表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/69

泉乗寺の戦い。 副題 (正しい神輿の使い方)

1527年(大永7年)11月 和泉国 堺 ~ 山城国 桂川 


綾小路 興俊 10歳。


11月初旬私は三好元長殿、内藤弾正忠殿と共に三千の兵を率いて紀州街道を北上しました。

大坂御坊では本願寺門徒に歓迎され歓待を受けました。

どうも将軍家や細川家が内輪もめをしその度に一方は四国へ逃げ、一方は近江へ逃げるのは支援する町人に理由があるようです。

以前、日宋船によって宋銭が入り、更に遣明船で明銭が流入して経済が成長してきたと述べました。

更に応仁の乱によって京の都で何十万の兵士が巨大な消費活動をするようになると京に繋がる街道や町や湊が大きく発展しました。

しかしその発展は均一には行われず西方の政権が生まれれば堺や大阪、兵庫など西国の町々が、東方の政権が生まれれば大津や敦賀など東国の町々が発展しました。

陣営の兵士が京に駐留しそれに伴って地方の国から沢山の物資を京に運び込み貪り喰らう。

それがシーソーのように繰り返せば双方に支配される町人も自分の陣営の公方さまや管領さまを応援したくなるのも道理です。

そうして溢れるように流れてくる銭で兵を養い内輪もめを続ける。

戦国の世が終わらない訳です。

本願寺門徒の旦那衆の堺公方さまへの期待もそんな所にあるのかもしれませんね。

更に大阪から北東の山城国に向けて山陽道を進みます。

前世では温暖化の影響からか11月と言えばそれほど寒くなかった気がしますが今世での11月は冬です。

本当に寒いです。

行軍ですが私は馬に乗って居ません。

乗馬の練習はしていますが自在に乗りこなせませんし、内藤殿曰く神輿は文字通り担がれてこそご利益があるそうです。

朱塗りに金と銀をあしらった乗り物で吹き晒しの中を粛々と進むのもかなり辛いものがあります。

それでも雑兵達よりは幸せですが。

それなりの武将なら体温を奪われて動けなくならないよう具足に綿などを詰めて暖かい恰好をしています。

私の場合はその上に温石をこっそり使ってますがそれでも寒い。

足軽と呼ばれるものの中には見ているこちらまで寒くなるような格好の人までいました。

足軽とは名の通り、脛当すねあてなどは付けず、鉄や練革ねりかわを鉢巻きに綴じ付けた額鉄ひたいがねに、腹当などで武装して裸足で駆け回っています。

腹当の下はふんどしのみとか頭おかしいでしょ?

私が自分の手勢を持つようになったら絶対ユニフォームを導入します。

因みに私の具足は思い切り厨二病発症しています。

兜は三宝荒神形張懸兜。

後世上杉謙信が着用する兜です。

余りに中二病過ぎて大河ドラマとかでは絶対出て来そうにない兜ですね。

そしてメインは蒔絵胴。

胴の真ん中に正面を睨む龍が描かれています。

いつか蒔絵胴のユニフォームで揃えた親衛隊を組織したいですね。

山陽道を上り大阪と山崎の中間の枚方と言う所に達した時、溜の住人が猪肉ししにくを献上してくれました。

温まるには丁度良いと言う事でたっぷりの猪肉に味噌とネギと大根を入れた豚汁を兵の皆々に振舞いました。

しかし、折角準備した豚汁を皆は穢れたモノだとか死屍肉だとかふざけた事を言って食べません。

豚汁の前に行き自分で椀に汁を掬い皆の前で旨い旨いと食べると内藤殿が我もと喰い始めました。

それを見ている元長殿に汁を振舞うと三好殿も旨いと言って食べられ、それに釣られる様に皆が食べ始めました。

宗教的な禁違は判るけど、こんな寒空でアツアツの豚汁前にして食わないとは思わなかったです。

そんな感じで上も下も関係なくアツアツの豚汁を喰った後は内藤殿も三好殿も妙に私を立ててくれるようになりました。

しかし、それよりも足軽の皆さんまで気軽に声を掛けてくれるようになったのが嬉しいですね。

ただ一人輿の上で寒さに耐えているより輿を担ぐ若衆たちと話しながらの方が寒さも紛れると言うモノです。


そして翌々日には山崎に着き、ここで河内国の畠山義堯はたけやまよしたか殿や三好勝長殿、三好政長殿の阿波兄弟勢とも合流し、波多野稙通殿、柳本賢治殿の丹波兄弟勢が丹波からこちら側の加勢に向かっているとの報告を受けました。

総勢2万5千の兵です。

何とかなるのではないでしょうか?

そのまま街道を上り続け翌11月19日、鴨川を渡って桂川付近の京の南にある泉乗寺にて幕府軍と堺公方軍は激突しました。


ところで、この時代の軍隊とはどんなものでしょうか?

この頃の軍隊は領主単位で部隊が決まります。

私のような土地を持たない人間と別として、真っ当な武将は自らの知行地から兵を集めます。

そして寄り子である武将は寄り親である武将の元に集い、さらに戦に招集した大名か国人領主の元に纏まります。

そこでそれぞれの家来を兵科ごとに集め替え備えと呼ばれる部隊を編成します。

大昔のように「やぁやぁ~我こそは!」などとやっていた時代は備えなど無くそれぞれの武将が子飼いの兵だけを連れて転々ばらばらに戦をしていました。

しかし、5や10の弓より100の弓が一斉に矢を放つ方が効果があるように、50や100の兵を率いた武将が1000の槍を持った足軽に向かって行ってもただの自殺です。

そのように後世大名と呼ばれる有力な国人は備えを持って効率よく戦争をするようになりました。

もちろん土地を持たない私も美濃へ姉小路殿を送り出した時は備えを編成しました。

僕が知行を与えた武将達がそれぞれ軍役の約束に応じて兵を提供したので、それを備えに編成してから送り出したのです。

そんな訳で敵方もそうですが、味方も畠山義堯殿、三好勝長殿、三好政長殿、そして私達の三好元長殿とそれぞれが独立した部隊で連れてきている兵の数もまちまちなのです。

左翼に畠山勢、真ん中に元長勢、右翼に勝長・政長勢と並び、敵方は右翼に管領さまの軍勢、真ん中に朝倉勢、左翼に六角勢が並び、後方に将軍さまがおられ西の丹波方面に浅井、武田勢が備えているようでした。

こちらは鴨川を渡ったばかりで気分は背水の陣です。

しかし左手を桂川、右を鴨川に挟まれているので単純に前へ押し出せば良いだけの陣形など考えなくても良い単純な戦です。

備えがしっかり展開した所で私が采配を振ります。

すると太鼓が打ち鳴らされ、貝が吹かれます。

そしてお使い武者と言われる人々が伝令に走って行きます。

伝令が伝わると先手と呼ばれる先陣が前に押し出て弓矢の射程に入り次第、矢合わせと言われる射撃戦を始めました。

そして頃合いを見て長柄衆と呼ばれる槍隊が長槍で互いに叩き合います。

お互い気合充分なのか、劇的な進展など全くありません。

因みに初めての実戦なのでよく見たいと無理を言って輿の上に載って陣幕も取り払って観戦です。

内藤殿に大将はどっしり座ってるものですと苦言を言われましたが、神輿が陣幕に隠れててどうする?と言い負かせました。

そしてよく見ると異変に気が付きます。

三好兄弟勢は同じように奮戦しているのに畠山勢は未だ矢合わせで全然前に押し出していません。

こちらの勢いに押されたのか六角勢も朝倉勢も徐々に軍勢を下げています。

それに気を良くして更に三好勢が押しあがって左翼の畠山勢と中央の元長勢の間に間隙が生まれています。

間隙の先は即ち我々の本陣です。

幾ら戦争素人の私でもこれが不味い事は判ります。

多分、戦上手の朝倉チート殿に三好勢は誘われているんです。

もしかしたら畠山も内応してるかもしれません。

チェックメイトを管領さまに譲るなんてなんと憎い心配り。

でもその心配りが私たちのチャンスです。

今なら間に合うでしょう。

事態を理解している元長殿も内藤殿も顔を青くしています。

私は大声で叫びました。


「畠山殿は何と優しい事よ!

初陣の私に一番手柄まで馳走してくれるらしい。

輿を掲げよ!!

三好の旗本の衆よ我に続け。

八幡大菩薩が勝利を片手に手招きしておるぞ。

(内藤)弾正忠は義堯殿の陣に赴きこう伝えよ。

十歳の童の陰に隠れていたと噂されたく無くば我に続け!と」


お使い衆が何騎も飛び出していき大音声だいおんじょうでおん大将に続けと叫んでいきます。

私は輿の担ぎ手とともにエイ、エイ、オウと叫びながら突進していきました。

そしてそれよりも前を旗本の馬周り衆や長柄衆、先手の控えとして待機していた馬上衆が少しでも輿より前へ出ようと必死の形相で駆け管領さまの手勢に突っ込んでいきました。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ