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お小遣いの使い道。

1527年(大永7年)9月頃まで 京の都 綾小路邸。


綾小路 興俊 10歳。


年が明けても戦火は収まらず、丹波国から波多野稙通殿兄弟らが摂津国へ侵入。

1月22日~2月11日までに8つの城を落とし波多野勢と三好勢は山城国との国境である山崎城で合流しました。

そして翌2月12日夜半から13日に掛けて桂川原にて管領さまの手勢と戦をしました。

激しい戦で管領さま方からは日野富子さまの甥にあたる日野大納言ひのだいなごん殿が討ち死に、三好勢からは三好勝長殿が瀕死の重傷を負ったそうです。

この戦いは三好・波多野連合が完勝し14日には管領さまが将軍さまと共に近江国へ落ちられました。

そして16日には再び京の都が三好勢に占拠されました。

3月に入るとなんと田代三喜先生が下野国より上京して来られました。

薬効が確認できた事をわざわざ手紙でなくご自分で報告しに来られたのです。

流石は明まで行かれる方です。

フットワークが軽いです。

更に本願寺実如さまの後を継がれた証如さまが関白九条さまの猶子となられ、お主上さまの弟宮さまで青蓮院門跡さまが師となられて得度されたそうです。

今の九条さまって以前に借金のもつれで家人を殺したその人なんですが仏門を進まれる方なら何もわざわざそういう方を選ばなくても良いのにと思ってしまいました。

4月に入り堺にて連歌師の牡丹花肖柏ぼたんげしょうはくさまが亡くなられました。

この方とはお会いしたことがないのですが、お師匠さまの兄弟子に当たる方だそうです。

古今伝授を堺の旦那衆にしていたと言う事で、堺の方々から深く愛されていた方だそうです。

この話を持ってきてくれた方は神屋加計かみやかけいさんと言う方で、神屋主計さんのご兄弟です。

今後、私の側付きとして加計さんと神屋次郎太郎かみやじろうたろうさんが付いてくれるそうです。

何故かと言うと今年の石見銀山の収入が銀で1万貫を超えたそうです。

単純に10貫が500石だったので、米価で50万石です。

取り分が2割でも10万石です。

銭にして5万貫。

多分、加計さん達はデパートで言う渉外の人です。

お金持ちの人の家に来て、ご用聞きをする方々です。

もちろんこの綾小路邸にそんな何トンもある銀を運んで来た訳では有りません。

堺の豪商や博多の豪商が裏書きした証文を持ってきてるだけのようです。

今は銀鉱が剝き出しなのでそのまま露天掘りで掘り進んでいるそうです。

しかし既に幾つか有望な鉱脈が見つかっているようでしばらくは今の状態くらいで産出するそうです。

コンスタントに収入が見込めるならどんどん投資すべきでしょう。

それからしばらくして宮中に参内し痘瘡の治療法が見つかった事を奏上しました。

又廃絶していた施薬院やくいん典薬寮てんやくりょう悲田院ひでんいんの復興を願い出て許されました。

疫病に掛かる理由に身分の高い低いは関係が無いという事。

衣食住と健康が密接な関係がある事。

衆生の健やかなる事が国の健やかに繋がる事をご説明し許しを得ました。

施薬院とは前世の赤十字病院と薬局みたいな感じ?です。

無料で治療を施します。

典薬寮はご典医を育てる機関で、又典医の集まる医局でもあります。

前世の医科大学と大学病院みたいな感じです。

医術を教える事の他に、病や怪我の症状を詳細に記録し分類して治療法を研究する部門でもあります。

悲田院とは孤児院など養護系の福祉施設です。

田代三喜先生は施薬院使やくいんし典薬頭てんやくのとう悲田院別当ひでんいんべっとうを兼ねられお弟子さん達と建設運営を始められました。

私は神屋主計さんにお願して年5千貫をこれらの施設の運営費に差し上げるよう依頼しました。

施薬院による牛痘ぎゅうとうの普及はあっと言う間に京の都から天然痘を駆逐しました。

元々典薬院の下部組織に位置付けられていた乳牛院にゅうぎゅういんが後に独立組織になり、痘瘡を祓うお牛さまの乳は万病の薬との噂が広がり奈良時代以降廃れていった牛乳やヨーグルト、チーズなどの乳製品文化の再発見の転機となりました。

が、それはもう少し後の事となります。

お主上は痘瘡の治癒を大変慶ばれ従五位職であった施薬院使、典薬頭を正五位職に引き上げられそれに伴い先生も正五位下となられました。

そのついでですが、私も従五位下侍従から従五位上権石見介左近衛少将となりました。

しかしその時ひと騒動が起きまして、同じ頃にお屋形さまの使いとして内藤弾正忠殿が即位の礼の為の献金として二千貫を届けに参られ私も一緒に五百貫を添えて献金させて頂こうとしたのですが、どうやらその時お屋形さまへの大宰大弐の任官を申請したそうなんです。

お主上は清廉な気性の方なのでしょう。

白地あからさまな売官要求に凄く機嫌を悪くされたそうなんです。

お屋形さまの二千貫を受け取り拒否され何故か?私に大宰大弐を贈ると言い出され、、、、

いやいや、それおかしいですから。

従五位下(昇進前)から正五位上って三階級特進ですから、私に死ねと?

お屋形さまに喧嘩売る前払いって事ですか?

二階級の死亡確定のさらに上ですか?

必死にご辞退申し上げ二千五百貫の献金は私からとし、任官願はそれとは別と言う形で目出度くお屋形さまは大宰大弐に任官されました。

そして宙に浮いた二千貫の献金は、最近盗賊が内裏をうろついているとの事で周囲にお堀を造営する資金として使用する事になりました。


大金を手にして変わった事。

お金のある所には人と物が集まります。

それまではお師匠さまに頼み込んで歌や連歌、漢学に雅楽など公家として必要なものをこちらから出向いて教えて頂いたのですが環境が変わりました。

又、こちらからお伺いする相手の身分が非常に高くなりました。

こうした生活をしているとお金の便利さに溺れてお金に使われそうで怖いです。

お師匠さまの勧めで正二位権大納言しょうにいごんだいなごん三条西さんじょうにしさまに源氏物語の奥義と古今伝授を授けて頂ける事になりました。

今までは連歌の為の基礎教養としてお師匠さまから教えて頂いていたのですが、部分的なものでなく体系的に教授頂けるのは素晴らしい事です。

又ご実父の三条西内大臣入道さんじょうにしのうちのおとどのにゅうどうさまにも茶道や歌を教えて頂きました。

三条西さまの家は古今伝授の家柄で公家文化の大家なのですが家格が大臣家と非常に高く、私のおばあちゃんを攫った若狭国の武田家とも深い親交があるのでお師匠さまの勧めが無かったら接点がない家でした。

因みに三条西内大臣入道さまは2歳、三条西権大納言さまは4歳で侍従と言う超早い元服です。

他にも色々な家から様々な習い事を教えて頂き忙しい日々を過ごしています。

7月になって将軍さまの弟さまが従五位下左馬頭じゅうごいげさまのかみに叙任されました。

三好勢が京の都を占領し将軍さまが近江国へ落ちられたので、摂津国の堺に在って将軍職の業務を代行されていたようです。

左馬頭に任じられたと言う事は上洛されれば将軍宣下が当確なのでしょう。

既に堺公方と呼ばれているようです。

即位の礼の為には武家の棟梁が警固役を務めるのが望ましいですし、2代揃って即位の礼で将軍が出奔中と言うのもどうかとも思うので仕方が無いですね。

そして7月下旬に前年侍従から右近衛少将に昇進された田向少将殿が屋敷に参られました。

何でも飛騨国司の兄君が亡くなられ、少将を辞して飛騨国に下向し跡を継がれるとの事。

ただ飛騨国には既に朝廷の威光が無く国司と言っても国人に侮られておりいつ滅ぼされるとも判らないと言っておられました。

私も公家なので戦とか領国経営には全く心得は有りませんが伝手はあります。

内裏のお堀造営の為奉行を務めておられる内藤弾正忠殿に相談した所、大内家の郎党から幾人か人を融通してくれる言ってくださいました。

田代三喜先生が面倒を見ておられる施薬院や悲田院で養っている方々もお堀造営の手伝いに駆り出されているので内藤殿やその家臣の皆さんは綾小路家に寄宿されているのです。

まぁ~その方が私も安全ですしね。

悲田院には沢山の孤児や障害を持った方が居ます。

働けない方も一杯いますけど、働ける方に労働の場を提供し社会復帰を進めるのに公共事業や寺小屋みたいな教育施設は丁度良いのです。

又、鎌倉時代に拡散した地方の悲田院は河原者や無宿者と言った穢多・非人と呼ばれる方々を多く受け入れていました。

京に再建した悲田院もこの方針を受け継ぎ、地方各地の悲田院の援助なども始めています。

地方の悲田院運営に深くかかわっていた真言宗の西大寺さんと提携し西大寺の再建に資金提供をし、又西大寺からは人材の派遣をして頂いています。

そう言えば影が薄い神屋次郎太郎さん。

この悲田院が河原者さんの救済をしているのに目を付けまして皮革加工や行商、能や大道芸などの芸能、造園や井戸掘り、山師などの活動拠点として溜めと言う集落を全国の悲田院をハブに作るそうです。

施薬院を各地の悲田院に併設し更に寺小屋などにも踏み込みたいとか。

それらの施設からの物価情報や風聞情報などを京で細かく精査して行商派遣の基礎情報とかに役立てるからお金をつぎ込む額よりかえって儲かるかもしれないと言ってました。

翌月の8月。

寧波の乱で拗れていた明との国交が回復し和解が成立したと聞きました。

素晴らしい事です。

灰吹き法の技術者とか戦国チートの立役者をどんどん引っ張ってきたいです。

と言う事で神屋さんの家業に出資させて頂けるよう加計さんに博多へ手紙を書いてもらいました。

因みに和船なら高くても千石船で1500貫、五百石船ならその半分で作れるそうです。

でも遣明船に使うような唐船ジャンクだと6割増しの2400貫くらいかかるそうです。

ところで千石ってどのくらいの大きさ?

って聞いたら1石が米俵2俵半、多分1俵60キロで150トンくらいの船らしい。

どのくらいの大きさで作れるのか聞いたら一番大きいのは8700石くらいだと言われました。

トンで1300トン。

デカいわ~。

今回は失敗したけど、田代三喜先生が乗っていった前回の遣明船ではたった3隻の船に600人が乗っていたとの事。

人だけで無くて満載した交易品もあるので無茶苦茶大きいそうです。

因みにお値段は2万貫だそうです。

うん、買えるね。

お小遣いを年1万貫に節約?したら毎年2隻買える計算ですよ。

そこから田代先生に2000貫、習い事に500貫差し引いても全然問題ありません。

あ、田向少将殿に資金を融通しなきゃいけなかったか。

月の終わり頃にはお屋形さまからの返書も届き、少将殿に加勢する許可を頂きました。

大内家から融通して頂く武将は大内家の宿将がたの子弟で尚且つ総領になれない方。

僕が知行としてお金を渡しそれで兵を整えて少将殿に与力として付けるらしいです。

知行のお金の値段を決めればそれに応じて兵を養ってくれるのは正直ありがたいです。

戦になればそれに応じて知行以外の戦費ひょうろうが掛かるけど凄く判りやすいです。

大体100貫の知行で60~75人の軍役が常識と言われました。

とは言え飛騨国で少将殿がやっていくのにどのくらい兵が必要か知らないので内藤殿にお聞きしたのですが、内藤殿にも知らないと言われました。

小国だとは聞いてるけど詳しい事は全く知らないとの事。

でも、仮にも守護職なら3000位の手勢は必要だろうと言われまして取りあえず集まって頂けた皆さんに知行を5000貫分配します。

差し引くと残り2500貫なので毎年2隻は厳しいかも知れません。

因みに軍役で兵の皆さんに支払う日当は米で1升だとか。

3000人の軍勢だとひと月で450貫、半年で2700貫掛かる計算になります。

尾張のお漬物さんじゃあるまいし、半年も戦い続ける武将なんている訳ないと思いますので3か月分1350貫を少将殿に渡しました。

田向少将殿は翌9月に少将を辞し、姉小路高綱あねがこうじたかつなと名乗って兵を集め月半ばに飛騨の国へ目指して下向されました。

頑張ってくださいね。

追記。

内藤殿に半年も戦い続ける武将なんて居ないよね~と何気なく漏らしたら、満面の笑顔でお屋形さまは数万の軍勢を率いて10年上洛されていたとか、お屋形さまのお父上は応仁の乱で主力軍として11年上洛されていたとか滾々(こんこん)とお話されました。

大内家って反則並みのチートなのね^^;




















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