訃報。
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1527年(大永7年)12月 山城国 泉乗寺。
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1528年(享禄元年) 京の都 綾小路邸。
綾小路 興俊 10~11歳。
泉乗寺の戦いは私の突撃により勝敗を決しました。
私の横槍は管領さまの軍勢のやや後背に入り、その頃になって漸く押し出し始めた畠山勢がタイミング良く管領さまの先手を拘束、三好元長殿の旗本衆に本陣を蹂躙された管領さまは供回りだけで後方へ疾走し管領さまの軍は壊乱しました。
その後朝倉勢の右側面に横槍をと望みましたが、私が備えを崩した為元長勢に組織だった攻撃をするの能力は既に存在しませんでした。
その為命令を聞いた一部の手勢が朝倉勢に攻撃を加えるも散発的で朝倉宗滴殿の養子である九郎左衛門尉殿に押し返されました。
その後畠山勢がさらに押し出したのを見、朝倉勢と六角勢は戦闘を切り上げ整然と後退しました。
京都の西では丹波勢が浅井勢と武田勢の連合軍を退け京に入り東山を中心とする東軍(幕府軍)と泉乗寺を中心とする西軍(堺公方軍)に別れ睨み合っています。
11月29日には越前国から前波勢が幕府軍の援軍として上京し都周辺で互いに陣城を築い為膠着状態に陥りました。
その頃私は堺の大樹さまより頂いた長井豊後と長井新九郎に対する治罰の御判御教書を大和国経由で畠山殿の陪臣の木沢左京亮殿に託し送り届けて頂きました。
年が暮れる頃には和平の話が出てきました。
理由は朝廷では私の献金で来年こそは即位の礼を執り行いたいと希望しておりその準備も着々と整えていましたが、両軍が京の都を戦場にしている状態ではそれもままなりません。
その為西軍の神輿を務める私に幾人もの公卿さまが陳情に参られました。
しかし神輿はあくまでも神輿で何かを差配できる訳でもありません。
仕方が無いので三好元長殿にお願したのですが、それに西軍の皆さんが反発しました。
そもそも西軍躍進の切欠は波多野殿たち兄弟の謀反である事は間違いありません。
そしてそれに呼応して三好兄弟と共に京で戦い東軍を近江へ追い落とした事に有ります。
それなのに三好の本家筋だからと上から和平交渉を始めるのはどうなんだと反発されたのです。
しかし波多野殿達の要求である管領殿の首なんぞ求めていては来年どころか未来永劫和平なんて纏まりません。
和平交渉する気の無いやつに交渉任せられる訳ないじゃないですか?
こちらの棟梁である堺公方さまは19歳、細川さまは15歳ですよ。
まぁ~僕も10歳ですが、、、
三好元長殿が三好の本家筋で28歳なんですから和平に奔走してもおかしくないと思うのですけどね。
しかし、在京の皆さまは波多野稙通殿33歳を始め元長殿より年長者であることは確かです。
中々うまく行かないものです。
仕方が無いのでとある噂を京の町に流しました。
「綾小路少将が美濃守護の弟君である土岐頼芸殿を朝倉勢へ引き渡す事に同意したそうだ。」
「それによって東軍を背後から襲い掛かる約束らしい。」
「美濃に居る大内勢が既に関ケ原を西に向かってるらしいぞ。」
「六角氏か浅井氏に向かうって話だ。」
実に変哲もないありふれた流言ですね。
朝倉宗滴殿なら鼻で笑うでしょう。
でも、向こうにはそれを信じるお馬鹿さんが居ました。
管領の細川様です。
宗滴殿を満面の笑顔で酒宴に誘ったそうです。
そして朝倉勢は物も言わずにそのまま越前に帰国しました。
讒言って怖いですね。
する方もされた方も身を滅ぼしますが、讒言を信じたほうも一度信じる事によってその風聞は一生付きまといますね。
私も気を付けねばいけません。
年が明け朝倉勢に続くように浅井勢、六角勢が引き上げ2月早々には管領さまや将軍さまも武田勢と共に再び近江へ落ちられました。
2月17日堺公方さま、細川六郎さまが上洛され19日に足利義晴さまが将軍位とそれに付随する諸々を朝廷に召し上げられ、翌月の3月16日に従五位下左馬頭だった堺公方さまが従四位下に昇叙し参議に補任され左近衛中将を兼任の上征夷大将軍に宣下されました。
同時に足利義維の名を足利義冬と改名され第13代将軍さまとなられました。
将軍さまは翌17日、細川六郎さまの京兆家の家督相続を認められ、併せて管領に任じられました。
これにより六郎さまも名を改められ細川冬元さまとされました。
将軍さまにおかれては3月23日、更に従三位に昇叙され権大納言に転任されました。
名実ともに公方さまとなられた義冬さまは6月に大内家より嫁を迎えられる事に同意されました。
又、諸国に対し5月に予定している即位の礼の為の上洛を命じられました。
やはり武家のイベントと言えば馬揃えですよね?
上洛イベントは将軍さまの威勢を喧伝する絶好の機会ですよと話のタネにお勧めしただけなのですが、乗り気になった将軍さまによって馬揃えの奉行とされてしまいました。
幕府にはお金が無いというので畿内の豪商さん達に協賛金のお願いをしたのですが、、、
その時出せないなら代りに博多からお金引っ張って来るから無理しなくて良いよと言ったのに何故か必死に沢山のお金を集めてくださいました。
やはり皆さん難波魂と言うかイベントへの情熱が違いますね。
さすが大阪人です。
馬揃えの話にお主上は大変慶ばれ、その流れで馬揃えに参加する幕府の功労者が通称では可哀そうだと仰せられました。
その結果
細川冬元さまが従四位下右京大夫。
三好元長殿が冬長と改名し従五位下筑前守(お爺さんの通称を正式に補任)。
三好勝長殿が正六位下讃岐守(この時戦傷で亡くなっていまして追贈です)。
三好政長殿が冬政と改名し従六位下淡路守(翌日正六位下讃岐守となりました)。
畠山義堯殿が冬堯と改名し従四位下右衛門督(この他畠山家の慣例として上総介を兼ねる)。
波多野稙通殿が冬通と改名し従五位下丹波守。
柳本賢治殿が冬治と改名し正六位下丹波介。
私にも従四位下右近衛中将へと言うお話がありましたが丁重に断りました。
少将になったばかりなのに3階級特進で将軍さまと同じ中将とか何かの罰ゲームですか?
どうも宮中で私を破滅させたい方々がいらっしゃるようです。
こうして武勲者の一斉昇進で目出度い事も続きましたが問題も山積みです。
将軍が地方に落ちられても今までは幕府の奉公人まで付いて行かなかったのですが、今回は奉行人もごっそり落ちられてしまったので幕府の機能が停止状態です。
その為残った奉行人を拾い上げるとともに新しく幕府の要職を任じる事になります。
先ず将軍さま補佐役である管領に細川冬元さま、畠山冬堯殿がおられます。
そして財政を司る政所に伊勢貞重殿が就かれ、侍所や問注所など事務方一切を仕切る事となりました。
ハッキリ言えば脳筋が多すぎて役割を振れない・・・
私は公家なので幕府の要職を辞退しましたが、お屋形さまに九州探題を頂きました。
先年の大宰大弐に続き九州探題も頂いた事でお屋形さまの九州統治もより容易になる事と思います。
私が帰京した大永6年に伯耆、備後の国主である山名氏が反尼子方となり大内家と同盟を結びました。
その為尼子氏は完全に包囲される事態となり、昨年大永7年に猛将の陶中務少輔殿が備後で尼子経久殿を破り、大内家は山陽の長門、周防、安芸、備後、山陰の石見、伯耆、九州の豊前、筑前、肥前の9か国に勢力が及ぶ事になりました。
飛騨や美濃にまで勢力を築ければ大内の天下も夢ではありません。
そんな中5月吉日にお主上は宮中で即位の礼を行われました。
その後行われた馬揃えには要人だけでも将軍の足利義冬さま、管領の細川冬元さま、同じく管領の畠山冬堯殿、伊賀守護の仁木刑部大輔殿、伊勢国司の北畠参議殿、越前守護の朝倉弾正左衛門尉殿、美濃守護の土岐修理大夫殿、近江守護の六角弾正少弼殿、飛騨国司家の姉小路家名代として右田興就殿、そして大内家の名代として私、大内少将が参加しました。
この時目出度く右田興就殿は西村一党を討ち果たし葬儀も無事済んでいたのですが、馬揃えに美濃守護の土岐修理大夫殿が顔を出したことによって、美濃の領国は土岐殿にお返ししご舎弟は出家して綾小路家にて預かりと言う事になりました。
代りに馬揃えに参加した守護家は足利義冬さまを将軍と認め忠誠の誓詞を差し出し近江に落ちられた足利義晴さま、細川高国さまは領国外へ追放となりました。
お二人は若狭守護の武田家へ逃れたそうです。
又飛騨国司の名代を務められた右田興就殿は私の被官を辞し飛騨国の守護代に任じられました。
だって姉小路少将の兄嫁である未亡人さんと出来ちゃったって言うんだもん。
仕方が無いよね。
未亡人さんも3歳の幼子抱えて大変だろうから頼れる男をゲットしたい気も判るし~
うん仕方が無いよね。
内藤殿は激怒のあまり血管が怖いくらいに浮き出てたけど何とか陶殿には私から言っておくよ。
右田殿の寄り親である陶中務少輔殿っておっかない人だから気が進まないけどね。
5月の終わりには義理の姉上である桐姫が上洛され綾小路邸に宿泊されました。
そして6月吉日、将軍さまは義姉上を正室に迎えられました。
7月に入り堺の医師で堺の医師で阿佐井野宗瑞と言う方が私財を投じられ医学大全と言う明の医学書を翻訳出版されました。
出版や翻訳、医学の知識があるなんて素晴らしいです。
是非、田代三喜先生と一緒に仕事をして頂きたいです。
早速書状を送りました。
8月20日には即位の礼を記念し先代に習って改元されました。
今日から享禄元年です。
そんな感じで月日は流れ師走に入り琵琶湖が凍結したと聞きました。
前世ではそんな事聞いた事が有りません。
寒冷化の時代だとは聞きましたが半端ないですね。
先生には凍死者が少しでも少なくなるよう何時にも増して炊き出しなどをお願いしました。
そして、、、大晦日の夜訃報が届きました。
お屋形さま12月20日大内館で病の為死去。