おもうさん。
2018年(平成30年)京都市 三条堀川付近。
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1518年(永正15年)京の都 綾小路邸。
糸冬 了 (いとふゆ りょう)44歳。
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綾小路 数麿 (あやのこうじ のりまろ)当歳。
出張で立ち寄った古都、京都で、運悪く、暴走軽トラに轢かれた。
小説のパターンだと、暴走するのは、大型トラックとか、ダンプカーなんだが、現実、テレビで見ていると、軽トラに乗った高齢者さんが、アクセルとブレーキを間違えるとか、意識を失うとか、そちらの方が良くある話で、そして残念ながら、僕もその犠牲者となるらしい。
まるで、走馬灯のように、ゆっくり流れる車の中で、パニくってるお爺さんの顔が最後の景色だった。
その後、意識が覚醒すると、わんわんと大声で誰かが泣いている。
その声が、自分だと理解するまで、結構な時間が過ぎた。
泣き止んで、静けさが戻ってくると、周囲の音が耳に入ってくる。
落ち着いて耳を傾けると、少しばかり状況が判ってきた。
どうやら僕は、昔の日本に転生したらしい。
うっすらぼんやりで、ほとんど目が見えないから、生まれたばかりだろう。
こんな状況で、頭だけ明晰ってのは気味が悪いが、車に轢かれて転生ってのは、もう二十年以上も使い古されたテンプレである。
今更文句を言ってもしょうがない。
歴史ものだと内政チートかな~と内心にまにましながら睡眠と言うお仕事に突入した。
1519年(永正16年)京の都 綾小路邸。
綾小路 数麿 2歳。
転生モノのチートたる所以は、兎に角、主人公が早熟である点だ。
起きてられる時間は最大限、体を動かす事に費やし、食事(授乳)、排せつ、その他は、泣き声の調子を変えるなどして、効率良くコミュニケーションに勤しみ、乳母との関係性も良好なものを築いてきた。
尾張のお漬物と違い、乳母の乳首を嚙んだりはしない。
僕は、今も昔も、そんな特殊性癖の持ち主では断じて無いからな。
2歳ともなると、首が座り、片言ながらも喋ることが出来るようになり、自分の置かれた立場と言うものも多少は判るようになる。
先ず、僕の家族は、お父さん(おもうさん)ただ一人らしい。
最初にこの世に覚醒した時、僕のお母さんは、既に黄泉路に旅立って居たらしい。
そして、もう一つ。
お母さんが亡くなった直後、父方のお爺さん、綾小路前按察使入道さんも、亡くなったらしい。
産まれたばっかだったので、全然気付けなかったよ。
そして、お父さんの名前は、綾小路 資能 (あやのこうじ すけよし)。
宇多源氏の流れを汲む羽林家(堂上家)の一つで、家業として、雅楽の師範を務めて朝廷に仕える貴族らしい。
現在、従四位上 右近衛中将 で、丹後の介を兼ねているらしい。
問題は、今が応仁の乱後の戦国時代で、王朝貴族物語など望むべくも無いと言う事かな?
永正16年と言われても、戦国時代が、せいぜい某歴史シミュレーションゲームの六天魔王の野望程度の知識しかない僕には荷が重い。
天正も永禄も知ってるけど、永正って何だよ?
ひょっとして、パラレルワールドにでも入ってる?
歴史とか人物名とか、改変掛かり捲ってたら、歴史チートの半分が無くなるんですが。
後は、家族みたいなものとして、乳母の少納言。
どこかで、草紙でも書いて無いか心配な名前だけど、高飛車でも、インテリでも無くて優しい人です。
まぁ~美乳なのは、少し残念かも。
で、乳兄妹の良子。
普通の赤ちゃんです。
僕がなるべく普通の幼児である為の、ある種の鏡ですね。
まぁ~ハイハイが出来るようになって来た身としては、お兄ちゃんらしく、彼女の相手も見ていますよ。
彼女がすくすく育ち、早熟であればある程、僕も本当の自分を出せますしね。
あとは、家人が何人かいる程度です。
家業の雅楽と言うのは、和琴や箏などの弦楽器、笙や篳篥と呼ばれるいわゆる笛。
そしてそれらを伴奏として歌い上げる郢曲と呼ばれる歌唱をメインにしているらしい。
前世で、子供の頃に、ピアノを習い事として通ってたし、高校、大学時代は、部活やサークルで、軽音部に所属してギターは多少使える。
でも、そんな古典的な楽器、触ったことも無ければ、存在を知らなかった楽器もあるよ。
将来の飯の種と思って、気合い入れて学ぶしかないね。
チートが役に立つ場面が全く思い浮かばないよ。
1520年(永正17年)京の都 綾小路邸。
綾小路 数麿 3歳。
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綾小路 有興 (あやのこうじ ありおき)3歳。
今年は、年初から騒がしい年だった。
昨年の師走に、管領の細川さまと争っている前管領の阿波の細川さまの被官、三好筑前守と言う方が、摂津の戦で亡くなったと言う噂が、京の都で広がり、公家から町民まで、皆が喜んで居ると乳母の少納言が話していた。
人の死を露骨に喜ぶのも何だかな~と思いつつ、話に水を向けると、成りあがりの田舎者を都人は嫌うと言う事らしい。
要は、他人の成功を妬んでるだけで、その方が、都の人々に何かをしたと言う訳では無いらしい。
こう言うのは、何だか嫌だな~。
と、思っていたら、この戦の余波で、近隣の農民が京の都に乱入し、土一揆が発生した。
そして、あろう事か、正月12日、将軍御所を農民たちが放火した。
少納言がまるで見てきたように話すものだから、びっくりだよ。
幾ら、応仁の乱以降、将軍家の権威が落ちてるからって、正月早々、自宅を焼け出された将軍様が可哀そう過ぎる。
2月には、三好筑前守が京の都近くまで来て、慌てて、管領の細川さまが近江へ逃げ出したと聞いた。
でも、将軍様は逃げ出さず、都に留まっていらっしゃるらしい。
まぁ~火事で焼け出され、兵火で逃げ出してでは、武家の棟梁とは、何ぞや?と幼児の僕でも問いたくなるからね。
3月に入って、伏見とか、都周辺を略奪しながら、三好筑前守が入京した。
その少し前に、鸞岡 瑞佐 (らんこう ずいさ)と言う京都五山のお坊さんを正使とした遣明船の一行が、明に向けて出発した。
この遣明船の話で、やっと、今の時代が、応仁の乱から少し後で、桶狭間の戦いよりずいぶん前、僕のイメージ的に、1500年付近?と考えるようになった。
下手すると、北条早雲とか生きてる時代か?
でも、それをどうやって聞き出すか?
幼児の身では、方法が思いつかない。
5月に入り、前管領の阿波の細川さまに、将軍さまが細川京兆家の家督相続を許可したとの噂があった。
家督相続を認めたと言う事は、阿波の細川さまが、管領に返り咲いたと言う事なんだけど、その直後の5月3日、管領の細川さまが率いた3万とも4万とも言われる大軍が上洛し、等持院と言うお寺周辺で、激しい戦を起こした。
少納言が、盛んに罰当たり、罰当たりって言ってるので、理由を聞いたら、僕もぶったまげたね。
なんと、等持院と言うのは、足利将軍家の菩提寺。
ここに本陣を構えた三好筑前守も相当だけど、全く気にせず、烈火の勢いで攻め立てる管領さまも凄いよ。
ここは、室町幕府の殆どの将軍さまの墓があると言う事で、戦国時代もこれに極まれりと、僕でも思ったよ。
で、まぁ~衆寡敵せずと言うか、当たり前と言うか、4万の軍勢に、数千の軍の勝敗なんて明らかで、負けた筑前守は、京からの脱出に失敗して、何とかって言うお寺に隠れたらしい。
で、管領さまが、お寺に引き渡しを要求したんだけど、寺は断ったらしい。
でも、管領さまが、命の保証を筑前守に保証したら、三好一党は、降伏を選んだんだって。
戦国の世も極まってると言うのに、甘いよね。
筑前守は、その日のうちに斬首、息子二人も、翌日には殺されたと言う話。
もう、なんかね。
信用って何だろうって思うよ。
翌月の6月10日には、前管領の阿波の細川さまも病死で、亡くなったとか。
諸行無常の儚さを感じました。
でも、これで、京の都を騒がしていた兵火も少しは穏やかになるだろうね。
8月には、9月に宮中で、朝霧太夫と言う人が、女曲舞を披露すると言う事で、打ち合わせも兼ねて、我が家でリハーサルをしたんだ。
曲舞と言うのは、古典文学の物語を韻律に改変し、節と伴奏を付けて舞うんだ。
女曲舞は、女の人が男装してする曲舞だよね。
で、それを見た感想は、一言。
宝塚!!
白拍子と違って、女の子がきゃ~オスカル様~って言いかねない舞でした。
でも、これって、僕も知ってる奴ある。
『人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。』
舞い終わってから、自覚しました。
やっちまった~!!
数えで3歳、前世なら2歳の言葉もやっとしゃべり始め、ハイハイかヨタヨタ歩きかって幼児が、敦盛だよ?
生まれて直ぐに、天上天下唯我独尊なんて言う厨二の痛い人と同じくらいにあり得んわ。
上目使いでチラッと皆を覗くと、お父様も朝霧大夫も、少納言も、もちろん、音合わせに来てた伴奏の皆さんも、みんな固まっていました。
それからの騒ぎは、報告したくない。
結果論で言うと、私の息子は天才だ~と親バカ全開で舞い上がったお父様が、宮中でもバカ騒ぎを起こし、それを聞きつけたお主上の思し召しで、僕も一指し舞う事になりました。
でも、知ってるのは、この有名な一節だけ。
9月の本番まで、舞い上がった教育パパによって、スパルタな練習が繰り返されるのでした。
でもね、所詮、幼児の発表会。
朱色の水干に赤大口、金色の立烏帽子。
精一杯の衣装で、トテトテ。
キメもキレも何にも無い、良く言えば、大変微笑ましい舞でした。
敦盛の寂の部分なのに、儚さって何処?って感じだけど、皆さんには大変受けました。
傾く方向性から真反対の学芸会の出し物に、お主上は、綾小路家の最初の官位である従五位下と、侍従の職をくださいました。
お父さんが言うには、何でも、今のお主上は、在位21年目なのに、世の中が乱れ、お金が無いから、未だに即位の礼が出来ないって事で大変、お悩みであるとの事。
今年になって、管領様の覇権に一応目途がついたと言う事で、幕府より纏まった献金があり、最近、羽振りの良い新興の本願寺も、同調して献金したので、もう少しで、即位の礼の資金に届くらしい。
なので、お主上の第一の藩屏たる公家も非力ながら資金集めに協力し、なるべくお金の係る行事の自粛を呼び掛けて、コツコツ資金集めをしてる最中とお父さんは話してくださった。
それで、行事が幾つか欠けて、元気が無い宮中だったけど、来年には、即位の礼が行える目途が立ち、今回の学芸会が、宮中の明るさを取り戻す切欠になったとして、お主上があんなに喜ばれたんだろうと・・・
年の前半に、余りにも身も蓋もない乱世の現実を見たので、お父さんの話を聞いて、大変、心が温かくなりました。
1521年(大永元年)京の都 綾小路邸。
綾小路 有興 4歳。
即位22年目にして行われる即位の礼。
その日が近づくにつれ、昨年、戦火に塗れた京の都も、明るさをずいぶん取り戻したように思う。
しかし、即位の礼の半月前に、それに水を差したバカたれが居る。
何を隠そう、将軍さまだ。
いや、今は前将軍さまだよね。
前年の都での兵乱の折、将軍さまが、阿波の細川さまに京兆家の家督を認めて、将軍さまの後見人を任じていた管領の細川さまの顔に泥を塗った事件で、即位の礼の直前になって、将軍さまは、怖くなって都を出奔したんです。
もうね、それを少納言から聞いた僕が悲しくなりました。
武家の棟梁とは何ぞや?
武家とは、極道と似たようなモノでしょ?
引いて行けない時に尻を捲るようでは、誰も付いて来ない。
管領の細川さまに、裏切り者の将軍さまが嫌がらせをされるのは、自業自得だけど、将軍家の権威、ひいては、武士の面目って、貴方のモノだけじゃないでしょう?
幕府の要職の方々が、ほとんど、将軍さまを見限って、京に残ったのも当然だと思う。
こんな世の中だからこそ、命より大切なものもあるんだと思う。
当然ながら、即位の礼で、予定されていた、お主上の警護と言う、晴れあるお役目をドタキャンした将軍さまに、お主上はブチ切れ、代役を果たした管領の細川様の意向を認め、将軍さまを罷免、備前に居られた亀王丸さんって方を、12月に新しい将軍さまにされました。
当然ですね。
即位の礼も行ったと言う事で、心機一転、改元がされました。
永正も判らない元号だけど、大永ももっと判らん。
一体、今は西暦何年なんだ?~
1522年(大永2年)京の都 綾小路邸。
綾小路 有興 5歳。
昨年に続き、今年もお祭り気分からのスタートだったんだけど、でも、長くは続かなかった。
新しい将軍さまが、25年ぶりに新しい官職を任命する儀式を開催し、お主上の即位の礼、改元に続き、幕府も将軍が代替わりし、新しい良い時代の到来を予感させ、僕はうきうきしていた。
我が家でもお父さんが、従四位上から正四位下に進み、お父さんのお弟子さんとか、沢山の方々がお祝いに来てくださった。
でも、良かったのは此処まで。
秋頃から、急にお父さんの体調が悪くなり、もうこれはと言う辺りで、出家され、最後の望みに掛けたんだけど、功徳の甲斐なく、数日で亡くなったんです。
僕はもう、茫然としてて、少納言や家人達が、何とかお葬式をしてくれたけど、喪主の僕は何一つ覚えていない。
僕がお主上から、官位を授かり、幼いけど、元服となった時、烏帽子親となってくださった公卿と、お話しした時、僕が頂いた諱、有興は、有が綾小路の通字で、綾小路を再び興すと言う意味があるから、家業を良く修め、頑張りなさいとの言葉を頂いた。
でもね、お父さん、褒めてくれる人が居ないと、頑張れないよ。