九章
ゴールはあるのだろうか。最初の一歩を踏み出したばかりの私には解らなかった。でもそんなものがない大海の如き芸術だからこそ、多くの人々がそこに魅せられ、溺れ、命さえ賭すのだと思った。私は何度もDEATH SENTENCEDのCDを聴いて、高宮の内部に展開されている世界を想った。でもただそれを具現化するだけでは、いけない。もっと高みを、もっと圧倒する何かを。
病院のベッドで寝ていた頃、私の世界は白く四角いだけの世界だった。全て秩序だっていて、性格で、ただ自分だけが如何なる医療をも敵に回し、無力だった。しかもそれを大して不幸だとも思わず、死さえも安易に受け入れていた私は、一番不幸だった。もうそういう私には戻れない。進むだけだ。DEATH SENTENCEDのギタリストとして。
翌日、DEATH SENTENCEDのメンバーとしての第一歩だとばかりにきっと眼光鋭く目覚め、ママのお気に入りのパン屋のクロワッサンと、サラダと、グリーンスムージーと、ヨーグルトの朝食を頑張って残さず食し、ママの運転するVOLVOで大学へと向かった。余程目に見えて緊張感に溢れていたのだろう。ママは他愛のない話を始めた。「いつも行っている、あのパン屋さん。前も言ったでしょう? あそこのお坊ちゃんこの間お店にいらっしゃって、とってもイケメンで、爽やかで、愛想よかったわ。もっと小さい頃、見たことはあったんだけれど、大きくなって。」
ふうん、以外に出る言葉なんて、無い。
「まりあちゃんと同じ、T大学でバンドをやっているんですって。」
でも大学の学生数は一万人もいるのだ。バンドサークルだってTHRASH以外にもたくさんあるらしい。学外の友人とやっている人だっているだろう。幾らイケメンだって、解る訳がない。高宮ぐらいに壮絶な特徴があれば解るかもしれないけれど。
「私は美味しいパンが食べられれば、それで満足だわ。」
「そうなのね。」ママはふうとアンニュイな溜息を吐く。ブラックと、部屋の壁に貼るメタルギタリスト以外に興味を示さない私にちょっぴりご不満なのだ。でも私は小野瀬のように色恋沙汰とバンドを見事両立できる自信は、無い。ただでさえ大学の授業で手一杯なのだから。私はママの口から何か不都合な言葉が出てきてしまうことを危惧して、大学に近づくと「ここで大丈夫よ。」と言い、そそくさと飛び降りた。
その時、後方からやって来たタクシーが止まり、そこからフレアスカートの裾を揺らしながら優雅に降りてきたのは、雪乃ちゃんだった。「まりあちゃん。おはよう。」
ふんわりとした笑顔。ありとあらゆる摂理が、雪乃ちゃんを世の中の絶望の対極に位置させているようだ。
「おはよう。」
「私ね、昨日のサークルでクッキーを作ったの。食べて。」
雪乃ちゃんは、ピンク色のプラダのバッグから、ギンガムチェックのリボンで包まれた可愛らしいクッキーの包みを差し出した。
「わあ、とってもかわいい!……今、食べてもいい?」
「もちろんよ。」
私は丁寧に包みを開けると、ジャムの挟まれた小さなクッキーの一枚を取り出した。ぷつぷつと穴が開いていて、HAPPYとか、HOPEとかの単語が中央に刻されていた。HAPPYを選んでぱくっと一口で口に入れ、噛むと、さくさくと歯ごたえの良いビスケットからミルク味のほの甘さが漂うと同時に、イチジクのジャムの濃厚さが味わえた。こんなに美味しいクッキーは、食べたことがない。とりあえず先にそう目で伝えると、雪乃ちゃんは照れ笑いを浮かべた。惜しみながら呑み込むと、
「凄く美味しいわ! 食べちゃうのが勿体ないわ!」
「いつでも作るわよ。」雪乃ちゃんは小首を傾げてウィンクをした。「ねえ、そういえば、一時間目の授業の先生のこと、知ってる? ちょっと、緊張するの。」
「え、そうなの?」それは一緒に約束をしていた、近代詩の授業だった。
「私高校で教わったシェリーの詩に憧れていて、いつかそんな詩を作ってみたいと思って授業取ったんだけれど、先生がとっても、怖いみたいなの。フェミニズムもやっている先生らしくって。」
「フェミニズムだったら、女子学生には、優しいんじゃないの?」
「あ、あれ? そうなのかな? でも料理サークルの先輩が怖くて授業行けなくなったって言ってたわ。」
「それは困るわ。私だって、Jamesの詞の世界観を知るために、詩の読解は欠かせないからこの授業取ったのに。」私はまだ見ぬフェミニストを思い、両の拳を握って気合を入れた。「とにかく今更引けないわ。行きましょう。」
噂は虚偽なのか浸透していないのか、二百人は入る中教室はそのほとんどが埋まっていた。空いているのは前方ばかりだ。私たちは意を決して頷き合い、最前列に陣取った。大抵私たちは最前列に陣取ることを旨としていたが、この時ばかりは緊張から言葉少なとなっていた。
チャイムが鳴ると同時に、焦っているのか勢い込んでいるのか、物凄い音を立てながら教授が転がるように入ってきた。ショートカットに化粧っ気のない、グレイのパンツスーツを掃いた四十代の女性である。
彼女は入るなり、最前列の私たちを睨みつけて怒鳴った。「何だ君達は。」
雪乃ちゃんは絶句して顔を蒼褪めさせ、恐怖からか口許をわなわなさせている。私は咄嗟に、「一年生です。近代詩に興味があるので、授業を受けさせて下さい。」と席を立って述べた。
「違う違う違う! 君らの興味なんて、どうでもいい。それより、その格好は何だと聞いているんだ!」
「え、キャミワンピのことですか?」
私はCecil McBeeのデニム地に金の刺繍の入った、可愛さの中にもカジュアルさがある、キャミワンピを着ていた。雪乃ちゃんは華奢な金鎖が付いたピンクのチェックのキャミソールで、胸のところに細かいレースが仕立ててある。LIZLISAの新作だ。教室中の目線が私たち二人に注がれ、私は背中がじんわりと熱くなるのを感じた。
「それは下着ではないか! 何でそんなモノを着て外を歩いている! 恥を知れ!」
「下着ではないです。Cecilのお姉さんもお店で着ていましたし、雑誌にも載ってて、すぐに完売しちゃったものなんですよ。」
「何を言っているのか、さっぱりわからん。そしてその足元! それは何なのだ!」
私は改めて今日の靴を見た。ワンピに合わせてデニム地の、でも薔薇のコサージュを付けたのでカジュアルさの中にも上品さが漂うミュールだ。
「ミュールですけど。」
「そんなものは知らん! スリッパを履いてくるな! 下着にスリッパ、授業を受ける前に自分の身なりをわきまえろ! 内と外との区別を付けろ! 不愉快だ!」
教授はそう怒鳴り散らすと、指定のテキストを出し、毎週レポートを課すこと、それを出さねば即刻単位は出さないこと等のかなり厳しい条件を次々に述べ立てた。あちこちで溜息が漏れ、敗北感たっぷりにそうっと教室を出ていく学生も数名いたようだが、私も、くすんくすんと鼻を鳴らしている雪乃ちゃんも、ノートを出して教授の言葉を逐一メモした。雪乃ちゃんがわあんと泣いて出て行ったりしまわずに良かったと思った。さすが、付属の女子大学を蹴ってまでわざわざここに来ただけある。鼻水をすすり上げながらも、必死にフラミンゴの付いた羽根ペンみたいなのを動かしている。私はその様にひたすら「頑張れ、頑張れ」と念を送り続けた。
最初の課題は神原有明。万葉集の語彙との比較対象を行い、当時朦朧体と揶揄された詩風を分析するという課題だった。相当同時代の状況を調べないと書けないな、と私は意気込んだ。それで、授業を終えるとすぐに図書館へと向かった。
この大学の図書館は五階建てで、蔵書数は国内有数だ。地下室には重要文化財なんかも入っている。それはなかなか教授の手立てがなければ見せてもらうことは出来ないけれど、明治時代の古びた本などは異臭を放ちながら、地下一階に下から天井までぎゅうぎゅう詰めに収められていて、古びた木製の梯子を活用することと、ダニか何かで手がかゆくなることを厭わなければ、読み放題だった。私は片っ端から有明についての資料を探した。私の中には良いアイディアが浮かんでいたのだった。この論がきちんと同時代の資料をもって根拠立てられれば、面白いものになる、という直観があった。私は授業とバンド練習以外はとにかく図書館に籠り、レポートの作成に励んだ。翌週、フェミニストの先生はまた激昂した。
「また、お前達は!」更なる威嚇に、思わず私と雪乃ちゃんは抱き合った。「下着とスリッパで、聖なる学問の場を汚すな!」
私は用意してきたCecil McBee Bookという雑誌をさっと提示した。Cecilが出している季刊誌で、最新情報はもちろん、クーポンも付いていて大変にお得なのだ。私も雪乃ちゃんも発刊をとても楽しみにしていた。「これはたしかに元々は下着だったのかも知れないですが、今ではファッションとして認められているんです。」差し出したページには、モデルが堂々たるポージングで、右手に羽織物のシャツを持ち、キャミソール一枚でキャラメル色のミニチュアダックスの散歩をしている写真が載っていた。「時代が変わるに連れて、ファッションも変わります。どうぞご理解を。」
「黙りなさい。授業に入る。」私は項垂れたように座り込んだ。雪乃ちゃんが心配そうに私を見詰める。
「……前回のレポートの優秀者を発表する。これは同時代について今までの研究にないところまで調べてあって、その努力が評されると共に、論証も大変緻密だ。是非、前に出てきて読みなさい。……」教授はどさっと紙の山を机上に叩き付け、その一番上にあるレポートを取り出した。
「今成まりあ。」心臓が縮み上がった。嘘だと思ったが、喉の奥がごつごつし始める。それを留めるように、「はい!」と私は天まで突けよとばかりに手を挙げて、勢いよく立ち上がった。「私です!」
教授は隠しようも無く唇を歪ませた。後悔と、何でこいつがという憎悪と、おまけに本当かという疑念の綯交ぜとなった、恐ろしい形相だった。
私はそれを見続けているだけでも背筋が震えたので、目を瞑ってさっと教授の元に近寄り、机上からレポートを引っ手繰って、教授のマイクを無理矢理奪い取って読み始めた。
大勢の唖然とした顔がちらちらと目に入った。
「まりあちゃんは凄いなあ。」そう残念そうに雪乃ちゃんが呟いたのは、授業の後、学食でお昼を食べていた時のことだ。「あの授業、三、四年生もいるんだよ。なのに入ったばっかりで、もうレポートが褒められるって、凄い。」
卵サンドウィッチを手に持ったまま、雪乃ちゃんは溜息を吐いた。「私も、がんばらないと。せっかく付属の大学蹴って、ここまで、来たんだし。」
私はチェリーパイを頬張りながら言った。「今回は色々同時代の雑誌とか新聞とか調べる中で、アイディが浮かんだだけだったんだけれど、次はまだ全然考えられないよ。『白羊宮』なんて、ちゃんと読んだことさえないんだもの。」
「やっぱり? 私も、文学史の本で見たことあるぐらい。」雪乃ちゃんは安堵したように、再びサンドウィッチを齧り始めた。「大学になると、知識だけじゃ駄目ね、」
「雪乃ちゃんは、高校時代、成績良かったの?」
「うーん、どうだろう。うちの高校は付属だから、受験にもそんなにぎすぎすした感じじゃなくって、一、二クラス外部受験用のクラスがあっただけだったの。その中では上位だったけれど……」
「凄いわ!」
「でもいざ受験になったら、全国では全然駄目だってことがわかったわ。でも、苦労はしたけれど、あの世界だけで終わらなくて良かったな。まりあちゃんにも会えたし。」雪乃ちゃんはほんのりと微笑んだ。
「私もママに決めてもらった所だけど、ここに来て本当に良かったと思っているの。勉強もバンドもやりたいことがいっぱいできているし。」
ガラス張りの広々とした学食は温かな日差しに満ちている。和洋中とそれぞれのブースに分かれており、それぞれ座る場所のないくらい賑わっている。今日の一番人気はラーメン屋だった。どっと体育科と思しき学生たちが大勢で占拠している。
「そういえばまりあちゃん、病気だったのよね。……あのさ、私身近にそんな人いなくって、全然わからないから、失礼とは思うけど、ちょっと、聞いてもいい? 病気で寝ていた時、毎日どんなことを考えてた?」
私は遠い記憶を手繰り寄せるようにして、考えた。何だか随分昔のことのように思えた。「……心の中に物語の世界が幾つかあるの。そこを逍遥していたって感じかなあ。メタルを聴きながら戦争の世界に入っていったり、苦しくて息が出来ない時には、魔女裁判に掛けられている世界に入ったり。今みたいに、あんまり現実と夢との境が無かった気がするな。」
雪乃ちゃんは曖昧に肯いた。そして、「健康になりたいなって、思ってた? 健康な人に、嫉妬した?」
「そんなの、全然思わないよ!」私は思わず大声を出した。「だって何でも欲しいものは買ってもらえて、パパもママもお医者様も看護師さんも、こぞって心底心配してくれて、……病気は苦しいけれど、決して不幸ではなかったわ。でも健康になると、自分でどんどん楽しい経験を得られるから、それはそれでとっても良いことだと分かったけれど。でも、病気でなかったらブラックともメタルともギターとも出会えなかったと思えば、結局病気でよかったんだとも思う……。」
雪乃ちゃんは何も言わず、ただ目ばかりを大きくして私を凝視した。「私、病気の人はみんな、一刻も早く治りたがっているのかと思ってたわ。」
「人生の途中から病気になった人とか、治る見込みがある人は、そうなると思うけれど。生まれた時からあちこちがボロボロで、二十歳までは生きられませんって言われたら、それを覆して治ろうとなんて思わなったわ。私はそれなりに毎日幸せを見出しながら生きていたわよ。夜は死ぬこと考えて、泣いた日もいっぱいあったけど。」
体育学部の膚黒い集団が同じ背を見せながらラーメン屋で丼を啜る姿を、私は遥か彼方の出来事を見るように眺めた。こんな現実が訪れるとは、僅か三年前でさえ思いもしなかった。そうだった、死んだらどうなるのか、無か輪廻か、誰も明確な答えを与えてくれず、当たり散らした日もあった。私はすぐそういう不幸に蓋をする。でもそれを言語化するのは、とてもできなかった。現実になってしまうから。私は雪乃ちゃんに悪いと思いながらも、言語化できない思いを飲み込んだ。
ふと、体育学部の集団のすぐ隣に豚カツを口に運ぶ二の腕に複雑怪奇な文様が入っている男を発見した。「あ、高宮だ。」
雪乃ちゃんはちらと後方を見遣った。
「た、か、み、やー!」騒々しい学食でなお声を届かせるには、恥を捨てなければならない。高宮はこちらを見た。だからと言って用は無い。私は仕方が無しににっこりと手を振ってみたが、高宮もちらとこちらを見ただけで、そのまま食べ続けた。
「あの人が、まりあちゃんのバンドのボーカル?」
「そうよ。すっごい良い曲書くの。激しいけれど、綺麗なの、すっごく。どうしてこんなに素晴らしいアイディが思い浮かぶんだろうって、不思議なくらい。」
「……芸術家なのね。」
「そうね。」
「……痛くなかったのかしらね。あの腕。」
「針でしょう? 注射いっぱい打つ感じかしら。私は病気でもないのに注射を打つのは、絶対に嫌だわ。」
「……将来ハゲないかしらね。あの髪。真っ赤っ赤。」
「ハゲたら潔くスキンヘッドにするよう勧めるわ。バーコードよりその方が断然かっこいいし。」
「あの人も、佐渡島のギターを弾かれるの?」
「ううん、佐渡島ではないわ。クワガタね。」私は指でピースをし、チョキチョキとしてみせた。「なかなかクールよ。」
「ギターって、色々な形があるのね。ピアノもバイオリンもそんなに色々な形はないのに。」
「そういえば、そうね。」私は暫し考え込んだ。「ギタリストは形にこだわりを持つ人が多いのかしら。私は佐渡島派だけれど、高宮はクワガタ派、前のギタリストの郡司さんはV派だったみたいよ。」
「いいな、いいな。ハートのグランドピアノなんて、あったら可愛いのに!」雪乃ちゃんは瞳を輝かせて言った。たしかに真っ赤のハートのグランドピアノがあったらどんなに素敵だろうと思われた。もしそんなのを見つけたら何が何でも雪乃ちゃんに弾いてもらおうと決心した。
午後からは雪乃ちゃんに合わせて、書道の授業だった。雪乃ちゃんが授業登録の際に、「私、書道コース取らなきゃいけなくって。」と哀し気に呟くので、「書道コースなんて取るの? 文学部なのに?」と聞いたのだが、何でも、雪乃ちゃんの親が、女子大を蹴った報いとして書道コースを受講しないと、授業料を出さないというとんでもない暴挙に出たらしかった。でもたかが国立大の授業料ぐらい出なくても、生活費は十分に貰っているのだし、ちょっとそこを(タクシー代とか)削れば賄えるのだろうけれど、節約なんぞに関しては壊滅的に想像力の欠如している雪乃ちゃんはおとなしく書道の授業を取ることに決めたのだと言う。書道がなぜそんなに大切なのかを聞いたところ、他に華道コースや茶道コースがないからで、それに関してはこんな大学を選んでしまったから仕方ないと百歩譲って許容したものの、お見合いの釣書を美しく書けなければならないという理由で書道だけは何としても受講しなければならなくなったのだ。
「雪乃ちゃんち、大変なのね。」
「でもまりあちゃんが、一緒に授業取ってくれて本当にうれしい。書道はやっていたけれど、受験ですっかりブランクが生じているし。」
「私なんてやったことないわ。でも、何事においても挑戦って大事だから、別にいいわよ。」
書道の授業はキャンパス内に唐突かつ不似合に作られた、平屋造りの伝統家屋で行われることになっていた。私たちはその場に一歩踏み入れた途端、身を凝らせた。
池と橋とが造られた見事な日本庭園には作務衣を着、長い白髪を後ろに束ねたご老人が、正に太極拳を行っている最中だったのだ。ご老人は、腰を落とし、腕を上げ、さらに引くという動作をゆっくりゆっくり繰り返していた。
「北京公園と勘違いして、遊びに来ちゃったのかしら。」
「違うわよ、まりあちゃん。」雪乃ちゃんは眉間に皴を寄せ、深刻そうに囁いた。「あの人が、仙崎教授よ。」
私は無言で雪乃ちゃんを見返した。
「私、料理サークルの先輩から聞いたの。仙崎教授は、自分の気の流れを操作することで末期のガンも克服したの。書道でも、気を巡らせて書くみたいなの。」
「ただの草書の授業だと思ってたわ!」と言って、私は思わず踵を巡らせた。雪乃ちゃんが行かないで、というふうに私のキャミソールの裾を小さく掴んだ。「……。私、一人だけ『気』が無かったらどうしょうって、心配なの。お願い行かないで。」雪乃ちゃんは泣きそうな声でそう懇願した。
私と雪乃ちゃんは恐る恐る教授を遠巻きにして、家の中へと入った。濃厚な墨の匂いがする。そうっと部屋に入ると、先輩と思われる人々が十数人、既に無言で墨を摺っていた。既にここから気の操作が始まっているような緊迫感だったが、私たちが席を求めて机間を歩き出すと、服装が目立つためかちらちらと見上げる人が数名いた。私たちはこの人たちは未だ仙人にはなっていない、人間だという安堵に胸をなでおろしながら、ともかくこの授業だけはと、一番後ろの長机に着席して準備を始めた。
「ママがたくさん筆送ってくれたの。」雪乃ちゃんが小声でそう囁いて、筆巻きから大量の筆を見せた。太いのやら細いのやら、毛の色まで様々だ。
「凄い沢山ね、それに、その硯、凄い豪華絢爛。」
龍が渦巻いた、中国風の硯だった。
「サンリオショップでは硯無かったから、こんな、ママが勝手に送って来た可愛くないもの使うことになってえ……。」雪乃ちゃんは泣き声を言ったが「でも、まりあちゃんも付いてきてくれたのだし、頑張らないと。」と、自分を励ますように言い聞かせると、中国風の硯に水を垂らし、ごしごしと墨を摺り始めた。
「今度キティちゃんかマイメロの硯見つけたら、買ってきてあげるね。けろっぴでもいい?」
「うん。」
そんな話をしていると、縁側から仙崎教授が、老人らしからぬ身軽さでひょいと入って来た。
「これは草書の授業だが、……?」明らかに私たち二人を見ながら、仙崎教授は暫く口ごもった。「君たちは、アイドルでも目指しているのかね?」
私は気の操作によって空中浮遊さえも出来そうなこのご老人の口から、「アイドル」などという俗語が飛び出したことに驚いた。
「いいえ、私はデスメタルギタリスト。この子は素敵なお嫁さんを目指しています。」
「何? 出目金と、お嫁さんとな?」
「違います。出目金ではありません。」私は後ろに置いていたエクスプローラーを指差したが、ピンとこないのか首を傾げている教授に、今度はケースから取り出し、ギターを掲げ見せた。「ギタリストです。」
既に墨を摺る手を止めている先輩たちから、「おおー。」という声が上がった。
「ほう。でも、その髪や服は、アイドルを目指している人間のものではないのか?」
「確かにアイドルでCecilを愛用されている方はいらっしゃいますけれど、私はアイドルを目指している訳では無いのです。」
仙崎教授は口髭を捻りながら、「ふうむ、そうか。」と答えた。「よかろう。」
何が良いのかわからないまま、授業が始まった。成績の付け方とか、出席率がどうとかの説明は一切なかった。そんな俗なことには、一切関心が無いらしい。教授はまず、半紙の上に線を引くことを指示した。
「巨石を思い浮かべなさい。」仙崎教授が宙の一点を見据えながら、そう呟く。私は確かにそれを思い浮かべた。昔入院していた病院の正門付近にある、先代の院長先生が何やら凝っていたという、漢詩を書き記した石碑だ。「それが、紙の隣に置いてあると考えなさい。」それは大変、と思ったが、何とか隣の学生をいないことにして、苦心しながらイメージを作った。「それに縄を括り付けなさい。」まあ、これは既に巨石が出来上がっているので、難しくは無かった。「その紐の先端と各々の筆が結びついている。各々、筆を持ちなさい。その巨石を動かすのだ。」仙崎教授は、はあーと深い息を吐きながら、真っ白な半紙にゆっくり、ゆっくりと一の字を刻した。墨痕鮮やか、堂々たる一の字だ。「巨石はただでは動かせぬ。見よ。」仙崎教授は掌をかっと開いて私たちに見せつけた。思わず何かが発せられたのかと思うばかりの気迫だった。「この中心から、気が出ている。その気を放出することで、石は動く。よって、筆を握らずに持つこと。掌の中心を垂直に筆に向けたまま、持つのだ。」
私も筆に墨を付けて、はーと息を吐きながら、そして、掌から気を出さんと試み、同時に巨石を動かさんと努力した。そのせいで少し、一の字は途中で歪み、滲んだ。ふと隣を見ると、雪乃ちゃんも辛そうな顔ではーと息を吐きながら、一の字を書いている。
仙崎教授が机間巡視を始めた。「君の字はちゃんと石を引けておるな。……君は、もっと大きな石を作りたまえ。……君は、何だね。」
仙崎教授がそう素っ頓狂な声を挙げて足を止めたのは、雪乃ちゃんの前だった。「全く引けておらんじゃないか。」
雪乃ちゃんは泣きそうになりながら、「岩を思い浮かべると、庭師さんが移動してくれる気がしてしまって……。」飛んだお嬢様だ。
「……自立したまえ。」仙崎教授はそう言い放つと、また静かに両腕を後ろに組みながら、机間を歩き始めた。
「ぬ、むむ。」妙な唸りが頭上から聞こえ、私は見上げた。仙崎教授が目を見開いて私の書いた線を見据えている。ガンから気合で復帰したことが心底納得できる、死闘を繰り広げたような鋭い眼光だった。「君は、随分ノリノリだな。」
「ノリノリですか?」また妙な単語が出てきたものだという驚きが先行したが、ノリノリとはどういう意味なのか咄嗟に分からず、私は首をかしげた。そして暫く考え込むと、「先生、たしかに。今私は、バンドでやる曲のギターアレンジを考えていました。ダイナミックを追求するか、全体的なリズムの強さみたいのを追求するか。」と白状した。
「字が歪んでおる。」
確かに音作りは相当歪ませていた。「……すみません。」
「されど力強いな。」
仙崎教授は手練れの占い師のように、片目を瞑りそう呟いた。私の一本線から全てを読み取るように思えた。
「おそらく、世界でも有数の力強いジャンルなので。」
「ふうむ。……とかく、芯が大事だ。真っ直ぐに引くように。」
仙崎教授はそう言うと再び、背を曲げながらゆっくりと歩み出した。
私は再び新しい半紙を出し、筆先を墨汁に浸けた。漆黒の液体が筆をふっくらと膨らませる。私はそれを慎重に引き上げると、陸で筆先を整え、息を吐き、真っ白な神の上に第一点を置いた。ふと、岩の影が私の周囲を覆っているような気がした。中国の水墨画が題材とする、切り立った峰とそれを潤す滝との清新な空気を、一身に感じた。私は負けじと筆を左へ、左へ、少しずつ引いた。その時私の耳朶に確かに、滝を落ちる水音の上に、力強いリフに重点を置いたアレンジが聞こえ出した。これだ。
私は歓喜に震えた。