二十三章
そこで似合わぬ太陽の光を背に、ステージ裏でビールケースにしゃがみ込んでギターを弾いていた高宮が、「遅ぇな、どこほっつき歩いてんだ。」と、手を止めて睨んだ。その隣には、同じくビールケースを椅子代わりにエアタム回しをしている源藤がいる。
「宣伝よ、宣伝。雪乃ちゃんにも手伝って貰ったの。そうね、ざっと百人には伝えて来たわ。」私は両腕を腰に当てて高宮を見下ろし鼻で笑った。しかし高宮は何も感ずる所はないという無感動さで、視線をネックへと向け続きを弾き始める。私もたしかにあの人種に宣伝をしたところで来てもらえるかは怪しいことに気付き、ため息ついでにふと視線を上げた。するとこの裏手から見る、ステージの前に広がった風景に息をのんだ。「ねえ、見て。」湖上には雲が映じ、しかもキラキラと陽光が反射していた。そして空は――、もっと圧倒的な、まるで印象派の絵画だった。オレンジ色から紺色まで丹念に描きこまれた、色彩の魔術。「凄い……。こんな場所で出来るなんて、……幸せ。」
高宮は鼻を鳴らし、再びリフを刻み始める。
「それも小野瀬様のお陰だかんな、感謝しとけ。」源藤が頭を激しく振りながらエアツーバスを踏み込み、言った。
「あれ、小野瀬は?」
「礼だろ、女への礼。何せトリだからな。相当弾んでるんだろ。」源藤がイヤホンを外して言った。 「でも、まあ、あと三十分で出番だから、そろそろ来んだろ。」
私はギターを取り出し、チューニングを始める。少しばかり指を動かすと、小野瀬がやって来た。
「いい感じだろ、見ろよ。」
自分の手柄を誇示するように、小野瀬はステージの向こう側を指さした。そこには紺青から薔薇色までの見事なグラデーションが滲み絵のように空を彩っていた。雲はそれらに立体感を与え、神々でも降臨し得るような荘厳な雰囲気を醸し出していた。
「ありがとう、小野瀬。素敵。」私は泣きそうになりながら、そう呟いた。次いで嗚咽が出そうになり、慌てて呑み込んだ。
「そういやさ、お前の我儘って大抵最高の形で叶えられるよな、腹立たしい野郎だな。」小野瀬は台詞と裏腹に、陽に照らされた綺麗な横顔を見せ付けながら笑った。
「そうね。ブラックも、エクスプローラーも、エフェクターも、ここのギタリストの座も、学園祭ステージも。痛切に祈ると、叶うの。特技よ。」
「めでてえ野郎だ。」小野瀬は口角を上げながら、辛うじて睨んだ。
「あと私の夢は、高宮の曲を一人でも多くの人に聴かせること。これも直に叶うわ。」
今演奏をしているパンクバンドの音が遠く聞こえる。私は涙が零れないよう顔を上げ、必死に空を見続けていた。空は刻々と変化していくものの、その美しさは相変わらず例えようのない感動を与え続ける。私もこんな風な音を奏でられたら――。どんな曲であれ、一瞬一瞬が胸に響く音を紡ぎ出せたら――。
そして出番が来た。
いつものレクイエムのSEが流れ出す。ただし足を踏み出す場所は、いつもの暗闇ではなく光溢れる絵画的風景の中。
源藤と小野瀬に続き、ステージへと続く階段を上る。
「うおー!」という野太い歓声が上がる。まさかと思い驚いて観客を見ると、最前列を支配しているのは光る棒を持った先程の男子学生たちだった。私は慌てて観客に背を向けアンプに向き合い、音作りの振りをしつつ高宮を一瞥した。高宮もこの客層に戸惑いを隠せない様子で、首を傾げながらアンプのつまみを弄っている。もちろん今更音作りに悩んでいるわけもなく、完全にいつもとは異質な観客にこの獣王も圧倒されているのだ。私は噴き出すと、ちらちらと高宮を見ながら自分のセッティングを行った。高宮は視線を揺るがせながら最後に私を呆気にとられた様子で、見た。
私は高宮に丁寧ににっこり微笑むと、セッティング終了のアイコンタクトを源藤に送った。源藤は元より観客が誰であろうとお構いなしらしい。相変わらずスティックを手にストレッチを簡単に行うと、三人を見回した。幾分焦燥した小野瀬が振り向き、渋々、と言ったように高宮が振り向いた合図で、ツーバスを踏み鳴らした。
地割れ。
観客は一気に暴発した。
私は目前に広がる滲み絵の如き空を仰ぎ、激しく頭を振った。私は卑小な存在だけれど、取るに足らない存在だけれど、それと対峙するに相応しいリフを力強く弾くことは出来る。
高宮が吠えた。
嗚呼、これだ。この音を出すために、私は生きている。満身が震え出した。体の奥底から歓喜が突き上げる。そして遂に堪え切れずに涙が溢れ出した。振り払おうとした時、目の前の雪乃ちゃんに気付いた。男子学生に死守されながら、必死に手を振って感極まって泣いている。それを見て、私の頬にも第二陣の涙が伝った。
すると今度はその奥に寄り添うようにパパとママがいた。うっとりと微笑みながら私を真正面から見詰めている。優しい笑顔で。院内では決して見られなかった光景だ。いつも悲しみに襲われ、涙を流し、それが似合うのかと思っていた。けれど、そうではなかった。笑顔の方が百倍も似合うじゃあないか。「ありがとう」口先でそう言った。二人が私の命を諦めないでくれたからこそ、私はこうして二度目の人生を誰よりも謳歌している。
そしてその隣にはフェミニスト先生。信じられないことに、先生は真っ白なキャミソールにパンタロンを履いていた。学園祭仕様なのだろうか、それとも私たちのファッションに先生なりに合わせてくれたのだろうか。フェミニスト先生は私の驚きに気付いたらしい。何とウィンクまでした。それから更にその奥には仙人教授。いつもの作務衣を纏ってはいるが、乾坤一擲とばかりの気迫は薄れ、唇をきりりと結んだまま笑みを浮かべ、何度も肯いてくれている。それから、遥か奥には――。三坂がいた。いかにも詰まらなさそうに、校舎の壁に背を凭れさせながら。でも、私はここを譲らない。そう思って練習を積んできた。あなたを納得させるために。その過程で、私はここに来るために、二度目の生を受けたと確信した。そのきっかけをくれたのは、あなただ。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
私は何度も頭を振り、高宮の曲の一音一音を刻み、奏でた。高宮は吠え狂い、そのメロディーの美麗さと真っ向から対決する戦場的音楽を具現化した。
これが私の人生。これが私の与えられた命。曲は次々へと展開する。全てが完璧だった。否、完璧以上の力があった。これは本当に、私たち四人が創り上げているのか。そう疑念が擡げる程に。空の上におわします神でもが手助けをしてくれるとしか思えない、音楽だった。芸術だった。私は得たのだ。誰にも屈しなくてよいのだ、それだけの強さを誰もが持って生まれたのだ。
空はほんのりと紺色が濃くなり始め、夜の始まりを告げていた。




