長所と短所。
1529年(享禄2年)2月中旬 筑前国 博多。
綾小路 興俊 12歳
急ぎ博多に来てみれば迷惑そうな顔を隠さぬ九州勢の顔ぶれです。
どうやら中国勢を九州に呼んだのはお屋形さまの独断で九州勢の面々は知らなかったようです。
相良武任殿など仏頂面で早々の着陣ご苦労様にござると言う。
鏡を見て同じ言葉を言えるのでしょうか?
凄く疑問です。
まぁ~そんな事は置いといて、現場の状況を詳しく聞きます。
お屋形さまが博多に進まれ、先手を務められた杉興連殿が大宰府を落とし更に少弐興経殿の本拠地、肥前国の勢福寺城へ軍を進めました。
この侵攻に対し少弐氏の一族である朝日頼貫殿、筑紫尚門殿、横岳資貞殿が大内方に寝返りました。
しかし勢福寺城攻めの初戦で朝日頼貫殿を龍造寺家兼殿に討ち取られ、筑紫尚門殿、横岳資貞殿を龍造寺家兼殿の家老、鍋島清久殿に田手畷で討ち取られます。
寝返った武将が先陣を務めて新しい主に誠意を見せるのは武家の常識ですが、寝返った三方皆が揃って討ち死には外聞が悪すぎます。
しばらく降伏する者は出てきても寝返る者は居なくなるでしょう。
活躍したのが龍造寺とか鍋島とか冗談が過ぎます。
常勝不敗の極意は強者と戦わない事です。
軍議の場で今回は和議を結び引く事を主張します。
臆病風に吹かれたのか?と九州勢の皆さんが仰いますので九州勢の皆さんが勝てないものをどうして私が勝てるのでしょうと言い返したら黙ってしまわれました。
そうですね。
和議は将軍さまにお願いするのが良いと思います。
又、和議の場で龍造寺家兼殿の勇戦を誉め称えるよう皆さまにお願いします。
お屋形さまには誉め称えるだけでなく、肥前守護代と10万石でスカウトして頂きましょう。
もちろん武勇だけでなく忠義にも篤い龍造寺家兼殿です。(たぶん)
仕官はきっぱり断るでしょう。
そうであるならば、やはり大内の家中上げて龍造寺家兼殿の忠義を褒め称えるべきでしょう。
まぁ~家中だけでは詮無いので、博多や赤間関の商人達にも喧伝すべきです。
お屋形さまには20万石でも惜しくないと言って頂くべきでしょうか?
それだけの褒め殺しを3年も続ければ後はお屋形さまのお好きなように少弐家を料理できるのでは無いでしょうか?
欲、妬み、僻み、憎しみなんてモノは人が自制してどうにかなるものでは有りません。
聖者と呼ばれる徳の高い人が悟りを開いてやっと解放される難儀なモノです。
ましてやこの戦国の世の中において親兄弟ですら信じられず殺し合う武士がどうして抗えましょうか?
少弐家家中が素晴らしい方々でしたら龍造寺家兼殿は翼を得た龍のように飛躍するでしょう。
陶興房殿のようにお屋形さまの深い信頼を得られ大内家の大番頭を務めておられる方もいらっしゃる。
しかし、少弐家はどうでしょう?
お屋形さまのように人を信じる器量をお持ちでしょうか?
家臣の馬場頼周が娘と孫に会わせると岳父の筑紫満門殿を誘い出して殺害した件を見ても、一族からこれだけ多くの寝返りが出ている件を見ても答えは明らかだと思うのですが。
意見は無いようなのでもう中国勢の神輿は必要ありませんね?
無いようなので博多で神屋さんと交易の話をさせて頂いた後は京に帰らせて頂きますね。
とお屋形さまに申し上げ軍議より下がらせて頂きました。
私の話を静かに聞いてくださったのは良いのですがお屋形さま以下、お歴々の方々全てが引き攣ったお顔をされて居たのは気のせいでしょうか?
前世の会社務めで「出来ないは聞きたくない。」とか無理無理を要求するお客さまや上司は幾らでも居ました。
でもそういった状況下で別視点で問題点を見ると意外な所に解決策があってブレイクスルーした経験って結構ありますよね?
お屋形さまが人に頼りすぎると言うのは短所ですが、人を信じると言うのは長所で魅力だと思うのです。
逆に龍造寺家兼殿の武勇も見方を変え舞台さえ整えば長所が短所になるのでないでしょうか?。
と、思いながら博多の町へ入っていきました。