十五章
翌日、朝から授業にせっせと顔を出し、昼の学食でレコーディングしたばかりの音を雪乃ちゃんにiPodで聴かせると、雪乃ちゃんはうっとりした顔で「素敵なギターねえ。最後のクイーンって音が、幼い頃飼っていたセッツァー犬の甘え声みたいだわ。」と言ってくれた。「まるで生きているみたいね。まりあちゃんのギターは、本当に、木からギターになったことを自覚しているのね。」
「これを今度ライブで販売するのよ。レコード店にも置いて頂くの。」
「まあ、素敵、きっと皆さん喜んで下さるわ。」
「それでね、ライブに来てくれたお客さんにクッキーをお渡ししたいの。雪乃ちゃん、協力してくれないかしら。」
雪乃ちゃんは大きい目を更に大きくして手を叩いて飛び上がった。お蔭で学食(小野瀬の実家の営むパン屋)にいた学生たちがぎょっとして私たちを見た。そんなことに一向に介しない雪乃ちゃんは興奮冷めやらぬ口調で続けた。
「そういうことなら、クッキーは、私が作るわ。まりあちゃんはギターの練習に専念して頂戴。」
右の掌をびしっと見せ付けて、いつにない生真面目な顔で雪乃ちゃんは凄んだ。
「それは、悪いわ。」
雪乃ちゃんは笑顔で顔を振った。「違うの。私、一度家族でもお友達でも何でもない、見知らぬ人達に食べて貰いたかったのよ。だからこれは私にとってもチャンスなの。」雪乃ちゃんはキラキラと光る目で私を見詰めた。
「だから次のライブ、決まったらすぐ教えてね。それに合わせて、百人分は、作るわ!」
「百人分!」私は驚いて言った。「そんなに、来て下さるかわからないわ。」
「来るわよ。」雪乃ちゃんは何も知らないのに、自信満々でそう言った。
そうと決まれば平生以上に練習に励むしかない。私は体育学部の学生に倣って、一時間目の始まる前に学校で朝練を行うことにした。ボロ部室は案の定誰も使っていないので、朝練は思い付いたと同時に開始できた。どうやらうちのサークルには多数のバンドが在籍しているようだったが、始終あの部屋を使用しているのは私たちと、それ以外には二、三のバンドしかないようだった。その理由を小野瀬に訊くと、「こんなボロ部屋じゃなくって、みんな駅前のいいスタジオ使ってるよ。」と不機嫌そうに答えた。「パワーアンプがあってさ、電源と機材のアンペアがちゃんと揃っててさ、おまけに冷暖房完備でさ、そういうところで俺らも練習してえよ。」
「高宮はボロ部屋が好きなのね。失礼だけれど、貧乏なお育ちなのかしら。」
「あいつんちが貧乏が金持ちかは知らねえけど、ここでいい音が出せて初めて、ライブでもいい音が出せるんだと。まあ、それは否めねえが。」
「ふうん。」
よくわからなかったけれど、そういう面もあるのかと、私は毎朝部室で練習を開始することにした。郡司さんの前で演奏が出来るのは、明日か、半年後か、一年後か、何もわからないけれど、重々念入りな準備をしておいて損はない。
私はふと郡司さんが今も呼吸をしている神戸の街を思った。TVで観たことがある。由緒正しき洋館が立ち並び、夜になれば海辺の街はキラキラと輝き、宝石箱のようになるのだ。そして昔から関西はへヴィメタルバンドが多く産出されていた。特に神戸は日本のフィンランドとも呼ばれているぐらいで、私も昔から憧れを募らせていたのだ。そこでライブをやるというのは、デスメタルギタリストとして出発をしたこの人生においてもとても重要な気がした。だから私はますますギターの練習に励んだ。まずは朝練、それから夕方からのバンド練習、そしてレポートの合間を縫って夜間の個人練習。時間は幾らあっても足りない。
私は遂には未だ人影もない、薄暗い早朝に朝練を前倒ししてボロ部室で練習に励むことにした。
「お前、何やってんの。」サークル棟に向かおうと早足で歩いている所にそう低い声が背後に響き、私は咄嗟に叫んだ。「きゃ-!」息の続く限り、ここぞと腹の底から叫んだ。私は運動は極めて苦手だ。そもそも取り組んだことさえない。走ったところで男の足からは逃げ切れまい。だから私はハリネズミを模倣し、両目を覆ってしゃがみ込んだ。テコでも動いてやらないのだ。みっちりと、両足に力を入れた。しかし私の両腕はいとも簡単に捩じり上げられ、目の前には、高宮がいた。
Thousand Eyesの狂犬が上下左右に吠える絵柄のTシャツに赤髪をポニーテールに結び上げ、首にタオルを巻き、スパッツにハーフパンツ、ナイキのスニーカーという出で立ちの高宮は、細い目をかつて見たことがないくらい見開いて、「俺だよ。何やってんだよ。」と言った。私は高まる動悸を何とか抑えつつ、「練習よ。」と答えた。
「そうか。」高宮も安堵したように、再び目を細めた。
「メタルの本場、関西に行って恥じない技量を身に付けなければならないでしょう? そのための練習なのよ。」ふんと鼻息を洩らして立ち去ろうとすると、不意に高宮が「お前、大丈夫?」と問うた。
「何が?」
「否、……何か、……顔色悪くねえ?」
私は月のものの最中だったのでそのせいかと思いつつ、しかしそんなことはとても言い出せたものではないので、「とても元気よ。」とだけ答えた。それどころじゃあないのだ。私には経験がないのだから、練習をするしかないのだ。
それから数日が経ち、バンド練習も緻密さを増していったが、なかなかベストなブッキングがないとかで神戸でのライブは未だ決まらなかった。その間に雪乃ちゃんはクッキーの試作を幾つもくれ、そのたびに感嘆しながら、日々は過ぎて行った。そして二カ月にも及ぶ夏休みがやって来た。
今年の暑さは殆ど狂気的で、戦後初だとか、気象庁が記録を開始して以来初めてとか、そんな恐ろしい冠詞の付く地域が全国あちこちに誕生した。
そんな最中の練習中に、「おい、マジで駅前のスタジオに入ろうよ。」小野瀬がタオルを頭に巻き付け殆ど目を見えないぐらいに覆いながら、情けない声を上げた。「暑過ぎんだろ、死人が出るぞ。言っとくが、バンド内殺人やらかしても人権保護とかの観点から牢内レコーディングが出来んのは、ノルウェーだけだかんな。日本じゃあり得ねえからな。」
「そんな泣き言を言って、女の母性本能を擽るのが、こいつのテクだ。」自身も汗だくになりながら、源藤はふふんと嘲笑った。
「違ぇよ、暑いからマジで苛々してんだよ。お前もさっきまで同じ学部の奴と、外で喧嘩してたじゃねえか。クソ暑くて苛立ってたんだろ。」
「違ぇよ!」源藤が般若のような形相でゴン、とバスドラムを踏み込んだ。「おっぱい募金なんつう、イベントがあったっつうんだよ! 駅前で、先週までな! 何で終わってから言うんだよ、だったら黙ってろよ、人間腐ってるにも程があるだろ! てめえだけいい思いしやがって、自慢かよ、ふざけてんのかよ! 俺にも募金させろや!」最後にシンバルまで鳴らした。怒りが込められ、なかなかの音だ。曲の最後に持って来たらとても気持ちが良いだろう。
「聞かなきゃよかった。くだらねえ。暑さが倍増した。」小野瀬は持ち込んだ2リットルのペットボトルを空け、水をがぶがぶと飲み出した。
「とにかくあれは暑さとは別問題だ。義憤だ。」源藤は顔中に滴る汗を、NORTHERのTシャツの襟を伸ばして拭いながら、そう答えた。「ドラマーは日頃から鍛えてっから、このぐれえの暑さでピーピー言ったりはしねえ。」たしかに源藤は細身ではあったけれど、よく脱いで見せている腹部は筋肉で割れていたし、三、四時間の練習時間ほぼ叩き詰めでも文句を言った例はおろか、プレイが多少でも疎かになることも無かった。
「お前はどうなんだよ。」源藤への説得を諦め、小野瀬は私に振った。
「ボロ機材で練習しないと、上達しないわ。」本当はそれとだけ口にするのもうんざりするぐらい体力は消耗しきっていたけれど、関西でプレイをする以上、甘さは禁物だった。何せ本場なのだ。高校生コピーバンドだって、ブランク二十年を数えるオジサマバンドだって、きっと一流のメタルバンドのような演奏をするに違いないのだ。
「三対一だ。歯食い縛ってやれ。」源藤が小野瀬に向かって言い、再びスティックを叩き練習を再開する。練習は過酷だったけれど、ステージではもっと過酷だ。ライトは熱いし、客が騒げば酸欠にもなり、頭が朦朧としたまま呼吸も忘れて弾かなければならないこともある。缶だのペットボトルをぶん投げられることも、まだまだあるだろう。そして殴り掛かられても、せめて数発は耐えられる体力を持っておかなければ、デスメタルバンドの一員としてはやっていられない。
そう、思い込んでいた。私は私の体の限界を、忘れていた。




