俺のこと好きだって言ったくせに
「藍君、もう七時半だよ。起きて」
俺はいつものように目を覚ます。雀の鳴き声が聞こえる爽やかな朝。時計はアラームを設定した時刻の五分前を示している。何が七時半だ、大嘘つきめ。先ほどの声の主を振り返ると、そいつはカーテンの隙間から差し込む朝日にも負けない爽やかさで言った。
「おはよう!」
「…はよ」
朝から迷惑なほど明るい女だ。名を有薗和花という。家が隣同士で、物心ついた時からの俺の幼馴染。毎朝、頼んでもいないのにアラームが鳴る前に俺を起こしに来る。当の本人は六時前に起きて呑気に弁当を作るぐらい朝型だからいいかもしれないが、午前二時までゲームに明け暮れていた俺にはたまったものじゃない。
「ほら、起きて起きて。朝ごはんは下にできてるから」
「…おお」
家が隣同士の幼馴染が毎朝起こしに来る、なんて言えば漫画じゃ恋愛の定番らしいが、俺達にはそんな甘ったるい空気は微塵もない。第一相手が問題だ。漫画の中の幼馴染ヒロインといえば童顔のくせに胸が大きかったりとかツンデレだったりとか、何かしら可愛い要素があるもんだが、こいつ、和花にはそんなものはない。
何を隠そうもさいのだ。まずその髪型がいけない。ぱっつん前髪に肩で切り揃えたおかっぱ頭、それが幼稚園の頃から十二年間不動とはいったいどういうことか。まだある。その制服の着方だ。中学の頃と違ってスカートの丈は膝が隠れる程度!なんて野暮な校則があるわけでもないのに、なにゆえ買った時のままの長さで着ているのか。
化粧っ気がなく、地味を代名詞したような容姿。名前もぱっとしない。高校デビューとはもっとも縁遠い人間。それが有薗和花という人間だ。
「これ今日のお弁当。私今日日直だから、先に行くね」
手渡された弁当箱は、すでにハンカチで包まれていた。
毎朝部屋まで起こしに来て、朝ごはんを作って、ついでに弁当を寄越してくる。それは幼馴染というよりは、母親という感覚に近い。
物心ついた時には共働きで忙しくしていた両親に代わって、俺の面倒を見てくれたのは和花の母親だった。毎日入り浸ってはテレビを見たりおやつを食べたり、とにかく一日中隣家で過ごした。頻度が減った今でも勝手知ったる他人の家なのに変わりはない。だから毎日食事を作る幼馴染に母親に似た感情を抱くのは当然のことだと思っていた。
入学式を終えてから早二ヶ月。初めての中間テストを終え、高校生活にも慣れてきた日の昼休み。俺はいつもの仲間と弁当を広げていた。五月晴れの中庭。
自分はどうやらクラスでも派手でうるさいグループに属するらしい。男連中は合コンのセッティングに余念がないし、女子達は飽きもせずメイクだのスイーツだの恋バナだのに花を咲かせている。
卵焼きを口に放り込んだところで、友達の一人である大地が突然身を乗り出してきた。
「そういえば藍はどうなんだよ」
「…何が」
「だからー、このクラスで気になる女子だよ。ほら、有薗さんとかどうなの?幼馴染って聞いたけど」
「…和花がなんだって?」
「だからさ、付き合うとかちょっとでも考えたことあるのって話だよ」
「は!!!?俺が?あいつと?冗談やめてくれよ」
有名人の幼馴染とのゴールインが最近ニュースになっていたが、自分には遠い世界の話だ。和花と手を繋いでデートするとか、キスをするとか、ましてや童貞を捧げるなんてことは考えたこともない。俺にとってあいつはただの隣家の住人で、母親に近い存在でしかなかった。
「だよねえー、藍とは全然釣り合ってないもんね」
「ああいう子にはさ、真面目な優等生君がお似合いなんだよ」
女子が口々に言う。試しにクラスの秀才、田口を脳内で和花の隣に並べてみた。案の定それはしっくりきた。
「じゃあさじゃあさ、私とかどう?結構絵になると思うんだけど」
「はっ!?いきなり何言っちゃってるのお前」
「自分で絵になるとか普通言うー?」
明確に好きと言われたわけじゃないが、まあつまり彼氏と彼女の関係にならないかという誘いだろう。もう高一だし、このあたりで一度恋愛を経験してみるのも悪くないと思った。初めて仲良くなった大地は入学してから十日で彼女を獲得していて、これ以上後れをとるわけにはいかなかったのもある。それに伊万里のことは嫌いじゃなかった。
「じゃあ、付き合うか?」
随分幼稚な恋愛観だと、笑いたいなら笑えばいい。高校生の恋愛なんてそんなもんだ。
かくして五月某日、俺に人生初の彼女ができた。
彼女ができたから弁当はもういらない。有薗家での夕食の最中そう伝えると、和花は何故か泣きそうな顔で笑った。いつもへらへら笑っている和花には似つかわしくない。一人で思案しても答えが出るはずもなく、俺は早々に考えることを放棄した。
「じゃーん!藍のために作ってきたよ、お弁当!」
五月下旬の昼下がりの屋上は想像以上に暑く、少しずつ体力を消耗していく。二人きりで屋上で食べようという伊万里の提案にあっさり乗ったことを後悔した。こんな日に屋上で食べようなんていう生徒はいないのか、この場所には俺達以外に人の気配がしない。
青いハンカチに包まれた弁当箱を受け取る。何故か今日は和花が起こしにこなかったせいで朝ごはんを食べ損ねたから、とにかく腹が減っている。気を抜くと今にも腹が大合唱を始めそうだ。
今日食卓で文句を一手やらねばなるまい。弁当はいいとは言ったが、朝起こしに来るのはよせと言った記憶はない。
「でも本当によかったの?あの幼馴染さんのお弁当もあるんでしょ?」
「いや、あっちは断ってある。さすがに弁当二つは食べきれないからな」
ハンカチの結び目をほどいた途端、肉の香りが鼻をくすぐった。唐揚げでも入っているのかと嬉々として蓋を開けると、和花の弁当では絶対に見ることができないであろう彩りが広がっていた。
「おいしそうでしょ?五時起きして作ったのよ」
その努力は純粋にすごいしありがたいと思う、だがこれは。俺はもう一度弁当箱の中身を覗き込んだ。
たった一つしか入っていない唐揚げの隣に、ハート形のハンバーグが鎮座している。その奥にある卵焼きもハート形。そして真っ赤なウインナーに刺さった動物のピック。見た目が可愛い方向に偏りすぎていて、こっちが恥ずかしくなる。そして何より量が少ない。目測でも、昨日まで食べていた量の三分の二ほどしかないように見える。
不満とまではいかないまでも違和感は色々とあったが、まさか食べる前に文句を言うわけにはいかなかった。これが和花だったら何も遠慮はしないのに。
「い…いただきます」
「召し上がれ!」
卵焼きを口に放り込む。甘い味が口内いっぱいに広がった途端、感じていた違和感はよりいっそう濃さを増した。弁当で甘い卵焼きは食べたことがなかったからだ。
あいつが作るのはいつもしょっぱいし、時々食べる母さんのも甘い方じゃない。思わず箸が止まった。
「美味しく…ない?」
「………和花が作る弁当の方が旨い」
それは本当に無意識に出た言葉だった。伊万里を挑発するつもりで言ったんじゃない。別にこの弁当が不味いというわけじゃないし、目に毒というわけでもない。ただ自分の好みとはずれていたってだけで。
「…有薗さん?」
「あ、いや…」
料理なんてレシピ通りに作れば、誰が作っても同じだろうと思っていた。考えてみればあの弁当は量も彩りも味付けも俺好みだったし、嫌いなものは一切入っていなかった。中学の時から三年以上ずっと、それが当たり前だと思っていた。
「何?私は有薗さんと比べられてるわけ?」
「いや、今のは言葉の文で」
「冗談じゃないわよ。あの子相当料理上手いらしいし、比べられるこっちはたまったもんじゃないわ」
「え?和花って料理上手いのか?」
「はあ?幼馴染なのに知らなかったっていうの?信じられない。それに彼女の前で他の女の名前出すとか、ちょっとデリカシーに欠けるんじゃないの?」
…そんなこと言われても。だってあいつの料理はガキの頃から毒味させられてきたから他の味なんて知る由もない。それにデリカシー云々なんて、初彼女の俺に分かるわけないだろ。さっきまであんなにテンション高かったのにいきなり機嫌が傾いて、まったくもって意味不明だ。
「そこまで幼馴染に興味ない藍は知らないだろうけど、あんなにレベル高いお弁当毎日食べられるなんてって、羨ましがってる男子は結構いるんだからね?あの有薗さんを超えるって結構プレッシャーなんだから。なんにも分かってないのね」
「…ごめん」
「まあ、結局五時起きして作ってもあの子には敵わなかったわけだけど」
手に持っていた箸を置いた。あれだけ腹が減っていたのに、食欲が減退している自分に気付く。伊万里が怒っているのは分かる、でもどう慰めればその怒りが静まるのか皆目見当がつかない。
「そんなに美味しいの、あの子のお弁当」
「…どうだろ。でも俺にとってはあの味が当たり前だったし、もう食べられないことに自分自身戸惑ってるというか」
この気持ちを上手く説明できない。自分から断ったくせに、もう一度あの弁当を食べたいと思っている。和花は母親に近い存在で、それが離れたんだからむしろせいせいして然るべきなのに。
ただあの夕食の場で黙って頷いたあいつの態度が、なんだか悔しかった。
「なにそれ。じゃあ私は負け戦だったってわけ…」
「伊万里?」
「藍。私達さあ、別れよっか」
「え、は?」
今度こそ、目の前の人間の言葉が一ミリも理解できなくなった。彼女ってのはこんなに意味不明な生き物なのか。交際二日目にして心が折れそうだ。
「ちょっと待てよ。いきなりどういうことだよ。俺達付き合い始めたばっかりだろ」
「ごめん。このまま付き合い続けても私が虚しいから。それに有薗さんに悪いし」
「なんでそこで和花の話が出て、」
「藍さあ、あの子のことが好きだって早いとこ自覚した方がいいよ」
全然会話が噛み合わない。和花が好き?冗談じゃない!それは昨日伊万里の前ではっきり否定したはず。世の中の幼馴染全員に恋愛感情が生まれると思っているんだとしたら、明らかに少女漫画の読みすぎだ。
「キスしたりセックスしたいって思うことだけが好きじゃないでしょ。早く分かるといいね」
颯爽と立ち去った彼女の後ろ姿を、俺は呆然と眺めていた。
キスしたりセックスしたいって思うことだけが好きじゃないー
伊万里の言葉をずっと反芻している。相変わらずその意図は分からない。相手に性的魅力を感じないなら、それは恋愛感情とは呼べないんじゃないのか。逆に言えば、性的魅力を感じないのに長く一緒にいるのは惰性なんじゃないか。
俺は和花のことを女として好きなわけじゃない。これは断言できる。
もし好きなら、わざわざ放課後に呼び出されて告白された四年前のあの日、一も二もなく受け入れているはずだ。そうだろう?
翌日は土曜日で学校は休みだった。この週末、和花の両親が温泉旅行に行ったとかで朝早くから留守にしている。娘一人に留守番させるのは心配だからと、俺の家に泊まるよう言われたのは昨晩のことだ。若い男と女が一つ屋根の下で過ごす危険性を考えなかったわけじゃないだろうに。むしろ俺達の間に何も期待されていないということだろうか。
そういうわけで、今日は朝から和花が家にいる。朝ごはんを作って、洗濯機を回している間に掃除機をかけて、三軒先の家へ回覧板を届けるついでに食材の買い出し。家事が苦手な母親が四苦八苦しながらやっている諸々のことを、俺がテレビを見ている間に半分以下の時間で片付けた。肩を叩かれて首を回すと、今度は昼ごはんが食卓の上に並べられている。いつの間にか昼を過ぎていたようだった。
食器の音だけが部屋に響く。この場所には二人しかいない。沈黙に耐えきれなくなって口から飛び出したのは、随分と間抜けなセリフだった。
「俺ってお前のことが好きなのか?」
待て。いったい何を言っているんだ。立場が逆だろう。俺のことを和花に聞いたって分かるわけないじゃないか。
そうはいっても一度発した言葉を取り消すことはできない。案の定和花はぽかんとした顔をしている。
「あ、いや、違うんだ。俺じゃなくて伊万里が言い出したことで」
まだこいつには、一方的に別れを告げられたことは伝えていない。昨日の今日だからまだクラスの誰も知らないだろう。もちろん、週明けよそよそしい態度を取っていればあっという間に知れ渡ることになる。
「別に本気にしてるわけじゃねーんだ。多分家が隣同士だからって嫉妬したんだと思うんだよな。あいつも結構可愛いところあるなって」
「………」
「こうして一緒に飯食ってるし、俺達家族みたいなもんだろ?俺が和花を好きなわけないよな?」
「………」
「お前って二人目の母親って感じだからさ。母親を本気で女として見る奴はいないだろ?」
「…もし、藍君が私のことを好きでも」
「え?」
ずっと顔を伏せていた和花が、突然俺を見据えた。見慣れた笑顔に何故か恐怖を覚えた、次の瞬間。その爆弾は落とされた。
「私はもう藍君のこと好きじゃない」
「………え」
頭を鈍器で殴られたような激痛。一分だったか三分だったか、とにかく長いこと口が利けずにいた。何故か今の言葉にショックを受けている。
四年前のあの日、和花の頬は真っ赤に染まっていた。それは今も当然変わっていないと思っていた。俺達の間にあるものはすべて不変だと思っていた。
なんで、なんでだよ。俺のこと好きだって言ったじゃないか。
あの時酷い振り方をしたからか。冗談はやめろって笑ったからか。違うんだあの時は人生で初めて告白されてただ、気恥ずかしくて。
「和、花」
「ごめんね」
掠れた声はいつもの笑顔にかき消される。俺は心臓が壊れそうだったのに、お前はそんな平気そうな顔をするのか。頭が割れそうだ。
和花は今でも俺のことが好きなんだと思っていた。この手を伸ばせばいつでもその気持ちに触れられると思っていた。
自惚れるなと、目の前の双眼が象徴しているような気さえする。こいつはそんな人間じゃないのに。
「…別に謝らなくていいだろ。そんな真面目に受け取らなくていい。はっきり告白したわけじゃないんだから」
「でも…」
「でももし、もし俺が面と向かって好きだって言ったら、お前はまた俺を振るのか」
三十秒。一分。三分。幼馴染との沈黙を苦痛に感じたことは、今日この日まで一度だってなかった。
「藍君、私はね、十年待ったよ。だから藍君にも十年待っててほしいな」
「十年…て」
「十年経って、それでも気持ちが変わらなかったら、私ももう一度好きになろうと思うの」
二十六歳。どこかの会社に就職して働いているであろう自分。とてつもなく長い時間に目眩がした。でもやるしかない。好きじゃないと言われて受けたショックが恋愛感情から来たものなのかは、まだ知らない。十年待てば、この得体の知れない感情の正体が分かる気がした。
「分かった。待つよ」
また俺を好きになって。君の細い肩に手を伸ばす。
二〇一五年五月三十日。仕事帰りの午後八時半。食事をしようと誘ってきたのは和花の方だった。いつも約束を取り付けるのは俺で、向こうから言い出したのはひょっとしたら初めてかもしれなかった。珍しいこともあるものだと、ひょっとしたら告白でもされるのかと脳内に妄想が広がる。
提案されたカジュアルフレンチは、人気なだけあってなかなか美味しかった。
「なあ、お前ちょっと酔いすぎなんじゃないのか?」
「え〜?そんなことないよお」
嘘をつけ嘘を。顔が赤いし口調が甘ったるいし、なにより千鳥足じゃないか。あんまり美味しそうに飲むからと、止めなかったのは失敗だった。もともとこいつはそんなに酒に強くはないし、そもそも人に勧められない限り自ら口にすることはない。
「藍君、藍君は、まだ私のこと好き?」
「…お前やっぱり酔いすぎだ。早く帰って寝――」
「私はねえ、まだ好きだよ。二十年、気持ちは変わらなかったよ」
「…は…?」
この幼馴染は何を言っているのか。二十年?まだ小学校にも上がっていない頃じゃないか。
「…十年前、もう好きじゃないって言ってたじゃないか」
「ごめんね、あれは嘘。十年間藍君の気持ちを独占したかったの。ごめんね」
「な、んだよそれ…」
「名前呼ばれるたびにドキドキしてたの、知らなかったでしょう?でも、でもね、もういいから。もう藍君のこと解放するから。他の人のこと好きになっていいよ」
「ふざけんな!」
勝手に名波藍の十年をなかったことにするな。どうでもいい女なら、十年待てってあの時の言葉に頷いたりしない。昔っからそうだ、こいつは俺のプライドをいとも簡単に粉砕する。
「お前は俺の家族になるんだよ!勝手に俺から離れるとか許さねえからな!」
ここが駅前の群衆の中だとか、肝心の指輪を用意していないだとか、そんなことは頭から吹っ飛んでいた。
当時の彼女の言葉をふと思い出す。二人っきりで過ごす時の沈黙が心地いいこと、笑って食事ができること。そんな些細なことを馬鹿にしていた。高校生の俺は随分と子どもだった。
早く俺の奥さんになって。君の細い肩に手を伸ばす。