旅行のお誘い。
1523年(大永3年)京の都 綾小路邸
綾小路 有興 6歳。
年明けと共に、喪も明け、静寂から一転して、慌ただしさと共に現実がやってくる。
葬儀の後、喪中の頃から、僕の身の振り方を心配したお父さんの友人の方々から、色々なお声を掛けて頂いた。
特に、綾小路家の本家筋に当たる正四位上、庭田頭中将さま。
ご本人は、同じ羽林家の中山家からのご養子だが、庭田家の女は、代々、皇室と伏見宮家に仕え、お主上の母上様も庭田典侍であり、お主上にも、庭田典侍がいらっしゃる。
言うなれば、庭田家の家業と言ったところか?
その庭田頭中将さまより、喪が明け次第、宮中へ参内するようお勧めがあった。
頭中将とは、近衛中将職にある方で、お主上の秘書官である蔵人の長官を務められる方を言う。
つまり、お主上の側近中の側近って方ですね。
因みに、僕が頂いている侍従も昔は、お主上の側近の職だったらしいけど、蔵人と言う職が出来て以来、儀礼的な職となってしまった。
理由は簡単で、侍従と言うのが、羽林家と言う貴族の子弟の最初の職になってしまった事。
綾小路家や庭田家、中山家が属する羽林家の羽林とは、近衛を意味する言葉で、代々、近衛中将や大将を家業としている格式の家なのです。
そして、格式のある家の習いで、蔭位の制により、僕達、羽林家は、従五位下から宮中の序列(官位)が始まります。
従五位相当の侍従と言う職は、侍衛官とされ、帯剣が許可されているんです。
即ち、衛府の長を家業とする羽林家にお似合いな職とされ、僕の3歳は早すぎでも、うちのお父さんは10歳で任官、目の前にいる庭田頭中将さまも10歳でと言うように、侍従と言うのは、小学生の溜まり場みたいなものなのです。
小学生の溜まり場になって、実質、麻痺状態の侍従の職掌を蔵人が受け継いで、侍従がお飾りになるのは当然ですよね。
そんな訳で、お主上に伯母さんが嫁いで居られるお主上の最も信任高き方が、態々、僕の屋敷に来られる。
これは、お主上の意を汲んでと言うか、お主上が望んでおられるって事なんでしょう。
もう、喪が明け次第、否応無く参内させて頂きました。
宮中へ参内すると、公卿の皆様方への挨拶もそこそこに、すぐに、お主上のお召しがあり、前世の無い知恵を絞って、長の不義理を謝罪申し上げようと、しどろもどろに、言葉を紡ぎ始めたんだけど、それが、幼子が精一杯、背伸びをしてるような微笑ましい感じに見えたようで、御簾越しのお主上も忍び笑いしてるようだし、左右に侍る公卿らも肩を震わせてるし、、、当の自分は、頭が真っ白になって、あうあうって感じで、介添えとなってくださった庭田頭中将さまが、言うべき台詞をカンペのように、朗々と唱えてくださらなかったら、途中で、走って逃げたかも知れないね。
その後、お主上より、父、中将の悼みのお言葉と、僕に励ましのお言葉を頂き、精神年齢が、50に届くはずなのに、思わず涙腺が崩壊して、人目も憚らず、大泣きしてしまいました。
その後、庭田頭中将さまが、僕の後見をする事を申し上げ、庭田頭中将さまの兄君である中山権中納言さまが、ご子息のお一人が、僕と同じ侍従であるので、共に後見を申し出てくださり、お主上もお認めになられて、後に、皆様から号泣侍従の拝謁と茶化される事件は終幕した。
たぶん、公卿や女房の皆さん、日記に書きまくってるんだろうな~こういうの好きそうだから、とほほ。
3月に入り、近江国で、京極氏のお家争いが発生したそうです。
京極と言えば、同じ宇多源氏。
武家とは言え、遠い親戚と言えなくもないし、興味が沸いたので、頭中将さま達に、根掘り葉掘り聞きまくりました。
そりゃ~もう、武家に興味があるのか?と聞かれるくらい。
頭中将さまには、
『綾小路家には、僕しかなく、血縁を頼りに、庭田家や、中山家の皆様に縋って生きています。
その縁を遠く辿れば、京極氏にも行きつくとか?
縁に強く関心を持つのは、僕にとって、今、僕が、何故ここに在るか?
と、自問するようなものです。』
と、お伝えすると、腑に落ちられたのか?
親身に、色々、お教えくださいました。
それによると、京極氏のこの度の災難は、前の大戦、応仁・文明の乱の最中に起きた後継争いに端を発するらしい。
京極氏は、本貫を近江に置き、代々、隠岐・飛騨・出雲の守護職を任されていたけど、後継争いを派手にやったおかげで、次々と在地の守護代に所領を横領され、僕が生まれた頃には、近江北半分しか、所領が残って無かったらしい。
まぁ~横領した出雲・隠岐の尼子氏だって、飛騨の三木氏だって、京極氏の分家なので、本家が家督争いの軍資金を、地方の分家に押し付け続ければ、爆発するのは当然で、そこは同情できない。
で、まぁ~、本貫の北近江も失いかけ、美濃国でニートして居た所、家臣に助けられて、何とか北近江の所領を復帰したのが、今の京極の当主さまらしい。
でも、鎌倉・室町期の武家って、跡目が長子相続と、はっきり決まってないんだよね。
だから、どの家も、当主が無くなると、決まって後継争いをする。
それで、お家そのものが力を落とし、下剋上で、お家そのものが潰える。
うん、諸行無常だね。
江戸幕府を開いた徳川家が、朱子学を広めた理由が良く判るわ。
でも、残念な京極氏は、ニートから救ってくれた家臣が亡くなると、後見を失ったことにより、レームダック化するんだよね。
京極家の後継を当主が、次男さんに決めたのに、それに反発した家臣団が長男さんを押して、国人一揆を起こして揉めてるらしい。
創業家が次期社長を社長の次男にしようと取締役会議で諮ったら、役員全員が、社長の長男を推薦して、大事件としてお茶の間のテレビで放送中(今ここ)。
って、感じかな?
4月には、陸奥守護の伊達氏が、都の石清水八幡宮の造営費用を寄進して話題となっていた。
石清水八幡宮は、清和源氏、つまり将軍家の氏神なので、昨年の前例のない陸奥国守護職就任の御礼の寄進はおかしくないけど、わざわざ遠いところからご苦労様です。
京の都の鬼門(北東)延暦寺に対して、裏鬼門(北西)の石清水八幡宮と位置付けられ、都に住む人々にとっても、決して関心は低くないお話で、伊達氏の評判が上がっています。
又、即位の礼をすっぽかして出奔中だった前将軍さまが、同じ4月に阿波でお隠れになったそうです。
あまり、亡くなった方の事を悪くは言いたくないけれど、四国の阿波で、都に攻め上る為の兵を集めていらっしゃたとか?
都の住人としては、亡くなって、良かった、良かった、としか言いようがない。
伊達の殿さま、みちのくのひのもとの果てからわざわざ、武家の務めとして寄進を行った時なので、とても武家の棟梁と思えなかった前将軍さまとの違いが際立って、余計に、話題に上っていましたね。
そして、日が移ろい、暮れも近くなって、今年の3月頃に、遠い唐の国で起きた大事件が、都中を駆け巡りました。
聞いて判りました。
僕も前世で、高校の日本史の授業で習いました。
寧波の乱(1523年)です。
もちろん、山〇出版と言う、日本史教科書の良書でも、寧波の乱で勘合貿易中断(1523年)と習っただけで、詳細は、今、初めて知りましたけど、、、
うん、無茶苦茶だわ~。
もともと、足利3代将軍さまが、日本国王などと僭称して始めた朝貢貿易。
臥雲山人と言う、日明貿易の外交文書を起草した京都五山のお坊さんも批判してるほど、是非が朝廷でも、有識者たる五山でも問題になった。
それでも、莫大な利益をもたらすので、名より理を取る形で、ずるずると継続していたんだけど、応仁の乱で、将軍家が分裂し、力を落としたので、有力な守護大名、周防国大内家と、畿内の京兆細川家が共同で、将軍家の代行をし、遣明船を送っていたのです。
しかし、僕が生まれる少し前、前将軍さまの後見を務め、前将軍さまの将軍位復権に大きな功績があった周防国の従三位大内中納言さまに、前将軍さまが、今後の日明貿易を管轄掌握する御内書を発行したんです。
これに、管領の細川さまは反対していたようで、3年前、遣明船を明に向けて出発させたんです。
この出来事は、僕も覚えてますけどね。
ただ、前例を大事にするみやこびとは、誰も、この事実に違和感持ってませんでしたけどね。
で、大内さまの出した遣明船と、管領様の遣明船が、貿易窓口の寧波でダブルブッキング。
先に到着し、正式な勘合符を持っていた大内側が、凄く真っ当に手続きを進めようとしたのに対して、管領さまの使節は、賄賂で切り抜けようとしたらしい。
で、買収によって不利に追い込まれた大内側がプッツン。
管領さま方の正使、鸞岡端佐殿は、明の役人達が管領さまの使節方に加勢したにも関わらず、大内さま方の正使、謙道宗設殿に切り捨てられ、管領さま方の遣明船は焼き払われ、更に、明の方々を蹴散らしながら、賄賂を贈った管領さま側の副使、宋素卿を追って紹興城へ、宋素卿殿は、何とか助かったけど、とばっちりで、明の役人が何人か死んだらしい。
で、宋素卿殿を殺し損ねた腹いせに、周辺を略奪してから、船に乗って周防に帰ったとか。。。
船を焼かれて帰れない宋素卿殿は、騒乱の責を一身に背負って、投獄されたと言う話。
大内さま方の正使、謙道宗設殿も立派な五山のお坊さんだよ?
切れたからって、相手の坊さん切り捨てるって、末法の世にしてもぶっ飛びすぎでしょ?
歴史の授業で、日明貿易、中断とだけ習ったけど、真実は小説より奇妙だわ。
前世の日本の授業で、倭寇は、日本人より中国、朝鮮人が主体だったって習ったけど、こんな事件犯してりゃ~倭寇の親玉が日本だと思っても不思議じゃないわ~。
管領さまの献金で、即位の礼が出来たと言う今の朝廷では、管領さまの懐事情は、僕らの明日にも直結する訳で、隣の近江の国人一揆より、遠い唐の国の事件の方が関心が大きいです。
庭田頭中将さまの勧めで習っている連歌のお師匠さま、月村斎さまが、各地で連歌会を開きながら、周防の大内館まで行って、詳しい事情を調査に行くらしい。
皆さまに、色々聞いて廻って居るので、
「興味があるなら一緒に来るかね?」
と、お誘いを受けました。
急ぎの旅ではないし、お子さまな僕でも一緒に行けるような旅路らしい。
見識を広める為にも、
「是非、宜しくお願いします。」
と、即座に申し上げました。
初めての旅行、楽しみです。