見た!来た!食べた!
1524年(大永4年) 京の都 綾小路邸 ~ 等持院。(1日目)
綾小路 有興 7歳。
昨年の暮れ、初めての旅行を決めてから、気に掛けてくださるお主上さま、後見を務めてくださっている庭田家、中山家の皆さまや、その他の公卿、殿上人の皆様方に、下向の挨拶を申し上げ、侍従職を一旦返上し、その上で、主が留守中の綾小路邸の差配を少納言に託して、やっと、今年の初めに、お師匠さまの草庵に辿り着きました。
お師匠様と早速出発するのだけど、まず初めに、先年亡くなられた、例の前将軍さまの木像が納められた等持院を訪問。
なんでやねん?
誰かまでは教えて頂けなかったけど、志ある方の寄進をお届けに行くのだとか?
でも、お主上の怒りをかった方ですよね?
と、不思議そうにお聞きすると、確かに、前将軍さまは、将軍位を降ろされたが、権大納言の職や、源氏長者、淳和奨学両院別当など、足利家の家督に必要なものは取り上げなかったと、もし、京の都に戻って来られ、ご主上に謝罪されたなら、お主上は、快く許されたでしょうと仰られました。
確かに、お主上の愛の深さゆえに、僕は今ものほほんと旅なんて洒落たものが出来てる訳で、軍勢など率いずとも、率直に謝罪されたなら、前将軍さまも、許され京に戻れたかもしれないなと思いました。
又、お寺の住職さまより、この寺では、歴代の室町の将軍さまの木像が安置されていますが、5代将軍さまの木像は収められてないとの事。
この方は、1年ちょっとしか、将軍位に無く早世され、その後、お父上の4代さまが再び、将軍職に就かれたので、菩提寺では、歴代将軍には入れて無いと。
つまり、仏教、即ち、お寺的には、親より先に亡くなった親不孝者扱いなのですね。
でも、この方が亡くなった時、石清水八幡宮の神人を数十人、4代さまが殺した祟りだと噂され、大変悲しまれたとか仰られてて、僕的には、石清水!!そこに来たか!!って、感じでしたね。
1524年(大永4年)山城国 京の都 等持院 ~ 山城国 山崎宿。(続1日目)
綾小路 有興 7歳。
師匠さまとお寺を辞し、東西に走る道を東へ進む。
あくまで世間一般の大人の話で、一日、25km~40km程歩けるらしい。
そう大人です。
師匠さまも僕にそこまでの健脚を期待していない。
何せ、数えで7歳である。
ピカピカの小学1年生です。
お寺から少し歩けば、紙屋川に至る。
そこで、6~8人程乗れる小さな船体で、底が深い高瀬舟?がある。
師匠さまのお弟子さん、僕の兄弟子に当たる方がお二人、旅の荷物を船に積んで、船頭2人と待っていた。
挨拶もそこそこに、船に乗り込み、川を南に下る。
正月なので、川の近くの風は凄く冷たい。
船に乗り込んだ後、用意されていた綿を包んだ布を毛布代わりに、温石で暖を取りながら耐える。
船は風を切るように早く、疾く疾くと、風に押されるように、真っすぐ下る。
暫くすると、吉祥院天満宮の近くで、桂川に合流し、更に南へ下る。
吉祥院天満宮とは、菅原道真公の生誕の地とされる場所である。
太宰府で無念の死を遂げられた公を祭る聖廟が築かれ、後に怨霊鎮魂のための勅願により、初の天満宮になった経緯がある。
この紙屋川、前世では北野天満宮の横を流れる事から、天神川と呼ばれていた。
北野天満宮を横目に、吉祥院天満宮で終わる、正しく天神さま(菅原道真公)の為の川である。
そして、今、船が進む桂川、古来、この川は大井川と呼ばれ、歌でも親しまれてきた。
しかし、土佐日記では桂川、徒然草では大井川と、必ずしも呼び名が時代に添うている訳では無いらしい。
船頭に聞くと、先ほどのお寺を逆に西へ行った、太秦やその先の嵐山、嵯峨野の辺りで、上の川を大井川、下の川を桂川と言っているようだ。
確か前世で見た大河ドラマでも、信濃の善光寺平なら千曲川だけど、越後では呼び名が違った記憶がある。
嵯峨野なら、もう少し行けば丹波口だから、同じような背景があるのかもしれない。
更に船は進み、伏見辺りで鴨川が合流。
京の都の東西を流れる川が合流した事で、いよいよ都から離れたんだなと実感が湧いてきました。
そして、山城国と摂津国の国境辺りで、木津川、宇治川と合流して、淀川となる付近で、本日の旅は終了。
僕たちは、旅の初日を山崎宿で終える事になりました。
山崎宿は、山陽道の山城国と摂津国の国境に位置し、丹波街道の起点でもあるらしい。
伝聞としては、かつて、ここに山崎橋があり、日本三古橋の筆頭であるらしい。
日本三古橋とは、山崎太郎(山崎橋)、瀬田次郎(瀬田の唐橋)、宇治三郎(宇治橋)らしい。
しかし、残りの2つ、瀬田次郎は、現存してるし、瀬田も宇治も、僕ですら知ってるように、物語や日本史で度々出てくる有名な橋だが、山崎橋は、あまりに早くに無くなって、以来、再建されていないので、有名では無いらしい。
此処で、十分に暖まるよう、海どじょうなる物の汁物を頂いた。
うん、美味しんぼの旅は幸せです。
1524年(大永4年)山城国 山崎宿 ~ 摂津国 高槻の富田道場。(2日目)
綾小路 有興 7歳。
翌日、お師匠さま達と、観光をしました。
先ずは、離宮八幡宮。
聞いて驚くなかれ、此処は元々、石清水八幡宮なのです。
でも、建立して直ぐ、此処は元々離宮があったから、離宮八幡宮で良いんじゃないって事で、改名されたとか。
で、この周辺には、大山崎油座があります。
離宮八幡宮の神人さんが、荏胡麻を絞って作ってるそうです。
油商人で、山崎屋?
どこかで聞いたことありませんか?
そう、斎藤道三の事です。
ここが元締めなので、全国の油売りにとって、山崎屋と言う屋号は、ありふれていたかも知れませんね。
そして、幻の橋、、、山崎橋は、今は無いので、渡し船で、対岸に渡ると、男山と言う山があり、その山麓から山頂にかけて、正真正銘の石清水八幡宮があります。
徒然草で、山麓社殿が立派過ぎて、山頂の本殿を見ずに帰ったと言うよな伝説がありますが、今は造営中なので、見るも何も無いですけどね。
ただ、大山崎の油座は、この石清水八幡宮に油を納める事を義務として、かれこれ300年以上続けているそうです。
凄いですね~。
さて、本日の観光は此処まで、船に乗り、旅を再開します。
少し前から、川の流れは段々と西に向いてきました。
どんどん下って、摂津の高槻にある富田道場が今日の終着点です。
富田道場は、本願寺のお寺なんですが、僕に縁がありまして、、、
昨年亡くなられた、2代目住持の蓮芸さまは、蓮如上人さまの八男でもあるんですが、その奥さんは、庭田頭中将さまや中山権中納言さまの妹君なんですよね。
なので、お線香をあげさせて頂いて、宿坊に泊まらさせて頂く予定です。
川筋から少し離れた丘の上にある富田道場が見えてきて、少し、動揺してます。
えっ、お寺だよね?
そこに見えるのは、堀に土塁、そして、柵に囲まれた町でした。
その中心に位置する大きな建物がお寺なんだろうけど、京にあるお寺や神社、この旅で見た両八幡宮の前には、門前町と呼ばれるような、土産物や、宿屋、食べ物屋などが軒を連ねた、いわゆる、商業の為の町がありました。
それが大きくなって、大山崎油座のような座に発展するんだってのも判る。
だれど、これは、、、
まるで中世ヨーロッパみたいに、町を城壁で取り囲んでいる城砦都市の雛形に見えます。
前世の日本史では、自治都市を獲得した堺の町がそんな感じだと習ったけど、それは例外の町だと思ってた。
僕が生まれる少し前から、摂津国や河内国、加賀国などで騒乱を起こしていたのは、公卿の皆さまから聞かされていたけど、これって、まるで戦国大名じゃん。
この富田道場の少し手前、多分2㎞くらい東だったと思うけど、小高いお山の上に、小さなお城があった。
船頭に聞いたら、高槻のお城だと。
高槻城って、ゲームでも出てくるよね?
高山右近の城?和田惟政の城?
でも、全然小さいよ。
そんな武家の城の隣に、こんな小さくも立派な城塞都市が有ったら、そりゃ~怖いよ。
信長が必死に、本願寺を攻撃した理由が判る気がする。
たぶん、僕が生きてるうちに、同じような事が起こるんだろうけど、その時、僕はどうすればいいんだろう?
信長さんとは、今のところ全然関わりないけど、本願寺は、公家社会と大きく関わっているし、まだ先の事だけど、少し怖いです。
道場の寺内町に入った所で、お寺の方々が迎えに来られていた。
そんな大層な扱いを受けるとは思ってなかったので、びっくりです。
出迎えてくれたのは、下間駿河さん。
元々、蓮如上人さまの側近中の側近だったとかで、そんな偉い方に出迎えて頂き、師匠さま共々、恐縮です。
直ぐに、兼琇上人さま(蓮芸さまのこと)の実子である3代目住持、実誓さまにご挨拶し、線香をあげさせて頂きました。
前世での僕の家は、お西さんじゃなくて、お東なんだけど、大丈夫かな?
お線香を上げる、、、それは、室町、つまり最近になって本朝に入って来た産物で、今の時代、公家社会や一部のお寺でしか見かけないハイカラな作法なのです。
今時の普通は、練り香や抹香を上げるんですね。
戦国ゲームの代名詞ともなった尾張のお漬物さんも、抹香を投げつけたのであって、線香を投げてはいないよね?
お東さんの作法に法り、火をつけ、角香炉に寝かせる。
良く、その後に、チーンってお鈴を鳴らすけど、あれは、お経の始まり、区切り、終わりを知らせる作法なんだよね。
だから、前世で、おっさま(お寺さん)が、鈴を鳴らしたら、必ず、お経を上げなさい。
と、常々、言っておりました。
前世でも、今時の若い子は知らないけど、僕らのような世代は、夏休みに、ラジオ体操をお寺さんでやって、その後、朝のお経を住職さまと一緒にするのが、田舎では普通で、だから、普通に、お経なんて見なくても読経は出来るんだよね。
この歳(数え7歳)で、熱心な仏教徒でもないのに、諳んじてるのが、この時代、普通かどうかは知らないけど、中山家の皆さまにも良くして貰ってるし、お経位上げて差し上げたいと言う事で、
「きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう~」
読経を終えて、お鈴を鳴らし、お鈴の余韻が残る、静寂の時間を楽しみ、その後、鳩が豆を食べたように、ぽっかーんとしているお師匠さま達や、実誓さま、下間さんへ向き直り、
「ありがとうございました。」
と、深々と頭を下げる。
うん、決まったね!!
僕ってカッコいい?
ねぇ~カッコいい?
と言う、かなり厨二掛かったどや顔で、皆さんを見ていると、お師匠さんが、突然、腹を抱えて笑い出す。
ちが~う、そこ、びっくり賞賛するとこだよ!!
褒めてよ!!
僕は褒められて、伸びる子なんだから!!
ぷんすかぷん。
本願寺の方々は、結構、驚かれた様子で、その後、随分、好意的な感じで、僕的には大成功だったんだけど、お師匠さまと、兄弟子の皆さんの、生暖かい、なんか解ってるよみたいな、笑顔が凄く嫌だった。
その後、夕餉となり、出された料理は本膳料理に近いものがあった。
本膳料理は、お寺の精進料理、茶道の懐石料理と並ぶ、この時代の格式ある料理です。
元々、将軍さまを饗応する武家料理だけど、この時代、格式高い立派な料理って位置付けかな?
確か、おなじ羽林家の出で、今は播磨で出家され悠々自適の生活をされている橋本三位入道さまが、一昨年だったかに、尺素往来の写本をされたとか、お師匠さんに聞いた気がする。
入道さまは、源氏物語の注釈本を出したりしてる現代の文豪なんですよね。
その尺素往来と言う書物は、公家や上級武士の生活をお手紙形式で解説する、上流社会に馴染むための教本みたいな奴です。
それに、本膳料理の詳細も書かれてて、僕ら公家のみんなが饗応するときの参考書?
にしてるような、してないような?
したくても、そんな金ねぇ~ってお父さんが叫んでいた記憶がチラリと残っています。
で、その教本と違ったのは、お師匠さまの弟子と言っても、殿上人の僕が主賓なのに、まだ子供で、形ばかりの式三献で、雑煮から始めた事。
その後、場を変えずに、本膳一汁七菜のみで、二の膳、三の膳は、省略した事かな?
僕的には、雑煮だけで十分だったんですが、、、
でも、お気持ちは凄くうれしかったです。
あと、初めて食べた黒鯛が美味しかった。
明日は、淀川河口を抜けて、和泉灘(大阪湾)に入るんですが、別称、茅渟の海と言うだけあって、この辺りの黒鯛は絶品ですね。
明日は、和泉灘を南に下り、有名な大坂、石山御坊を目指すので、凄く楽しみです。