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疾風怒濤。

1529年(享禄2年)正月~2月中旬 周防国 大内館 ~ 筑前国 博多。


綾小路 興俊 12歳。


こちらに来たついでと大内館で神屋さん達と貿易船の話を詰めていたら安芸国の毛利元就殿より急を知らせる使者が来ました。

安芸と石見に跨る大領主高橋氏が叛意を持っており尼子に降ろうとしているから討伐の許可を欲しいと言うのです。

しかし同時に石見国の吉見頼興よしみよりおき殿からも使者があり毛利元就殿が家督を相続された時の混乱が尾を引き高橋家と毛利家が険悪な状態だと言う知らせでした。

この為、陶興房殿や内藤興盛殿など中国を地盤とする武将らが高橋家と毛利家の仲裁の為に兵を出すべきだと主張していました。

しかし、九州に地盤を持つ杉重矩殿や杉興連殿が先代が頂いた大弐の職を名実ともにお屋形さまが受け継ぐ為にも北九州の覇権を確立すべきと主張して紛糾していました。

更に相良武任殿が豊後国の大友氏がお屋形さまの従兄弟君を立てて家督を主張し兵をあげたとの急報をもたらして高橋家と毛利家の騒動は石見銀山で利益を得ている吉見家と私、長門守護代の内藤家、周防守護代の陶家のみで解決すべきとなり、大内家主力は大友氏の先方を務めている少弐氏討伐に進む事となりました。

事実上中国の神輿が私で、九州の神輿がお屋形さまと言う事ですね。

私としては葬儀のみのつもりで下向願いも出さずに周防国に来てるのでそんな暇はないのですが、、、

とは言え、毛利元就殿は危険です。

石見銀山に近付けたらあっと言う間に奪われてしまうでしょう。

10倍以上の兵力差が有ればいくら私でも勝てるでしょうが、10倍以下で謀神に勝てる希望は有りません。

当面出る毛利はモグラ叩きのように叩く。

これ以外に方法がありません。

一度でも失敗したら毛利氏を尼子氏に先手としてぶつけて謀反の疑いありって事で後ろから全軍で攻め立てるしか勝つ方法が浮かびませんね。

もしくは毛利元就殿の子供はすべて私が養子で引き取ると言うのはどうかな?

子供を京都の綾小路邸で養育すれば吉川も小早川も毛利に付かないでしょう。

大江氏の末裔とか名乗って居たはずだから、大江氏の再興をお手伝いしますとか言えば都に拉致できるはず。

取りあえず早く騒動を纏めて京に帰らねば、、、


双方に強い口調で争いを取りやめるよう書状を出しました。

そして石見国から高橋氏の領地へそして毛利家の領地へ入り調停の場を設けました。

この時点で高橋家が全く妨害せず領地への侵入を許しているので謀反なんて有り得なさそうなんですけど、かと言って讒言と決めつけ毛利家の面目を潰すと尼子家へ毛利が走りかねません。

それに叛意が無くともうわさが出た時点で全力で身の潔白を示そうとしない高橋家にも非がある。

高橋家の味方をすると国人達が他の国人の叛意を知っても通報しなくなる恐れもあります。

難しい判断です。

私は内藤殿や陶殿にはかって仕置きをこのように決めました。


1つ 高橋興光は叛意の噂が立ったにもかかわらず、主家に弁明の使者も立てなかった事は怠慢である。

1つ 高橋家に娘を嫁に出しておりながら叛意の噂を聞き迷わず主家に通報した毛利元就は律義者で立派である。

1つ 以上の理由により高橋家の安芸国における所領は召し上げる。又、興光には家督を弟の忠光に継がせるものとする。

1つ 興光の父、弘厚に忠光の補佐を命ずる。

1つ 興光もまだ若いので石見銀山の綾小路家の代官として取り立てる。又要害山に山吹城を築き城代を兼ねよ。

1つ 興光のもう一人の弟、常光を石見銀山の仙の山城の城代に取り立てる。

1つ 高橋の一族の盛光を石見銀山の矢滝城の城代に取り立てる。

1つ 高橋の一族の勝久を石見銀山の矢筈城の城代に取り立てる。

1つ 吉見頼興の三男威俊を石見城城主としその築城の費えを綾小路興俊が支払う。

1つ 毛利元就には褒美として綾小路興俊が銭5000貫を与える。

1つ 毛利元就が嫡男の少輔太郎しょうゆうたろうを姉小路興俊の側付きとして取り立てる。

1つ 毛利家と高橋家に遺恨無きを望むが、高橋家に嫁いだ毛利家の大姫にとって居心地が悪かろう故、離縁させ一旦綾小路家興俊の養女とし改めて我が家臣陶興昌の正室として嫁がせる。その上で陶興昌に安芸国の旧高橋領を預ける。

以上12か条に相違なくば高橋家と毛利家は遺恨なく大内家に仕えるものとする。


・・・・もの凄い出費です。

内藤殿と陶殿にも恩賞として銀を差し上げねばならないし、幾つ城を立てなきゃいけないのでしょうね?

それでも高橋家と毛利家の互いの面子を私が金で買った事で意外と早くまとまりました。

毛利と高橋の緩衝地帯に猛将陶の嫡男が割り込めば元就さんもちょっかい掛ける気が失せるでしょう。

さて軍を戻していよいよ京へ戻れるかな?と思っていたら九州より急報。

少弐討伐の先方を務めている筑前守護代の杉興連殿が田手畷の戦い(たてなわてのたたかい)にて大敗、筑前国三根郡代の横岳資貞殿と先鋒を務められた筑紫尚門殿が討ち死にとの話。

お屋形さまから仲裁がまとまり次第すぐに九州へ渡って来いと言う命令に皆さん空を仰いでおられます。

お味方大敗なんて情報が出回ってるのに、仇敵武田氏を横目に九州へ向かう事が出来るのでしょうか?

陶殿らと相談し先ず安芸武田氏を討ってその足で九州へ向かう事にします。

先ず噂を武田氏の居城佐東金山城にバラまきます。


「大内方九州にて大敗、大友と少弐の連合軍が博多を占領。」


半分は本当なので多分信じるでしょう。

そしてその日のうちに小勢に囲まれた朱塗りの輿が佐東金山城の横手を足早に通り過ぎました。

目敏く輿を見つけた武田光和殿が手勢を引き連れて襲います。

多勢に無勢で輿と供回りは一目散に逃げだしました。

遂には輿まで放り出し必死に逃げる郎党。

しかし投げ出された輿には稲わらに兜と鎧を着せた人形しかありませんでした。

うん物語で良くある話です。

良い話には裏があるってお父さんから聞かなったのですかね?

あぁ~お父さん元就さんに討ち取られてましたか?

可哀そうに武田光和殿まで元就殿に討ち取られてしまいましたよ。

あの人の伏兵って神業ですね。

私も気を付けなきゃいけません。

佐東金山城の城攻めは毛利元就殿と吉川経典殿に任せて私と陶、内藤勢は九州へ向かいます。


周防国に入り武器や防具は船に積ませて博多へ出航させる。

各宿場に早馬を飛ばし汁や飯を用意させ、身軽にした足軽や武者を休みなく駆けさせ駆けながら食べさせました。

足軽に与える報酬は初日は2升の米、相場の2倍です。

ただし目的地まで12里は駆けねば報酬は無し。

そのまま帰れと言う方式です。

2日目は3升としたら3日目に4升としたら9割が4日目に赤間関へ辿り着きました。

私はどうしたかって?

船に決まってるじゃないですか?

担ぎ手は頑張れば12里走るかもしれないけど、そんなのに乗っていたら4日目には振り落とされて死んでます。

ここに集めさせた船を使って初日が宗像の神湊、そして駆けっこを始めて6日にして博多の街に中国勢8千が辿り着きました。

船や飯の差配を完璧にこなして下さった神屋加計さんに感謝です。








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