二十一章
学園祭直前の休日に雪乃ちゃんとCecil McBeeのショップへ行き、散々試着に試着を重ね決めたのは、ギンガムチェックのフレアワンピースだった。肩紐の付け根にはハート型のラインストーンが付いている。雪乃ちゃんがミントで私がピンク。それとお揃いの白に大ぶりのリボンコサージュの付いたサンダルもDIANAで買った。雪乃ちゃんと一緒にいると、一日があっという間に過ぎ去ってしまう。お洋服の趣味も同じだし、話も合う。普段荒くれの男とばかり喋っていると何だか置いてきぼりにされているような気がして、焦燥感のようなものに襲われることが多々あるけれど、雪乃ちゃんと話している時にはそれは全くの皆無だ。
一日中お買い物に回り、喫茶店にも寄って、この上なく満足な気持ちで雪乃ちゃんと電車に揺られながら、帰途に着く。
「すっごく可愛いワンピよね。花柄と水玉と悩んだけれど、こっちにして絶対良かった!」雪乃ちゃんが愛おしそうにワンピの入った紙袋の中身を覗いた。その時電車が大きく揺れ、雪乃ちゃんも転びそうになったけれどすぐに体勢を戻して、笑った。
「ねえねえ、ヘアスタイルはどうする?」私が聞くと、
「アップが可愛いと思うの。まだ暑いし。でもポニテかツインテどっちがいいかな。毛先をカールすると可愛いわよね、私が持ってるヴィダル・サスーンのコテすっごくいいから、当日、持って来るね。やってあげる。」雪乃ちゃんは私の髪の毛をちょっと摘まんで、硬さを確認した。
「まあ、素敵。うんと高い位置で、ちょっと横目のポニテはどう? ギンガムの柄のシュシュ見つけるか、布買って来て作りましょうよ。」
あまりに素晴らしい発案に二人で両手を握り合った。
「まりあちゃんものステージは何時から?」
「それがトリで五時からなのよ。案内状を作らないと。」
「さっき、ディズニーストアで買ったやつね!」
「雪乃ちゃんにも書くわ。あと、パパにママに、仙人先生でしょ? フェミニスト先生でしょ?」私はひとつひとつ指を折って確認する。
「まあ、素敵! パーティーみたい。私、ハート型のクッキーをたっくさん作って、お客さんにお渡しするからね。」
「本当に?」
「勿論よ。だから、まりあちゃん、頑張って。」雪乃ちゃんは私の手を握って、ぎゅっと目を瞑った。
「ありがとう。私にとってこれは一世一代の勝負なの。一般の人にも高宮の曲の素晴らしさを伝えられるか、どうかの。」
「大丈夫よ。」雪乃ちゃんは眉間に皴を寄せながらそう言って、深々と肯いた。
「私も最初はホラー映画みたいで怖いって思ったけれど、ギターのメロディーの美しさに、涙が出そうになったもの。高宮さんのおっかない風貌の内側にある素敵な世界に触れたら誰もが驚嘆すると思うわ。」
「そうよね。ここで成功して、神戸に行くんだから。」
「神戸!」
「ええ。遂に決まったの。学祭の翌週なの。」
「……まりあちゃん、その、前のギタリストさんに褒めてもらえるといいわね。」
「褒めて!」私は一瞬言葉を喪った。「そんなこと考えてなかったわ。でも後継ぎとして認めてもらえると、いいな。」溜息が出た。
郡司さんがどのような思いで高宮の曲を弾いていたのか、CDの音を聴いていれば、わかる。実家の後を継ぐというのっぴきならない事情がなければ、きっと今も意気揚々と弾き続けていたのに相違ないのだ。その後釜として誰が入ったとしても、複雑な思いは消せないだろうとは思っていた。そんな人じゃないと皆口を揃えていうけれど、私は実際には郡司さんのことは知らないのだし、安易に納得は出来なかった。だって私だったら、絶対に嫌だ。病気か何か、やむを得ない事情でこのギタリストの座を追われたとして、次にどんな超絶技巧のギタリストが入ったとしても、心のどこかでは悔しいとか、切ないとか、苦しいとか、そんな負の感情が込み上げて来るのを抑えられる自信がない。
「精一杯やるだけだわ。」私はそれらの思いを振り払うように言った。「その前にとりあえずは、学園祭。このお洋服着て、皆の前で弾けるなんて、とっても楽しみ。帰ったら早速案内状を作成しなくっちゃ。」
ゆっくりと私の家の最寄り駅に電車が停まると、また明日ねと言い合って下車をした。家へ着くと早速案内状作成に取り掛かる。ショップの袋を開けると、先程買ったばかりの、表紙はプリンセスの影絵をレースの輪っかが囲んでおり、中を開くと、縁にはプリンセスが並んでいるスペシャルなカードが出てきた。私は羽根ペンを取り出すと、「学園祭でライブを行います。是非いらしてください。」と認めた。それから日時と場所も書き添え、最後にお気に入りの香水を振り掛け、五通ばかり完成させた。
早速リビングに降りパパとママに渡すと、二人とも挙って褒め称えてくれた。第一に案内状のセンスが秀逸、それから楽器を演奏できるのが素晴らしい等云々。私は身をくねっと捩ってありがとうと言うと、残りはバッグに忍ばせた。雪乃ちゃんと、仙人先生と、フェミニズム先生の分だ。明日にも渡そう。私はとても幸せな気持ちでギターの練習を始めた。皆が私のギターを聴いてくれる、そうして私が感嘆して止まない高宮の音楽を共有できるということはこの上ない僥倖だった。それを可能とした立場にいる、いさせてもらえる、これは感謝してもし切れないことなのだった。一時でさえ、忘れてはならないことなのだった。
そして学園祭当日がやって来た。
やはり私の祈りは完璧なまでに、通じた。黎明と共にベッドから抜け出し、ローラアシュレイの薔薇柄のパジャマを着たまま窓の外をじっと見詰める。暫く経つと燃え立つような旭日が昇り、雲一つない空が広がり始めた。私は喜び勇んで例のギンガムチェックのワンピースを着て、ギターを手に学校へと向かった。ママとパパは「夕方には行くからね。」と言って手を振って送り出してくれた。
部室に到着すると、既に高宮がいて、窓枠に凭れ掛けながら不機嫌そうに外を見下ろしていた。
「あら、随分早いのね。出番は夕方からよ。」
「お前もな。」
「私は練習よ。経験の無さは練習で補わなければ。」
「それでぶっ倒れたんじゃ、元も子もねえ。」
一瞬怯んだが、「限界突破はしないつもりよ。そこそこよ、そこそこ。」
私はシールドを繋ぎ、アンプの電源を入れた。先ずは運指のストレッチにもなるコード練習。続いて音の強弱を明確に付けるためのジャズを弾き、今日演奏する曲に入る。
「お前、上達したよな。」高宮がそうぷつんと呟いた。
「えー! 嬉しい!」飛び上がった私を見て、高宮は益々不機嫌そうに睨んだが、そんなことはお構いなしに続けた。「そうなの、だって、あなたの曲なら無限に練習できるんだもの。大学入る前までも練習はしていたつもりだけれど、一音一音にかける熱意があなたの曲とそれ以外ではまるで違うわ、完璧に。」
高宮は聞こえないかのように、相変わらず窓の下を見下ろしていた。
「……ねえ、そういえば。」
「あ?」
「あなた、私が入学した日もそうやって下眺めてたわよね。それ、癖なの?」変な聞き方になってしまった。
「癖?」頓狂な声で繰り返す。「癖、っつうか」漸くこちらを見た。「こんだけ人の多い大学で、どういう奴がいるのか気になるじゃん。」
「へえ、気になる?」
「多分どいつもこいつも、何の接点もねえまま卒業していくんだろうけれど、同じ時期に同じ場所にいる必然性、みてえな、そういうの、あんのかなって。何となく。」
的を射ない答だったけれど、何となく解せた気がして、言った。
「それってさ、高宮が多くの人たちと接点を持ちたいって、思ってるってこと?」
高宮はぎょっとして目を見開いた。
「でも少なからず、音楽含め芸術っていうのは人に奉仕するものなんだから、人が好きでないとやっていけないわよ。高宮は喋らないし、たまに喋ると口は超絶悪いし、タトゥーに赤髪に、誰が見ても取っ付きにくい風貌だし、取っ付いてくるのは職務質問目当ての警官ぐらいなものだけれど、心の奥底では、人に尽くしたいっていう思いがあるのよ。そうでなければ、あれだけの曲は作れないはずよ。」
高宮は肯くでも否定するでもなく、首を傾げてゆっくりと再び外を見た。
「何であの時、私に声を掛けたの?」
暫く沈黙が生じた。
「……何か。……すっげえ浮いてたからさ。」
「そんなことないわよ。スーツもちゃんと着ていたし正統的新入生だわ。」
「それ。異星人が一生懸命地球人の振りしました、みてえな感じ。」
私は高宮を睨んだ。でもふと思い成す。
「でも、まあ、そうかもしれないわね。だって、私入学式なんて、人が詰まった学校なんて、初めて来たんだもの。あんなに多くの同級生を、初めて見たんだもの。」
「そんで、エクスプローラー持ったまんま茫然と立ち止まっててよお。そのまま帰っちまうんじゃねえかと思って、呼び止めた。」
「そんな、帰りそうなそぶりに見えたの? 初日から入学式も出ないなんて、ありえないわよ。」
「オリエンテーション、サボったろうが、よ……。」と言って窓枠から降りた。「まあ、エクスプローラー選ぶ時点でそうそうあちこちには居場所がねえ奴だってことはわかっからな。ボランティアだよ、ボランティア。」
「ふうん。」高宮お得意のボランティアだ。
そこに小野瀬が入って来た。
「早っ! 出番はトリだって言ったじゃねえか。……お前、外で雪乃ちゃん待ってんぞ。」
「え、あ、うん。じゃあ、また夕方になったら来るわ。楽器置いてくわ。いくらクールでかっこよくても、触っちゃだめよ。」
そう言い捨てて階段を一段飛ばして降りると、お揃いのワンピを身にまとった雪乃ちゃんが待っていた。お互いにきゃー、と言って手を振る。
「どこから回ろうか。さっきね、すっごい可愛いお店見つけたの。パンケーキ屋さん。」
「素敵! 行こう行こう。」
私たちは手を取り合いながら一変した校内へと足早に歩き出した。
学園祭というのは、素晴らしいものだった。まず私たちが行ったのは、文化学類の女子勇志による、ハート型のパンケーキに好きなジャムとクリームをたっぷりかけてもらえるパンケーキ屋さんで、そこでパンフレットを広げ、これから夕方の作戦を練った。その後、作戦通り、芸術学群の卒業制作展覧会を見て(郡司さんの友達の作品は案の定無かった。)、体育学群ラグビー部のオカマバーで美容によいりんご酢を飲み、その足で雪乃ちゃんの友達が出ているファッション・コンテスト(かつてミス・コンテストだったのがフェミニストの反対に遭い、ファッション・コンテストに名前を変え、実施されるようになったらしい。うちって、フェミニズムが相当強い大学なのかしら。)をキャンパスの北端にある体育館裏のグラウンドまで見に行ったら、双子コーデが目立つためか、ステージ上でマイクテストの準備をしている司会者に声を掛けられた。
「そこのお揃いのワンピース着たお嬢さん方、ちょっと!」派手な蝶ネクタイの男子学生がそう言ってこちらにマイクを向ける。
「ファッション・コンテストの出場者ではありませんよね?」
「違います。お友達が出るので、見に来ただけ。準備が終わったらまた来ます。これから、綿あめと占いの館にでも行ってきますわ。」私がバイバイ、と手を振り掛けると、蝶ネクタイは慌ててステージから降りてきた。
「実は、今日腹痛で急遽出られなくなってしまった人がいるんですよ。代わりに出て貰えませんか。お願いしますよ。この通り。」
蝶ネクタイは両手を合わせる。一人ぐらい足りなくたって何か問題があるのかしら、と思ったけれど蝶ネクタイは必死だった。でも明らかに雪乃ちゃんは嫌そうな顔をしているし、私も興味は全く無かった。
「ごめんなさい、私、夕方から湖上ステージでギターを弾く予定があるんで。」
「それじゃあ、ちょうどいい!」蝶ネクタイはぱん、と両手を叩いた。「この舞台でそれ宣伝したらよいですよ。ね、二人でものの二、三分喋って貰えれば、それで終わります。あなたたち、とってもキュートなファッションだし、この催しのコンセプトにばっちりなんですよ。ね、お願い。」
ライブの宣伝をしてよい――。私はその言葉に心臓を射抜かれる思いがした。高宮の曲を、一人でも多くの人に聴かせたい。その為に小野瀬が尊い犠牲を払い、枠を取って来たのではなかったか。私はそれに甘えるだけでよいのか。自分が尽力できることはどんなことであれ尽力するのが、筋ではないのか。
「……雪乃ちゃん、お願い。一緒に、出て。」
私よりも更に深刻に雪乃ちゃんは、深く肯いてくれた。
「……まりあちゃんは一緒に書道も出てくれたし。このくらい、何てことないわ。ママに禁じられた言葉で言うならば、屁でもないわ。」




