七章
THRASHの扉は相変わらず長年の日焼けか煙草の煙に燻されたか、いずれにせよ黄ばんで汚れていたけれど、開いた瞬間中の様相は昨日とはまるで一変していた。破れたスコアも壊れたCDプレイヤーも、先が削れたピックも、なぜだかぼこぼこに歪んだステンレス製の灰皿も落ちていない。床に散乱していたギターとシールドはそれぞれ丁寧に壁に掛けられ、黒い楽器ケースの山はどこかに消えていた。お蔭でタイル張りの床が見え、部屋は随分広々として明るく見えた。
その中に高宮と茶髪のドラマーが雑巾を手にしゃがんでいた。暫くしても顔も挙げてくれないので、 「こんにちは。今成です。練習に、参りました。」と、私は二人におそるおそる声を掛けた。
髪を後ろに縛った高宮は額に汗を浮かべながら、じろりとこちらを睨め上げた。「曲は、コピーしてきたんだろうな。」何でこんなに怖いのだろう。泣きたくなった。
「一応、徹夜してやってき、ました。……そうだ!」私は高宮の目の前に座り込んだ。「私、生きてて良かった。こんなに素晴らしい曲に出会えるなんて、バンドに出会えるなんて、思ってなかった。私、あなたの曲が世界で一番好き。どんな有名なバンドよりも凄い。凶暴さと美しさと、それから慟哭と緊張感。私、今まで色々なデスメタルバンドの曲を聴いてきたけれど、こんなに美しくて激しくて、心揺さぶられる音楽に出会えたことは無いわ。私、あなたの大ファンになった。」
そう一気に捲し立てると、高宮は口を半開きにしたまま私を見た。
「だろう。」得意気に答えたのは、なぜだかドラマーの方だった。「俺もベースも、高宮の曲に惚れ込んでこのバンドをやってる。この春辞めた郡司さんも同じだ。月一以上は都内でライブをやっているし、少なくねえファンもいる。ちなみにこのバンドのギタリストの座を狙っている奴はごまんといる。今日は心して、」ドラマーはよっこらしょと立ち上がり、左手で背中の凝りをほぐそうととんとんと叩きながら、右手で私の鼻先を指さした。「弾け。」
私はわなわなと自分の身が震え出すのを感じた。生唾を飲み込む。「……今日は、ベースの方は?」
「何だ、そっちかよ。小野瀬の女候補は、ギタリスト候補の比じゃねえぞ。」ベースは同情するような心底情けない声を出した。「まあ、やめとけ。」
「勘違いしないで下さい。早く練習を始めたいだけです。」
「自信満々だな。」高宮も立ち上がって、ライオンのように両手を伸ばし足腰のストレッチを始めた。「すぐ来るよ。女に呼ばれただけだから。練習前は早く済ませる奴なんだ。」
何を早く済ませるのはよくわからなかったけれど、とにかく私は綺麗になった部屋でギターのセッティングを始めた。空気が軽い。澱んでもいない。これなら昨日よりも、ずっと巧く弾くことができる。浮き立つ気分でギターを取り出し、今日はしっかり揃えてきたエフェクターボードを開いて、セッティングを始めた。
「遅くなった。」
謝罪とも報告ともつかない台詞と共に小野瀬が入って来た。「お前、ちゃんとコピーはしてきたんだろうな。」
どうして高宮といい、小野瀬といい、こんなにも偉ぶっているのだろう。
「完全コピーというわけじゃないけれど、……私の解釈で、練習してきたわ。」
「じゃあ、今成、CDの一曲目から。源藤、大丈夫?」高宮がドラムを見て言った。源道はスネアやらクラッシュやらの位置を微調整しながら「OK」と答えた。
私は心得顔に肯いた。それはリフのクールさ、ドラマティックさ、詩の世界観全てにおいて一番気に入った曲だったから。紛れもないキラーチューン。一曲目に心臓をぶち抜くような曲が来るのが、まるでJudas Priestの『Painkiller』みたいで、この上なく素敵だった。「ばっちり。イントロは私でいいのよね。」
イントロはギター一本によるアルペジオ。その後ギターリフにベース、ドラムが一斉に入り、速度も倍速。一気にドラマ性を高める。
私は足下のストライモンを踏み、リヴァーブを掛けると、早速アルペジオを奏で始めた。抒情的なメロディーだけれど、あえて淡々と機械的に弾く。その方がその後の怒涛のメロディーを際立たせることができると考えたからだ。だから最初は高宮も眉間に皺を寄せていたけれど、すぐにその効果に気付いて破顔させた。
すぐに最初の山が来た。ソロの到来を知らせるクラッシュが鳴り響く。背筋がぞくぞくした。もちろんCDでは昨夜何度も聴いた部分だが、目の前で私の全てを迎え入れるように鳴り響くそれは、まるでガブリエルのラッパだ。
私は逸る思いを抑えながら、何とかリズムに合わせようと理性を保ちつつ、流星のように高速で昇っては落ちるフレーズを奏でた。その内に呼吸を汲んで、源藤が合わせてくれた。私の鼓動の速さに。次第に次第にそれは速く……。もう、好きにしていいと、最後にそう聞こえた、ような気がした。
私は思わずタッピングを入れて、更なる高みへと達する。確かこの曲は肉体も希望も全てが破壊し尽くされ、何も無くなった細やかに波立つ海原を見た女神が落とした涙から龍が昇り立つという内容だった。龍は理性を喪い、既に忘却してしまった希望を求めて狂い回る。観察者のいない、存在さえ疑われる孤独な龍の、その確固たる存在感を私は表したかった。
やがて曲は収束を迎える――。
「新しいな。」
私はそう言った高宮の堪え切れない笑みを見た。
「何て言うか……華麗、だね。」
そう続けたドラムに対しても、悪い評価では無いということがわかった。私は高宮を見たが、高宮は顔を反らしたので反応は分からなかった。
「次は、murder of children」高宮は呟く。
私はひとつ肯くと袖を捲って、気合を入れる。次の曲は一斉に入る。一瞬に訪れる怒涛。予想だにできない、暴発。タイミングを逸しては、全てが台無しになる。私は源藤のスティックを凝視しながらその一瞬を待った。
――落雷。
あとは大丈夫。ギターをベースに合わせてボトムさえ押さえ、怒涛の絶望を奏でる。それは地を這い、うねり、完膚なきまでの闇を創り上げる。だからこそ、闇だからこそ、ギターのメロディラインが煌びやかに輝く。このバンドの音楽を聴いて、初めてそのことに気付いた。写真の一切ないブックレットでは、前のギタリストがどういう人であったのかはわからないけれど、この人のギターを全面に押し出すために創られた楽曲であるように思われた。そして確かにそれに相応しいメロディーを、このギタリストは奏でていた。私とは全くタイプが違うけれども、強さの中にしなやかさを孕んだ、二面性のあるギターだった。だから私は思ったのだ。このバンドに入ることはそう簡単なことではない。でも安易な物まねでは通用しない。もっと、湧き上がってくるような個性を発揮しないと、自己を見つめ――。何度も見つめた。でもそれは浅く脆く、頼りないものであって、何度も頭を打ち付けた。ギターを奏でるに相応しい要素を凝視した結果、死への理解だと気付いた。でも迷いは絶たれなかった。こんなことで売りになり得るのか。不安が大きかった。
でも答えのでない疑問の前に逍遥するのであれば、一歩でも進むこと。最も私を生かせるアレンジを生み出すこと。
二時間の練習時間が終えようとする時、高宮が深々と息を吐き出し、「小野瀬、源藤。」と改めて二人に呼びかけ、「こいつでいいな?」と念押しするように言った。私は飛び上がって、神仏に額づいた後一人一人とハグしたくなったが、あまりにも小野瀬、と呼ばれた爽やか青年が冷やかな眼差しを投げ掛けていたので、その衝動は一気に沈静した。
「お前は女とデスをやりたいわけ? 本気で?」小野瀬はそう高宮に言うと、敵意をむき出しにした瞳で私を見た。
「俺は俺の曲を解釈できる奴とやりたい。」高宮は淡々と答える。
「こいつは曲の世界観? をモノにした弾き方をしてると思うよ。三坂みてえな、テクニック披露会じゃあなくてな。」とドラムの源藤が言って自ら噴き出した。
小野瀬は溜息を吐いた。「お前らはよくてもな、客がどうなるか考えたことあんのか。こんなクソチャラ付いた女がステージに上がった日にゃあ、ウォール・オブ・デスの前に客からぶっ殺されても仕方ねえ。解れよ。女がいていいバンドとそうじゃねえバンドの差ぐれえよ。」
小野瀬は二人をひたと見据え、冷然とそう言い放った。
「まあ、でも郡司さんが辞めた時点で離れてる奴は離れてるし。もう、一から立て直す感じでいいんじゃね。」源藤はそう言ってスティックで背中を掻くと、大仰そうに笑った。
その時突然扉が開いて、見知らぬ男が顔を覗かせた。男は、小野瀬のような爽やかさを全面に演出しつつも、どこか嫌な光を宿した瞳を有していた。男は見違えて美しくなった部室を驚嘆するように見回しながら、しかしあたかもそれが目的であると言った風に私を一瞬厳しく注視した。「すっげえ、綺麗じゃん。でも、あと五分でおれらの時間だから、そろそろ片付け始めてね。」
「じゃあ、片付けるか。」だから高宮も何事でも無かったように言った。「ま、今成、そういうわけだから、ライブじゃ自衛できるようにしとけよ。」
「おい、高宮、俺の話を聞けよ。」小野瀬が怒鳴った。
「後でな。」高宮はアンプの電源を切ると、シールドを抜き、さっさと片付けを始める。
「高宮、曲、随分小さくまとまったね?」男はそう言うと、私に嘲笑するような眼差しを向け、扉を閉めた。私は片付け最中のシールドを手にしたまま、唖然として扉を見詰めた。
「気にすんな。」高宮が少しばかり不機嫌そうに呟く。しかし気にしないなどということが、出来る訳ない。これでも昨夜は徹夜して練習をしたのだ。ただのコピーに堕さぬよう、最大限自分の個性を生かせるアレンジだって考えた。当然一晩で仕上げたものだからまだまだ再考の余地はあるけれど、それだってそんなに原曲を単に「小さくまとめた」というものではないはずだ。何か、ある、と私は直観した。
「曲じゃねえんだよ。見たくれだろが、阿呆か。」小野瀬が不機嫌そうに呟いた。
私はバンドに加入できた喜びを得られぬまま、とぼとぼとギターを背負い部屋を出た。こうではなかった筈だのに、という思いが全身に重苦しく圧し掛かっていた。
階下に降りようとすると先程の男とは別の、煙草を咥えた長髪の男が(それを見て私は階下へと全力で駆け降りた。)、高宮に対し、しかしそれにしては私に届くような大きな声で、「随分雰囲気変わったねえ。本当にこれで行くの? ファン減らなきゃいいけど。」と言った。私は階段を駆け下りながら、ふとさっきの男の声にも、今の声にも、嫉妬が混じっていたことに気づいた。
ああ、このバンドに入りたかった人は、本当に何人もいたのだ。と私は思い一瞬、涙が出そうになった。確かにこの世界観、高宮の荒々しくも計算し尽くされた巧みな声による表現力と、決して過たぬ戦車の如き強靭なリフ、小野瀬の引き擦り回すが如くのベースライン、源藤の華やかささえ感じる土砂崩れの如きドラミング、今後どうにでも開花していきそうな広大な可能性を、秘めていた。しかし、だからといってもちろんこの座を引き渡すわけにはいかない。あのCDを聴いてから、私はただの通りすがりの人間と偶然バンドをやるという認識ではなく、この曲を弾きたい、この世界観の一表現者として加わりたい、という苦しいまでの欲望を抱えていた。
確かに私はそう多様なジャンルの音楽を聴いたわけではないけれども(実際メタルばっかりだ)、ひと通りジャケ買いやレーベル買いというのをやってみて、その結果、世間一般的に良いか悪いかは別として、自分の好きな曲風というのがはっきりしていた。そして、それを一分の狂いなく具現化したのが、高宮の曲だった。これに出会わんがための人生だったのだ、と確信する程の。どれもこれも、一音も休符も紛れもなく私の愛する音楽だった。
だから私は、高宮を後悔させない、立派なギタリストになろうと決意新たにした。ここで嫉妬渦巻く連中なんぞに負けてはいられない。
Judas priest [painkiller]
https://www.youtube.com/watch?v=nM__lPTWThU