後国の長尾為景が7月中旬より侵入し荘園の横領を始めています。


一方私が居る畿内では河内国と紀伊国を押さえた管領の畠山冬堯殿が7月初めに逆臣木沢長政殿が籠る河内国の飯盛山城を囲みました。

しかし事もあろうに管領の細川冬元さまが前公方さまに乗り換え、7月4日冬元さまは和泉国や摂津国の高国派の残党に木沢殿の救援を命じました。

これに三好冬長殿に攻められていた細川典厩家の細川尹賢殿や畠山冬堯殿の攻撃を受けていた上和泉国守護で畠山稙長殿のご舎弟である細川五郎晴宣殿、下和泉国守護で細川尹賢殿の実家細川野州家の出の細川九郎勝基殿が応じ、更に柳本冬治殿の遺児、京都三条城の柳本甚次郎殿や摂津国越水城の三好冬政殿も細川冬元

さまに同調されました。

摂津国越水城は摂津国武庫郡の西宮の地にあり清酒の産地でもありますが、何より私が征服した播磨国と大坂御坊の連絡線の中間にあります。

その為私は7月10日に大坂御坊を出て翌11日に越水城を囲みました。

三好冬長殿は細川尹賢殿を摂津国西成郡(中嶋郡)の榎並城を包囲していましたが7月13日に城を落として尹賢殿を自刃させその後、公方さま救援の為京へ向かいました。

私が囲んだ越水城も近隣の榎並城が落ちた為戦意を喪失、7月16日に三好冬政殿を捕らえました。

しかし、冬政殿は甲斐国の武田信虎殿とよしみを通じておられ、飯富兵部少輔虎昌殿の助命と交換と言う事で放免され和泉国に落ちられました。

この時の謝礼として冬政殿から信虎殿に刀を一振り、私には舶来の茶入れをくださいました。

この茶入れ、茶人として有名な珠光さまが冬政殿の父君三好勝時殿へ譲られた一品との事です。


そう言えばくだんの飯富虎昌殿は2月2日に大敗して大井信業殿や今井備中殿らが敗死し、更に4月12日に河原辺の戦いで諏訪氏、今井氏、飯富氏、栗原氏の連合軍が信虎勢に粉砕され栗原兵庫殿は討ち死にし連合軍は風前の灯火ともしびとなっていました。

ここに武家伝奏の頭弁である広橋兼秀さまが仲介に入られ浦の城(獅子吼城)に籠る今井信元殿らや攻撃側の武田信虎殿と和平の条件交渉に入られました。

城は開城し今井氏、飯富氏、栗原氏の三家は取り潰され今井信元殿、飯富虎昌殿は甲斐国を国外退去で3氏に加担した信濃国の諏訪安芸守頼満殿は隠居し、跡目を相続される嫡孫の諏訪頼重殿(16歳)に武田信虎殿が三女禰々殿(4歳)を嫁し8月初めに和睦する事で纏まりました。

これに三好冬政殿助命が割り込んだ形ですね。

広橋家は公方家に近い日野家の一門としてお主上の武家伝奏を務めておられ広橋兼秀さまの父君の守光さまも三位の宰相(参議)であった時に甲斐国へ下向して信虎殿に左京大夫への補任と従五位下へ叙す事を伝奏されておられます。

甲斐国から退去の今井家は縁戚の諏訪家が引き取り、飯富家は縁戚の安芸山県家が引き取り、栗原家は兵を率いた兵庫殿が戦死した為国外退去で無いものの甲斐国に居場所がない為、父君の信友殿、ご舎弟信重殿を綾小路家の直臣として迎える事になりました。


閑話休題。

播磨国との連絡線を確保し大坂に戻った私は7月20日に畠山冬堯殿の救援の為大坂御坊を発ち河内国へ向かいました。

8月には京へ向かった三好冬長殿が京都三条城の柳本甚次郎殿を攻め滅ぼしました。

京の東に有る北白川城に籠る管領の細川冬元さまは後が無くなり山科本願寺に救援を要請しました。

8月10日、山科本願寺の証如さまが管領の細川冬元さまの要請を受けて一向宗門徒を動員し本願寺宗主に従わぬ加賀国三ヶ寺や摂津国の大坂御坊や富田道場などを破門しました。

これにより畿内や加賀国で公方さまや加賀国三ヶ寺に同調していた一向宗門徒の間に激しい動揺が起きて私も三好冬長殿や畠山冬堯殿も身動きが取れなくなりました。

反山科本願寺と目されるところが各地で一向宗門徒の襲撃を受け、京都に有る施薬院や悲田院、典薬院も焼け落ち田代三喜先生や弟子の曲直瀬正盛殿などが三好冬長殿の元に逃れられました。

更に一向宗門徒の暴走は大和国にも波及し木沢長政殿の城である大和国信貴山城を攻めていた大和国本善寺の実孝侍従さまの一向宗門徒を蓮淳派の一向宗門徒が急襲し信貴山城攻略軍は壊乱、妙姫の叔父である実孝さまは戦死されました。

実孝さまの危急を聞き畠山冬堯殿と共に河内国の飯盛山城を力攻めで攻め落とし木沢長政殿を討ち死にさせたのですがその頃には戦死されていたようです。

その後も大和国の一向宗門徒の暴走は止まらず大和国の守護である興福寺と大和国人の筒井順興殿、越智利基殿にも攻撃を仕掛けました。攻め滅ぼすべく一揆軍が奈良に突入した。

そして本願寺にとってもゆかりがある大乗院(蓮如上人さまの幼少時修行の場所)を始めとして興福寺の全ての塔頭を焼き払い、猿沢池の鯉や春日大社の鹿も悉く食い尽くし暴虐の限りを尽くしているそうです。

余りにも大和国における一向宗門徒の猛威が凄いので恐ろしくて介入できず大和国の信貴山城を落としてここに兵を置くことで大和国の蓋としました。

この暴虐は宮中でも問題となり9月1日、山科本願寺及び大和国一向宗門徒に対し治罰の論旨が全国に出されました。

翌2日、公方さまも山科本願寺及び大和国一向宗門徒に対し全国に治罰の御判御教書を出されました。

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