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Explorer Baby  作者: maria
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十六章

 ある晴れた夏休みのある日、いつものように未だ薄昏い内から練習に行こうと、庭の真中に長々と敷かれたオレンジ色の煉瓦道を歩み出した瞬間、視界が歪んだ。ぐるりと周囲が回転したような気がして、私はその場に倒れた。咄嗟にギターを庇おうとして、ネックを抱き締めたのか、抱き締めたいと思っただけなのかはわからない。私は意識を失った。

 気付けば家ではない、病院のベッドだった。私が最も忌み嫌っていた、ひも状の回虫みたいな模様が点々としている天井。時間の経過を唯一示している点滴。そして日の光を暈し、世の全てを曖昧模糊とするカーテン。

 ふと、私は懐かしさを感じると共に、大学生活やバンド活動が、全てが夢だったのではないかという絶望に襲われ、混乱した。違う、という思いと夢だったという思いが激しく交錯し、大声で喚きたくなった。そうでもしなければ落ち着けなかった。誰かを呼ぼうとして、声が出ない。顔には鼻、口を覆う呼吸器が付けられていて、それがうっすらと曇っただけだった。

 そこに看護師さんがやって来た。三十歳くらいの、落ち着いた人だった。看護師さんは私を見て、一瞬目を瞠り、「気が付いたのね。よかった。今、ドクターを呼んできますね。」と言った。

 それから間もなくお医者さんと看護師、ママがやってきて、お医者さんはあれこれ私の体を検分し、「数値はまだ良くないですが、一週間も入院して栄養をたっぷり取って休めば治りますよ。まあ、過労ですね。」と言った。私はそれに対して「ありがとう。」と微笑みたかったけれど、無理だった。それよりも、「過労」と聞いて私は涙ぐむ程安堵した。過労は大学に行っていたことの、証だ。夜を徹してギターを弾いていたことの、証だ。夢では無かった。全ては現実だった。

 でも、現実だとすると?

 今日の練習はどうなってしまうのだろう。というか、今日はいつなのだろう。聞きたかったが喋れはしないし、指一本動かせそうもなかった。とにかく、とてつもなく疲労していた。気を抜けば眠りに引き摺りこまれていく。何も考えられない。意識だけが浮遊した。

 ――DEATH SENTENCEDのギタリストとしての居場所を、誰にも取られたくない。

 ――関西に行って、郡司さんの前でプレイしたい。

 ――荒々しいオーディエンスの笑顔が見たい。

 気付くと日中だったり、夜だったりした。時間の感覚は完全に無くなっていた。ただ点滴が増えたり減ったりしていた。私がこうしていることを、高宮も源藤も、小野瀬も、雪乃ちゃんも誰も知らなくて、次第に忘れていってしまうんじゃあないか、そう思うと胸の奥がごつごつするような耐え難い痛みを感じた。忘れられることは死と等しい。そうならないために、私は意識の操作できる内には頑張って、とりあえず高宮に「私はここにいます。過労が癒えればギターを弾けます。忘れないでください。」と念を飛ばし続けた。あの赤い髪に、あの模様だらけの腕に、あの荒々しいデスボイスに。あの細い目に、あの不機嫌そうな唇に、あのどっかりと構えた腰に。片っ端から目の前にあるものとばかりに強く、強く、イメージした。

 思えば、私は物心つく頃からこうして祈り続けていたような気がする。体が動かない分、ひたすら内面だけが肥え太り、寝たまま様々な欲望を叶えようと苦心してきた。今思えばアンバランスな生き方だけれど、それしかできなかった。でもその祈りは強靭だった。憧れだったブラックの来訪だって叶えた。希求していた限定品エクスプローラーだって、呼び寄せた。祈れば、何だって叶う。体の動かない人間に与えられた特殊能力を、再び使う時が、来た。

 ブランクがあるためか、祈りの成果はなかなか見えてはこなかった。相変わらず声が出ないのが最もいけなかった。喋れさえすれば伝言を頼めるのに。しかも気を抜けばすぐに、意識が飛んでしまう。そうして意味も無いパステルカラーのパッチワークみたいな夢を次々に見るのだ。

 でもそれだけは幸福な夢だった気がする。音が鳴っていた。地を震わせる、力強い音が。美しいメロディーを従えて。だから私は幸福に目覚めた。ぼんやりと目を開けると、そこには黒い人影があった。

 人影は看護師が発している義務感でもなく、かといって両親の限りない憐憫でもなく、当然の如く、ごく自然に私を見下ろしていた。

 「解るか?」

 黒い身なりで白いこの世界にやって来るのは一人しかいない。私は堪らなく嬉しくなって、必死に肺を、喉を振り絞った。「ブラック」

 それは確かに声だった。随分しゃがれていて殆ど空気が漏れたのも同然だったけれど、言葉が出た。私は突き上げるような歓喜を覚えた。

 ブラックは暫く黙った。

 「……無理させて、悪かった。」

 何も悪いことはない。私はこんなにも幸福な音楽に包まれているのに、なぜ謝っているのだろう。

 「お前が治るまで、いつまでも待つ。うちのバンドのギターはお前しかいねえから。……やっとオファーが来たんだ。皆で神戸に行こう。」

 ああ、夢にまた呑み込まれる。幸福な音が鳴り響く。でも、ブラックは随分元気がないようだけれど、これで悪い奴等と戦えるのかしらと、一縷の心配が胸を過った。レッドとブルーと、イエローとピンクはきちんと手助けしてくれるのかしら。どこにもいないようだけれど。一人ぼっちで元気を失った、可哀想なブラック。私が側にいてあげよう。力づけるために、ギターも弾いてあげよう。

 「……弾いて、あげる。」私は再び満身の力を込めて、声を発した。そしてギターを弾けるという証明のために、指を動かして見せる必要があった。既に声を発したためにもう力は出し尽くしていたが、布団から偶然に覗いていた人差し指を僅かに動かすことができた。これは一音半きっかりのチョーキングだ。ブラックは見えただろうか。確認を取りたかったが、それだけも疲弊は極限に達し、今度は流石に夢に丸呑みされた。その瞬間、額にほんのりと温かい感触があった。

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