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石見銀山と貿易船。

1530年(享禄3年)正月~8月 周防国 大内館


綾小路 興俊 13歳


正月早々大内家、いえ綾小路家に激震が走りました。

石見銀山の南に位置する石見国人の小笠原長隆殿が二千の兵を以て水谷口、水落口の両番所を焼き払い高橋常光殿が守る仙の山城と高橋盛光殿が守る矢滝城を攻め始めたとの事でした。

すぐさま安芸国高橋城の陶興昌殿、石見国藤掛城の高橋弘厚殿、石見城の吉見威俊殿、山吹城の高橋興光殿に救援を依頼しました。

小笠原氏は大内寄りの国人でした。

それが突然、大内家のドル箱に手を出すのですから当然こうなりますよね。

尼子方の石見国人領主である余勢城の多胡辰敬殿を中心に湯野氏や出羽氏が山吹城を攻撃し始めました。

出羽氏は高橋氏に滅亡寸前まで追い込まれた事があり旧領奪回とばかりに戦意が高いそうです。

湯野氏は元々山吹城周辺の領主です。

銀が出たばかりに大内家に転封を命じられて領地替えを喰らった家です。

これに対し小笠原氏と仲が悪い福屋氏や高橋氏に近い佐波氏が大内方に付き東石見の国人が入り乱れての大戦に発展していきました。

この頃大内家ではお屋形さまが九州担当私が中国担当と言うような雰囲気が広がって居まして、当然ながら銀山防衛の旗頭が私に廻ってきました。

まぁ~石見銀山失うと私は無一文の一歩手前ですから嫌とは言いませんですけどね。

私を神輿に長門守護代の内藤氏、周防守護代の陶氏、安芸守護代(お屋形さまが昨年安芸国守護に就任)の弘中氏を始め、冷泉氏や毛利氏、益田氏、吉見氏、吉川氏などが与力についてくださいました。

軍勢は二手に進み私が内藤、陶、益田、吉見を従え吉見氏の津和野城を経由して山陰道に出て東へと進みました。

もう一手は弘中興勝殿が冷泉氏や毛利氏、吉川氏などの安芸衆を従え石見街道を北上し小笠原氏の後背に当たる高橋弘厚殿や陶興昌殿に合流しました。

これに対して尼子氏も後詰の軍を出雲国に集めようとしてるようです。

しかし3月に入り尼子氏の当主、尼子経久が3男の塩冶興久えんやおきひさ殿が反乱を起こしたのです。

これに同調したのが出雲大社、鰐淵寺、三沢氏、多賀氏、真木氏、備後山内氏、但馬山名氏と出雲国南西部から備後北部の国人を中心にほぼ尼子氏の勢力を二分しました。

この大反乱によって尼子氏からの後詰を望めなくなった小笠原方は崩壊し次々と滅亡、又は降伏していきました。

余勢城の多胡辰敬殿は高橋常光殿や陶興昌殿に対して一歩も引かない戦を行い勇戦しましたが武運拙く討ち死にしました。

出羽氏や湯野氏は我々の東進軍に飲まれて、降伏を申し出るも許されず滅亡しました。

しかし、この戦の首謀者である小笠原長隆殿は居城の川本湯場城が落とされ一族が悉く死んだにも関わらず単身で出雲へ逃れました。

石見の大半が大内家の支配となり、大内家の中国経略は大きく進み石見銀山の安全性も大変向上しました。

更に5月には塩冶興久殿と同盟を結び、共に尼子氏と対抗していく事になりました。

出羽氏や湯野氏、小笠原氏らの所領を戦の戦功者に分けて、降伏した余勢城は辰敬殿の舎弟である多胡正国殿が引き継ぎました。

又、私が城代に付けた高橋氏の一族を改めて綾小路家の家臣とし、高橋家の別名である本城の名を与え本城氏として別家を立てさせました。

石見で戦後の差配をしていた7月中旬、畿内から訃報が届きました。

東播磨の別所氏から救援を請われて柳本冬治殿が向かわれたそうなんだけど浦上方の依藤城を攻城中に酒に酔って居た所を突かれて暗殺されてしまったらしいです。

総大将が敵に陣中で暗殺されるってどうよ?

危機管理体制が崩壊してますね。

当然依藤城は落ちず、柳本勢は敗退したそうです。

さらに備前国三石城の浦上村宗殿が依藤城の城攻めに失敗した小寺氏、別所氏、在田氏の居城を攻めているそうです。

浦上殿は赤松氏の被官ですが、下剋上の習いで主従が逆転しつつあると聞きます。

私や冬長殿を排斥した冬治殿に同情はしませんが、重臣を失った公方さまや管領さまが心配です。

何も起こらなければ良いのですが、、、、

公方さまの所へ駆けつけたいところですが赤松、浦上氏が反公方姿勢を鮮明にしたので瀬戸内の通行が不安定です。

四国の讃岐側を抜ければ良いのですが、三好冬政殿と反目している以上上京するルートが有りません。

もし上京するなら軍勢を率いねばなりませんね。

石見の後始末が終わり大内館に戻ってくると財務方の神屋加計さんと大船頭の神屋彦八郎さんが来て見えました。

貿易業務の報告だそうです。

一昨年は万石唐船1隻と千石和船2隻を運用した結果、運上金が15,800貫あったそうです。

肥前平戸、対馬府中、筑前博多、石見温泉津、長門赤間関、安芸厳島、備後鞆の浦、讃岐多度津、播磨室津、摂津兵庫と大坂、和泉堺の12湊の間を千石和船の航路として開拓し、万石唐船は明の寧波周辺での私貿易や琉球、朝鮮との交易に従事させたそうです。

昨年は万石唐船2隻、千石和船6隻、千石唐船2隻を運用した結果、運上金が89,000貫になったそうです。

千石和船は12湊の海運業を引き続き行い、千石唐船は朝鮮貿易に従事させたそうです。

そして万石唐船は、琉球へ米を、明へ刀や鉱物を、東南アジア諸国へは銅銭や絹、木綿などを持ち込みました。

ジョホール王国の属国であるパハン王国の北にあるパタニ王国と修好し商館を建設したそうです。

この王国はポルトガルが占領したマラカの東に有り情報収取に良いとの事です。

今年は更に南にあると言う香料の産地へ足を延ばさせている所だそうです。

東南アジア諸国から産物で特に錫を明が欲しているそうで、かなり高額で売れるとの事でした。

今年は年初めに銀山が危機で造船計画が出来なかったですが、莫大な運上金が見込めるなら最大限造船に費やしても良いかもです。

更に朗報は鉄砲と大砲を購入できた事です。

鉄砲はマラカのポルトガル人から購入したそうですが、大砲は地中海からパタニの王が購入したものだそうです。

聞いてびっくりなのですが、天竺インドでポルトガルとイスラム勢力が行った海戦では、地中海のベネチアなどの諸国がイスラム側で参戦しており、どちらも銃や大砲を用いた激戦だったそうです。

その後もアラビアやインド、東南アジアでポルトガルはイスラム勢力と戦争をしていて東南アジアの王国もインドやアラビア、果てはオスマン帝国とも共同前線を張っているのだとか、、、

スケールが壮大過ぎて理解が追い付きません。

ただ東南アジアの王国では重火器の取り扱いに理解が進んでなくて、ちょっと威力の高い弓とか弩の同じ扱いなんだとか。

そりゃ~ポルトガルが無双するわ。

手に入れた鉄砲や大砲を再現する為に刀鍛冶らをどんどん呼び寄せましょう。

どこに?

取りあえず自由が利きそうな佐東銀山城ですかね?

代官を任せている冷泉殿に取りあえず3万貫を送り鉄砲鍛冶の養成をお願いします。

神屋さん達にも国外から硝石の購入を全力でお願いします。

もちろん大砲を作るなら錫と銅も集めて頂くようお願いする必要ありますね。

私って公家の筈なのに、、、武器に凄い喰いつくものだから神屋さん達ドン引きです。

おまけに鉄砲作らせるのに3万貫とか理解できなかったんでしょうね?

金額を伝えた時、2回聞き直されました。

取りあえず万石唐船は後5隻は欲しいですね。

千石級の和船や唐船も可能な限り作っていきましょう。


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