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戦雲。

響恭也さま。

乾坤一擲で書かれているアイデアを快く拝借させて頂きありがとうございました。

今回の話は作者の妄想が暴発脱線して明後日の方向へ飛んでおります。

不快な方が居られましたら申し訳ございません。



1526年(大永6年)9月初旬~年末 京の都 綾小路邸。


綾小路 興俊 9歳。

 

秋に入ると隣国である丹波国の国人、波多野稙通はたのたねみち殿が八上城やかみじょうで、次いで弟の柳本賢治やなぎもとかたはる殿が神尾山城かんのおさんじょうにて管領の細川さまに対し謀反を起こされました。

波多野氏と言うのは稙通殿や賢治殿の父上が応仁の乱で戦功を上げ管領の細川さまの父君が丹波国に所領を与えたのが始まりです。

つまり子飼いの武将に管領さまは背かれた訳ですがその理由がもう一人のご舎弟、香西元盛こうざいもともり殿が讒言ざんげんにより管領さまに殺された事にあるそうです。

事の始まりは今年の初旬にありました。

以前訪れた兵庫津を治めておられる細川典厩さまのお話をしたと思いますが、その典厩さまが今年初旬摂津国の中嶋に堀城を築こうと普請されました。

中嶋と言うのは石山御坊と浪華三大橋で繋ぐ北側の中州の事です。

中州の南に渡辺津があり、別名渡辺島とも言われています。

北に守口宿そして東を流れる中津川に面して築かれたのが堀城です。

中州の中央天満山には前世の日本史で食神として出てくる織田秀隆公が天正戊寅てんしょうぼいんの食の変を引き起こした時の本陣で有名でした。

この食テロ事件、、、本来秀隆公にとって不名誉な事件の筈なのですが何故か?天正戊寅と言うネーミングを聞いて驚喜されご自分から流布されたと伝わっていました。

僕が居た平成時代にちっぱいとボインの論争が起き、大阪天満宮がボインの聖地となり、ボイン派の大きな子供さんとちっぱい女性が全世界から巡礼に来る世界有数の観光拠点でしたね。

天満宮のキャラクターがありふれたゆるキャラじゃなくて天昇ボインと言う年号の擬人キャラだったり、天満宮名物の鰻供養大祭うなぎのくようたいさいは、毎年6月7日正午に一斉に鰻を焼き始め出来上がった蒲焼を南(大坂城の方角)に向かって食べるお祭りです。

私も結婚前の嫁さんと一度行ったことがあります。

天昇ボインは縁結びの神様でも有るらしくて、こうやって鰻を食べると夫婦仲良く過ごせると評判でした。

でも、一部ではこの祭りに参加するのはちっぱいだけと言う誹謗中傷も有って国連の人権委員会からの勧告が何とかってニュースで言っていた気もします。

閑話休題。

話が逸れました。

そんな前世にも由緒ある中嶋に細川典厩さまはお城を築こうとされたんですが、管領さまの従兄弟だけあって同じ管領さまの武将、香西元盛殿が手伝いに人夫を派遣していました。

そして典厩さまの人夫と元盛殿の人夫が土一簀どいっかんで口論となり、双方の人夫が喧嘩をはじめたそうです。いったん両者とも引き分けましたが、腹の虫が収まらなかった元盛殿の人夫が城中に瓦等を投げ込んだりしたので、典厩さまの憎悪感は頂点になったそうです。

土一簀とは、九仞きゅうじんの功を一簣いっかんくの格言に出てくる土塊の事です。

前世では同じような意味で画竜点睛とかを良く使いますね。

つまり些細な理由でと言う言い回しです。

典厩さまは元盛殿が無学であるのを利用して、偽の謀反書を従兄で主君の管領さまにに差し出し驚いた管領さまが7月13日に元盛殿を謀殺したそうです。

元盛殿は凄い勇者で一昨年の前管領さまや阿波の細川さまの残党討伐で抜群の功を上げられましたが読み書きが出来ない人でした。

その為典厩さまに騙されて考えてもいない謀反を企てる書状へ署名しまったそうです。

そして激怒した元盛殿の2人の兄波多野稙通殿と柳本賢治殿は管領さまに反旗を翻したそうです。

香西氏と言うのは東讃が本貫ですが本家が絶えてた為、名ばかりの名跡のみ波多氏の元盛殿が継いだ家です。

その為、山城国嵐山城を本拠にその周辺を収めていました。

もうそこは京の都と目と鼻の先です。

10月になって管領さまは両方の城へ討伐の兵を起こされました。

管領さまと丹波守護代たんばしゅごだい内藤国貞ないとうくにさだ殿が神尾山城へ向かわれ、瓦林かわらばやし修理亮しゅうりのすけ殿や池田弾正いけだだんじょう殿が八上城へ向かわれたそうです。

しかし波多野殿に同情的な内藤殿は10日も包囲せず兵を纏めて引き上げられ、11月の終わりに黒井城くろいじょう赤井五郎あかいごろう殿が3千の兵を率いて神尾寺城包囲軍の背後から襲い掛かったそうです。

そして赤井勢にも大きな損害がでましたが包囲軍を打ち破ったそうです。

この敗報を知った八上城の包囲勢も翌12月1日囲みを解いて退却しました。

しかしこの退却の途中で阿波の前管領さまの遺児六郎さまと通じていた池田弾正殿が瓦林修理亮殿らに一斉に矢を射かけ、管領さまの軍は散々なていで京へ逃散しました。

波多野稙通殿より知らせをうけた細川六郎さまは、三好筑前守殿と一緒に殺された弟三好越後守みよしえちごのかみ殿の第2子三好勝長みよしかつなが殿、第3子三好政長みよしまさなが殿に出陣を命じ、阿波国より堺に上陸12月13日に新築バリバリの中嶋のにある堀城を占領されました。

何だか再び京の都がキナ臭くなってきました。




【天正戊寅の食の変】     ~SPQRのウィキより抜粋~


天正6年(1578年)摂津国石山御坊を包囲していた織田方の武将織田秀隆が起こした食テロ事件。

当時まだ珍しかった鰻の蒲焼を石山御坊の風上で大量に焼きその煙の香ばしさを以て本願寺門徒の士気をどん底に落とした事件。

又、その後の大騒動を言う。

石山本願寺包囲戦に於いて、大坂いしやま城の北にある淀川を挟んだ渡辺島の天満山に本陣を置いていた秀隆の命により、天正6年6月7日正午、前日までに準備していた鰻を風向きを確認したうえで料理人たちが一斉に焼き始めた。

炭火で焼かれた鰻が身の脂を火に落とし始め、四半時後にはもうもうと香ばしい黒煙が本願寺門徒を襲った。

一説にはその時焼かれた鰻は30万匹とも言われている。

空腹を刺激する匂いに切れた門徒は煙を追って淀川にかかる渡辺橋を渡ろうとして織田方と激しく交戦した。

織田方に侵攻を阻まれた本願寺門徒は、後から我も我もとやってくる門徒に押され潰され橋より川へ転落した。

焼かれた鰻を対岸で見つめる門徒たちの前で織田の兵が旨そうに喰らったと言う。

石山御坊を襲った鰻の煙はその後風に流され、方向を変え北に流れた事により更なる騒動を引き起こす。

折しも5月13日に京の都が類を見ない集中豪雨に襲われ家を失った住民が当時伏見や山崎周辺に溢れており、鰻の噂を聞いた住民が土一揆となって淀川沿いに南下6月8日の早朝守口宿に陣を置いていた河内勢を襲い蹴散らした。

更に北河内川と大和川を渡り美濃勢と激しく戦った。

しかし異変を知り大和道の抑えとして中道本庄に陣を置いていた滝川一益が救援に駆けつけ撃退に成功。

土一揆勢は霧散した。

一連の騒動での死者は定かでないが下流域に陣を置いていた中川瀬兵衛は、河口域の敦津浦に3000を超える遺体が上がったと報告している。

織田信長は秀隆を叱責し、残っていた鰻を全て没収したと伝えらている。

この事件は宮中でも話題になり勧修寺晴豊が日記に記述している。

京では夏のバテ解消に古来より鰻や鱧が食され万葉集の歌にもなっていたが信長が宮中で鰻の蒲焼を実演調理して献上したのを機に京では鱧より鰻を珍重するようになった。

又、織田の鰻と言えば、現代においては怒髪天を衝く程ムカつく事を言う。









前世の話と銘を打っていますがウィキは全く事実ではございません。

書いてる当時の武将配置や地理はかなり正確ですが、事実と誤解なさらないようお願いします。


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