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対馬へお使い、いえ、戦い。

資料探し協力ありがとうございました。

1525年(大永5年)春 周防国 大内館 ~ 壱岐国 亀丘城 ~ 筑前国 博多。


綾小路 興俊 8歳。


お身内の一人と言う事になった僕はそれから何度もお屋形さまとお会いしお話をさせて頂きました。

その中でもっとも強く印象に残ったのが当時の大内氏や幕府の経済政策です。

経済と言う言葉自体後世の言葉で、全てをまつりの一言で治めてしまうほど原始的な室町時代の政治だと思っていましたが、正直馬鹿にしていました。

今回この大内館へやってくる表向きの原因となった寧波の乱。

その大本となる勘合貿易を何故室町幕府が朝貢をしてまで行っていたか?

皆さんは判りますか?

日本史の授業では大量の銅銭(永楽銭)が日本に流入したと習いました。

しかし、現実を見ると古い輸入通貨の宋銭の方が西国では値打ちがあり永楽銭を含む明銭は嫌われます。

この明銭より古い宋銭を尊ぶ理由はすぐに判ります。

よその国から貿易でどんどんお金を輸入すれば物価は高くなります。

インフレの直接的原因である明銭よりこれ以上増える事のない宋銭が貴ばれるのは当たり前であり、同じ銅銭でも価値が変わるのは仕方が無い事です。

現に銭を選り好みする撰銭えりぜにを禁止する法律を最も早く出したのが大内氏です。

そして最も多く撰銭禁止令を出したのが幕府と大内氏です。

当たり前ですね。

遣明船で持ち帰った銭の最大の受益者は大内氏と幕府又それを支える細川氏なのですから。

しかし持ち帰る銭の値打ちがどんどん下がるにもかかわらず、どんどん持ち帰ったのには理由があります。

平安末期、源平合戦の直前に平清盛は日宋貿易を行い莫大な利益を上げました。

それによって畿内や瀬戸内、北九州などの受益者が商業活動を活発化させ多くの港湾都市が発達しました。

奈良時代以降ほとんど行えなかった大規模工事を只の一氏族に過ぎない平氏が各地で行えた原動力でもあります。

しかし貨幣経済の伸長から取り残された地域は経済的収奪地域となり各地で源氏が蜂起し源平合戦が起きました。

旗印となった源氏にとっては親の仇とか令旨とかが大事ですが、それを支えた豪族にとっては経済戦争だった訳です。

平氏がどんどん日宋貿易の道を西へ移動し抵抗するさまは、カルタゴとローマの戦争のようです。

経済戦争なだけに手打ちが出来なかったのですね。

そして莫大な宋銭が残りそれを原資に鎌倉時代は物々交換から貨幣経済へと深化する訳ですが、生産も輸入もしていない宋銭は限りがあります。

そこで起きたのが物価下落デフレです。

モノよりお金の方が少ないのでどんどんモノが安くなりますよね?

それに対処するために日銀総裁の義満公は異次元緩和を発令!

日明貿易による銅銭の大量流入です。

前世の言葉で言うなら量的緩和で市中通貨量マネーサプライを増やして物価上昇インフレに戻します。

こんな感じですね。

デフレと言うのは不景気と同義語なので、最終的には貨幣経済が破たんして物々交換に戻ります。

それを留める為の必要処置と言うのが勘合符貿易だった訳です。

日本の面子を考え朝貢貿易を批判的に捉えながらそれでも全面的に五山の高僧が反対しなかった理由でもあります。

しかしこの時代正確な流通量を知る機関も人物も存在しません。

その為室町時代の日本経済は経済成長による銭枯デフレれと遣明船による通貨流入インフレを不安定に行き交う事になりました。

因みに東国で宋銭より明銭が流通しているのは、応仁の乱で30万とも言われる兵士が京の都で長期滞在したのに畿内では撰銭が横行し地方から宋銭を吸収し続けた為に東国の宋銭が少なすぎて流通貨幣としての価値が喪失し明銭が置き換わるように大量に流入したからだと言われています。


さて今回の寧波の乱はどちらに影響すると思いますか?

既に乱の影響は周防国内でも見られ土一揆の兆候があると噂もあるそうです。

入ってくる予定だった通貨が細川氏と大内氏の小競り合いでふいになり、明国の対日感情悪化で今後の通貨供給も未定。

当然デフレです。

その為、堺は堺銭さかいせんと呼ばれる私鋳銭の大量発行を決めたそうです。

作っても作っても安く買い叩かれるのは商人の町、堺にとっては自明の理。

それでも堺にとって貨幣経済は自分の飯の種なのでインフレを目指すために私鋳するのだそうです。

しかし堺は政敵細川氏の膝元な訳で、堺銭が大規模に出回り経済の主導権を取られるのは避けたいのが大内氏。

その為に素早く明との通交を回復する必要があり、日朝貿易を通して同じ遣明船を派遣している国として朝鮮にも大内側の釈明と遣明船再開の希望の仲介をして欲しいところなのです。

そして今回の僕への襲撃騒ぎ。

対馬の宗氏は日明貿易の窓口であり本来なら朝鮮への重要な役割を果たして欲しい。

しかしお互いが納得する手打ちなんて凄く時間が掛かる。

そして僕のお婆さんの件があって、身内への危害に譲歩はあり得ない。

武士が引いて行けない時に引く事がどれ程の罪かお屋形さまのお父さんから滾々(こんこん)と諭されたそうです。

因みに天王寺屋の若旦那は寧波の乱の結末を担当の奉行に簡単に聞いた後、博多の湊に船を進めたそうです。

そこで詳しい被害状況や市中の銭の廻り具合や堺銭の扱われ具合を見聞するのだとか?

お師匠さま達は僕の猶子お披露目までは居てくださったのですが、同じく九州の大友さまに用事が出来たとかで兄弟子さん共々旅立たれました。

もしかしたら今回の対馬攻めに関して大内氏と大友氏の間の使僧を仰せつかったのかも知れませんね。


そして着々と進められる戦支度。

その間僕が何をしていたかと言うと、歌と連歌の指導です。

内藤弾正忠殿に僕もすべきことがあるのでは?

とお聞きしたら今回の総大将としての役割は本当に神輿みこし以外の何者でもないので何かをされたら困りますと言われました。

基本的に毎回代替わりごとに跡目争いで真っ二つに争うのが大内家。

お屋形さまもご舎弟さまと家督争いをされていますが、大内家を7代遡って家督争いをしなかったのは3代前と7代前の2例のみ。

因みに7代前と言うのは足利初代将軍の尊氏さまの代との事です。

そのような家なので猶子と言えどもいつ家督争いの神輿に担ぎ出されるか判らないのだとか。

僕もイケメンの義兄上様うえさまと戦いたいとは思わないので素直に従います。

因みにどなたに和歌のご指導をしてるのかと言うと、上さまの実のご舎弟の大内九郎二郎おおうちくろうじろうさま。

九郎次郎さまは体が弱くもう長くはないとの事で、元服はされているのだけどお屋形さまの手伝いとかは全くされていないのです。

その為体調の良い時に歌や連歌を教えて欲しいと頼まれているのです。

歌や連歌と言っても好まれるのは旅の歌。

それも先人の歌でなく僕が作った歌なので拙いですがそこが良いと言ってくださいます。

又、桃太郎のような勝手解釈(捏造)の物語も喜んでくださったので、イソップとかアンデルセンとかジプリとかを著作権無視で今様に創作してお話ししました。

大変喜んでくださって本当に嬉しかったです。


3月初め、僕を襲った対馬国の宗氏を討伐する軍勢の準備が整ったとの事で周防国の大内館を出発しました。


主将 綾小路興俊

副将 内藤弾正忠

与力 冷泉下野守れいぜいしもつけのかみ

    陶右馬允すえうまのいん

    宗像正氏むなかたまさうじ

    麻生興益あそうおきます

    城井常陸介しろいひたちのすけ

    波多下野守はたしもつけのかみ


周防から長門、豊前、筑前の各水軍、国人を糾合して博多に到着しました。

冷泉下野守殿は大内氏の一門ですが母君の冷泉少納言から名を取って冷泉家を称するようになった人物です。

因みに僕の乳母、少納言はこの人の奥さんです。

僕がしばらくはこちらに落ち着きそうなので、少納言もこちらへ戻って来るそうです。

陶右馬允殿は先の戦で活躍した陶中務少輔殿の従兄弟です。

僕に付いてくださる方は文人肌の武将さんが多く話が合って嬉しいです。

博多に到着後、陶右馬允殿は手勢2000を率いて少弐氏討伐に分派するそうです。

少弐氏は対馬国の宗氏を服属させるなど北九州に力を持っていました。

しかし僕が生まれる前に大内氏に攻められ滅亡し宗氏も九州の所領を全て喪失しました。

その後家臣に助けられ再興したそうです。

しかし、昨年、家臣の馬場頼周ばばよりちかが娘と孫に会わせると大内方で岳父の筑紫満門(つくしみつかど殿を居城に誘い出して殺害し反大内姿勢を明確にしました。

幾ら戦国の世とは言え、こんな外道は嫌いです。

別れ際フレ~フレ~と心の中で応援しながら送り出しました。

軍勢は更に肥前へ進み有力な水軍衆、松浦まつうら党と合流しました。

肥前松浦氏は近年勢力を伸ばし対馬国と九州の中間にある壱岐国を支配下に置いて対馬の宗氏と対立してきた大内家の盟友だそうです。

源平合戦の頃、九州は平氏の支配するところでした。

しかし壇ノ浦の合戦までに平家の衰勢は明白となり、九州の国人も源氏に付くようになります。

それらが秋月あきづき氏や蒲池かまち氏、菊池きくち氏や松浦氏でした。

しかし鎌倉幕府は元々平家側だったこれらの御家人を信用せず、島津氏や大友氏、少弐氏を目付として九州各地に送り込みました。

これらの御家人を下り衆と呼ぶそうです。

下り衆の下に付けられた在地御家人は当たり前ですが彼らと反りが合わず鎌倉時代から今に至るまで騒乱の元となています。

大友氏の下で比較的友好関係を築いてきた蒲池氏ですら筑後最大の大家であるが故に、大友氏より警戒され最近兄弟で所領を分割させられたそうです。

そのなかで周防国の大内家は在地御家人ですし、松浦氏と似たような境遇からの出発点と言う事で仲が良いのだそうです。

水軍衆と言うと小早こはや関船せきぶね安宅船あたけぶねそして鉄甲船てっこうせんを思い浮かべます。

本陣を置く大安宅船が一隻。

これは僕と内藤弾正忠殿が乗る三層の総矢倉を構えた当代の弩級戦艦です。

全長34m肩幅7.6mで両舷側に38挺の櫓を持ち巨大な1枚帆を持っています。

兵士150人水主120人が乗っているそうです。

この船を中心に大安宅船と言われる船が5隻、周囲を取り囲み中小の安宅船や大小の関船が更に外周を取り囲みます。

そしてその先を横列に物見船がその後ろを射手船が進みます。

又それらの船の間の隙間を埋めるように小早が行き交い、後続に馬船や兵糧船、水船などが続いています。

これら250隻号して2万の軍勢が壱岐国の郷乃浦ごうのうらに入り亀丘城かめおかに本陣を置きました。

ここは壱岐国を領する波多はた氏の領国経営の拠点でもあります。

しかし春一はるいちと呼ばれる強風で海が荒れた為、ここで10日風待ちとなりました。

その後風が和らぐと、志佐しさ氏、佐志さし氏、呼子よびこ氏、鴨打かもうち氏、塩津留しおつる氏など波多氏の与力が先陣を切って、先遣隊が対馬国の下県郡しもあがたぐん南端の豆酘湾つつわんに上陸、宗氏の根拠地である府中城へに向かって北上したそうです。

ところがそこから数日もせずして、宗氏家中で内訌ないこう、、、いわゆる内輪揉うちわもめが起こりました。

そして宗刑部少輔殿は伯父の宗大和守そうやまとのかみ殿に城を囲まれ為に城を退去して家臣に庇護を求めました。

しかし、拒否されて先遣隊を纏めていた陶右馬允殿に突き出されたと言う話ですが、、、

なんとも身も蓋もない結末です。

直後に大内軍に降って来た大和守殿の処遇や論功行賞などは僕の裁量する分限ではないので、虜囚の刑部少輔殿やその一族、降った大和守殿やその他の国人たちの仕置きをお屋形さまに問い合わせる為の小早を周防国へ出しました。

今回僕に従ってくれた諸将に一人一人声を掛け、丹念に調べさせたその功を皆の前でなるべく大袈裟に賞します。

今回逆にあまり手柄を立てられなかった将には人を遠ざけて注意します。


「褒める時は人前で!説教は一人の時に!」


前世、社会人になって培った常識ですね。

その後冷泉下野守殿を対馬国府中城に代官として置き、遠征軍は来た道を同じように戻っていきました。

冷泉下野守殿はこれから特送船とくそうせんと呼ばれる緊急使節として、朝鮮の乃而浦ないじほに渡り更に都の漢城府かんじょうふでこれからの日朝貿易について話し合うそうです。

これには日明貿易に絡む交渉もあり直ぐには戻れないと仰られていました。

そして軍勢が博多に戻って来た時、周防から急使が有り、周防国で徳政一揆発生の報を受けました。














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