六章
大講堂には朝陽が満々と入り、たくさん並んだ白の長机がそれぞれ煌びやかに反射している。これは入学早々、レポートの書き方や図書館での資料探索についての基本事項を行うという、一年生対象の必須授業だった。そんなつまらないことのために、徹夜明けの身で参加するのはどうかと思っていたが、大講堂に入った瞬間、春の清新な空気に魅入られ、私は導かれるようにふらふらと最前列を陣取った。確かに夕方から始まる曲合わせに不安も募ったけれど、私は大学生なのだ。ここから私の学問は始まるのだ、そう思うと無限の広さを有する世界と真正面から向き合えたような気持ちが胸に溢れた。そこでふと隣を見ると、色白の、美しい女の子が座っていた。女の子はこちらを見て微笑んだ。
「初めまして」玉を転がすような声、とはこういうのを言うのだろう。私は嬉しくなって「初めまして、私は文学部の今成まりあです。」と言った。
「聖女の名前ね! 素敵。私は木崎雪乃です。よろしくね。」ぴったりの名前だと思った。
「まあ、あなたも素敵な名前。雪国出身なの?」
「そうよ。」
「まあ、それは大変。私雪なんて触ったこと、ないけれど、雪かきをすると滑って転んでけがをして、打ち所が悪いと死ぬって話、聞いたことあるわ。」徹夜明けのせいか私は正直気分が高揚していたのだ。
「そうなのよ。とっても危険なの。だから靴もこれよ、見て。」雪乃ちゃんは足をひねって履いていたピンク色の、踵にリボンの付いたショートブーツの裏を見せてくれた。そこにはやたら深い凹凸がたくさん刻まれていた。「こっちでお買い物しようと思ったら、つるつるの靴しかなくって、びっくりしたわ。」
私は思わず自分のパンプスの後ろを見た。浅いハート型の模様が刻まれているだけだ。こういうつるつるを履くと、雪で転んで死ぬのだと思った。
「ねえ、それ何かしら。」女の子は私の隣に立てたエクスプローラーを指さした。「拳銃か、何か?」そんなものを疑っているにしては危機感も何もない言い方だった。
「違うわ。これはギターよ。エクスプローラーっていう形なの。その中でもダイアモンド・プレートっていう、一番クールな種類よ。鉄板が打ち付けてあって、限定品で、私にとっての信仰対象なの。ほら。」私はちらとチャックを下げて、その鉄板部分を見せた。
「へえ。」と女の子は顔を近寄らせて、エクスプローラーを凝視した。甘いフローラルの香りが漂う。「凄いのね。ゴツゴツ! どこでも工事現場に出来ちゃいそう。バンドサークルにでも入るの?」
「ええ。」入れるのか否か、それを決する試験は夕方なのだけれど、私は決意を込めてそう断言した。
「私も決めないと。料理サークルと手芸サークルで悩んでいるの。」いずれも私の選択肢には無いサークルだった。「昨日歓迎会に行ってみたのだけれど、どっちもとっても楽しそうで、捨てがたいの。昨日はバンドサークルの歓迎会に、行ってきたの?」
「歓迎なんて、ちっともしてくれなかったわ。」私は爽やか青年を思い浮かべながら言った。「そればかりか、女とバンドやるなんて厭だなんて、目の前で暴言を吐かれたりして。」
「まあ。」女の子は頬に手を当てて眉根を寄せた。
「でもね、実は、このギター私にとって最良の人生に導いてくれるものなの。きっとバンドにも、入れる。」
「頑張ってね。」全てを解っているとでもいうような、真剣な眼差しで女の子は私を見据えた。「大丈夫よ。私、祈ってる。」雪乃ちゃんはバッグの中から小さな白いテディベアを取り出して、目を瞑り、ぎゅっと胸の前で握りしめた。何の信仰なのかはわからなかったけれど、暫くするとほっとしたように雪乃ちゃんは微笑んだ。そして、悪戯っぽい眼差しで「それって、Cecil McBee?」と私の服を指さした。
「そう! 雪乃ちゃんもCecilが好きなの?」咄嗟に高くなった声で私はそう問うた。
「そうよ。クローゼットの中身はほとんどCecil。一番キュートだし、スタイル良く見えるし、最新流行がバンバン出るし、とにかく大好きよ。」
「私もなの! Cecilのキャミワンピなんて、フォーシーズン来ているわ。」
「やっぱり? それ、見たことあると思ったもの。」と言って雪乃ちゃんは私のミニスカートの裾を摘まんだ。さくらんぼ柄で裾がフレアに広がった、今季の新作だ。
「今度一緒にお買い物に行きましょうよ。」雪乃ちゃんは興奮冷めやらぬ語気でそう言った。
「もちろんよ。」私はまたダイヤモンド・プレートが腹心の友を連れてきてくれたのだと確信した。高宮に、雪乃ちゃん。それからきっと、爽やか青年とドラムの茶髪とも仲良くなれる。
図書館利用のオリエンテーションについての授業を終え、次の教室へと向かう。今度は日本近代文学史の基礎講座。広大なキャンパスを多くの学生が自転車で移動する中、私たちはのんびりと歩きながら、教室を移動した。私も雪乃ちゃんも自転車に乗れなかったので(私は入院をしていて自転車練習の時機を逸したから、雪乃ちゃんは乗れるは乗れるけれどヒールのある靴では怖いから)、本当に都合が良かった。雪乃ちゃんは小さい頃から文学少女で、いっとう森茉莉が好きなのだと語った。そういう感じだった。少なくとも戦争文学とは無縁そうだった。
やがて壮年の教授が入室し、授業が始まった。授業では早速レポートの提示があった。課題図書を読み、そこから問題点を抽出して、同時代的な解釈を探るというものだ。戦争小説に取り組むにも同様の手立てが必要だと思い、私は提示された瞬間から必死にアイディアを練り始めた。大学受験は暗記をすることがやたら多くてげんなりしたこともあったけれど、こういう作業は何だか楽しかった。同じ勉強という括りではもったいないとさえ思えた。
「何か難しそう。」授業が終わると、雪乃ちゃんは席から立とうともせず、ノートを注視し、授業内容を丹念に思い起こすように言った。「でも、頑張らなきゃ。ここの大学に来るのは、本当はパパもママも反対だったの。せっかく付属の女子大があるんだからそっちに行けって。けれどここは、やっぱり日本文学の全時代についてそれぞれ専門とする教授がいるし、だから一つ一つ深く学べると思って何とか説得したの。」
私は雪乃ちゃんを尊敬した。そんな風に考えて大学を選ぶ人がいるなんて、思いもしなかったからだ。私なんてママの思い付きだ。そう言うと、「大学は今までとは違って、やらされる勉強じゃなくって、やりたい勉強が始めてできる場だから、初めて親にも反抗したし、頑張ったわ。」とにこやかに答えた。雪乃ちゃんはようやく筆記用具をふわふわのペンケースに仕舞うと立ち上がり、校舎を出た。
「でも、行きたくもない大学に行かされるなんて、信じられない!」私は満開の桜を睨みながらそう言った。
雪乃ちゃんは頻りに肯いた。「そうなのよ。四年間って長いじゃない? やりたくないことばかり延々やらされたら、時間の無駄遣いになってしまう。」
「でも、どうして雪乃ちゃんの親は行きたくない女子大に行け、何て言うのかしら。」
「どの学部でも、華道と茶道と、ついでに書道の授業が必修であるのよ。そういうのをマスターして、お見合いして良い方にお嫁に行くことを望んでいるのよ。それが女の子の幸せなんですって。」
「わーお。」私は思わず身を仰け反らせた。
「まりあちゃんは、親御さんから望まれていることって、ないの?」
「私は、」頭を巡らせてみる。「生きてさえいてくれればよいと、言われて育ったわ。病気だったの、ずっと。」
雪乃ちゃんは「まあ……。」と言ってサマンサ・タバサのハートの取っ手を握っている私の右手を両手で包み込んだ。
「まりあちゃんは大変な思いをしてきたのね。私は頑丈な体だったから、そんなこと言われた例ないわ。華道に茶道に書道に、それからピアノにバイオリンに英会話、バレエ。随分たくさんの習い事もさせられたし。」
「凄いわ! そんなに色々出来るなんて。」
「何もかも無理矢理だったもの、上達なんてするはずがないわ。好きでやらないと何でもダメな気がする。その点まりあちゃんは素晴らしいわ。その、佐渡島みたいな形したギターいつか聴いてみたいな。郷愁誘うメロディーが聴けるのかしら。」
ううん、と私は唸った。「郷愁とはだいぶ違う気がするわ。私が弾く曲は絶望とか、憤怒とか、憎悪とか、そういう負の感情をテーマにしたものだから。」
「そうなの? でも私もベートーヴェンの『悲愴』好きよ。美しくて。」雪乃ちゃんはにっこりと微笑んだ。どこか違うような気もしたが、あまり『悲愴』について知らなかったので、「一緒ね。」と話を合わせておいた。
そして雪乃ちゃんは次回提出のレポート準備のために、私は決戦のために、また明日の授業に一緒に出ることを約束して、ここで別れた。
Beethoven 「Pathetique Sonata」
https://www.youtube.com/watch?v=Ms4wtCcslO0